9:11 シオンに住まわれる主にむかってほめうたい、そのみわざをもろもろの民のなかに宣べ伝えよ。
9:12 血を流す者にあだを報いられる主は彼らを心にとめ、苦しむ者の叫びをお忘れにならないからです。
9:13 主よ、わたしをあわれんでください。死の門からわたしを引きあげられる主よ、あだする者のわたしを悩ますのを/みそなわしてください。
9:14 そうすれば、わたしはあなたのすべての誉を述べ、シオンの娘の門で、あなたの救を喜ぶことができましょう。
9:15 もろもろの国民は自分の作った穴に陥り、隠し設けた網に自分の足を捕えられる。
9:16 主はみずからを知らせ、さばきを行われた。悪しき者は自分の手で作ったわなに捕えられる。〔ヒガヨン、セラ
9:17 悪しき者、また神を忘れるもろもろの国民は/陰府へ去って行く。
9:18 貧しい者は常に忘れられるのではない。苦しむ者の望みはとこしえに滅びるのではない。
9:19 主よ、立ちあがってください。人に勝利を得させず、もろもろの国民に、み前でさばきを受けさせてください。
9:20 主よ、彼らに恐れを起させ、もろもろの国民に/自分がただ、人であることを知らせてください。〔セラ
一、苦しみと祈り
詩篇には、苦しむ人々の神への祈りが数多く収められています。「主よ、わたしをあわれんでください」(詩篇9:13)と、へりくだって祈る祈りもあれば、「わが神よ、すみやかに来てわたしを助けてください」(詩篇71:12)と、神を催促している祈りもあります。私たちは苦しい目にあったとき「どうして?」「どうして、わたしだけ?」("Why me?")と考え、そのことを口に出します。詩篇にも「なぜわたしを捨てられたのですか。なぜわたしは敵のしえたげによって悲しみ歩くのですか」(詩篇43:2)といった言葉があります。中には、神に不満をぶちまけるような祈りや神を疑うような言葉、落胆の中からのうめきさえあります。しかし、それがどんなものであっても、苦しむ者の叫びは神に届きます。不満や疑いであったとしても、それが神に向かっているかぎり、神はそれを受け止めてくださいます。そしてかならず、わたしたちに答えてくださるのです。苦しむとき、それを自分に向かってつぶやくだけでは解決はありません。自分に向かって "Why me?" と、いくら言ったところで、答えは返ってきません。他の人を恨んだり、回りの人にあたったとしても、いっそう自分を苦しめるだけです。長い人生を生きてきて、なんの不満も疑問も持たなかった人、どんな落胆も経験しなかった人は誰もいないと思います。"Why me?" と言いたくなることがしばしばあったでしょう。そんなときはそれを口にしてよいのです。しかし、忘れてならないのは、それを神に語ることです。苦しみにあったとき、その中でわけがわからなくなったとき、自分を支えきれなくなったとき、神を呼び求め、神に訴えるのです。神はわたしたちの苦しみや嘆きを知り、受けとめてくださいます。自分で自分の苦しみを乗り越えられないでいる弱いわたしたちを、愛とあわれみの目で、神は見ていてくださるのです。
詩篇で歌われている苦しみはとても具体的なものです。敵に取り囲まれて命の危険にさらされること、ありもしないことで非難されること、権力者によってしえたげられること、病気や貧しさに苦しむことなどです。それに比べ、現代のわたしたちが体験する苦しみは、その姿が見えてこない、はっきりしないものが多くあります。漠然とした不安、虚しさ、落胆、後悔、孤独、劣等感などです。それは人の心の奥深くに潜んでいて、物事がうまくいかなくなったときや他の人とぶつかってしまったとき、心も体も疲れ切ってしまったときなどに表面に表われてきます。コップに入れた泥水も、そうっとしておけば、泥が下に沈み、うわべはきれいに見えます。しかし、コップを動かすと泥水が表面に出てきます。心の奥深くにしまいこまれた問題も同じように、普段は隠れていても、何かの拍子にそれが浮かび出てきてわたしたちを苦しめるのです。今、自分を悩ましているものが、過去の自分の足りなさ、間違った対処のしかたのせいだったと、自分を責めると、苦しみが一層増します。しかし、神は、わたしたちのそうした苦しみにも目をとめ、心をかけてくださいます。神は、昔も、今も、そして永遠まで生きておられるお方です。古代の信仰者たちの祈りを聞いてくださった神は今も生きてわたしたちの祈りを、苦しむ者の叫びを聞いてくださるのです。だから祈りましょう。苦しいときこそ、神に祈りましょう。苦しみはわたしたちを神から引き離すものではなく、神に近づけるものです。
こんな話があります。ある町に年老いた女性が住んでいました。子どもは巣立ち、ご主人も亡くなり、ひとり暮らしでした。でも、健康に恵まれ、友だちもいて、心細く思ったことはありません。代々クリスチャンの家庭に生まれ、朝に夕に祈りと感謝をささげていました。けれどもその祈りは、いつしか形式的なものになってしまっていて、本気で祈るということがありませんでした。ある夜のことです。彼女が、いつものように、いつもの言葉で感謝をささげていると、突然窓が開いて、そこから男が入ってきました。この男は、彼女に刃物を突きつけ、「金を出せ」と脅しました。それで彼女は「神さま!助けて!」と、あらん限りの大声で叫びました。すると強盗は、その声に驚いて、入ってきた窓から逃げ出していきました。彼女の声を聞いた近所の人たちがその強盗を捕まえ、事件は一段落しました。彼女がやっと心を落ち着けたとき、神の声が彼女の心の耳に聞こえました。「あなたは、きょうはじめて、本気で、わたしに祈ったね。」切羽詰まったときに、きれいな言葉を並べた祈りなどできません。そんなときの祈りは率直で正直な叫びになると思います。神はそうした本気の祈りを喜んでくださいます。「苦しむ者の叫び」はかならず聞かれるのです。
二、貧しい者の祈り
詩篇9篇では、「苦しむ者の叫び」がかならず聞かれるということが、12節と18節に約束されています。「血を流す者にあだを報いられる主は彼らを心にとめ、苦しむ者の叫びをお忘れにならないからです。」(12節)「貧しい者は常に忘れられるのではない。苦しむ者の望みはとこしえに滅びるのではない。」(18節)
ここで「苦しむ者」と訳されている言葉は、新改訳では「貧しい者」、新共同訳では「貧しい人」となってます。「貧しい人」といっても、それは経済的に「貧しい」ことだけを指しているのではありません。この言葉は「曲げる」とか「押しつぶす」という動詞から出たもので、「圧迫され、低くされた人」という意味です。経済的な苦しみも含むでしょうが、さまざまな面で苦しめられている人々のことを指します。しかし、聖書で「貧しい人」という場合、それは、ただ苦しんでいるかわいそうな人たちというだけでなく、そうした苦しみの中でも神に信頼している人を指しています。人の力によって押しつぶされ、低くされたというだけでなく、神の前に自分の弱さ、足らなさ、罪深さをを自覚し、自らを低くしている人のことを言うのです。イエスは山上の説教で「こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである」(マタイ5:3)と言われました。主が言われた「貧しい人」とは、たとえ圧迫され、苦しめられても、あきらめずに神の国を待ち望み、神に信頼する人々のことでした。
18節の「貧しい者は常に忘れられるのではない」とは、大胆な宣言です。ジョンソン大統領やブッシュ大統領の名前がフリーウェーにつけられるように、この世では力ある人の名前は残ります。財産のある人は自分の名前がついた建物を建てたり、財団を組織したりするでしょう。また特別な才能のある人たちのためには、その名の博物館が建てられるでしょう。しかし、この世で力もお金も才能もない人の名前は覚えられることはありません。けれども、神に信頼する者は、この世ではその名が覚えられなくても、神には覚えられているのです。
ルカ16章に「金持ちと貧しい人」のお話があります。こう書かれています。
ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。この貧しい人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。(ルカ16:19-22)
金持ちは毎日ぜいたくに遊び暮らしていましたが、貧しい人はその日の食べ物にも事欠いていました。その上、この人は全身ができ物でおおわれた病人でした。からだを動かすこともままならなかったのでしょう。金持ちの家の玄関の前に座って、その家の食卓のおこぼれで飢えをしのごうとしたのです。しかし、誰からもかまってもらえませんでした。ただ犬だけが彼の側にきて、彼のでき物をなめていました。アメリカやヨーロッパでは犬は家の中で飼われ、家族の一員として大切にされますが、中東の国々では、犬は家の外で番犬として飼われています。今でもそんな状態ですから、聖書の時代には、犬は「汚れた動物」とされていました。この人は、人の目には、そんな犬同然、いや犬以下にしか映らなかったのです。
しかし、神の目には、この貧しい人は覚えられていました。主は金持ちには名前を付けておられませんが、貧しい人には「ラザロ」という名を付けておられます。金持ちの名前はその町に知れ渡っていたでしょうが、この人の名前は誰も知らなかったでしょう。この人はホームレスであるばかりか、ネームレスでもあったのです。ところが、聖書では金持ちには名前がなく、貧しい人に名前が与えられています。それは、貧しい人が神に覚えられていたことを表わしています。
ラザロについて「御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた」と書かれています。ラザロは天に迎えられたのです。ラザロにそんな恵みが与えられたのはなぜでしょう。ラザロが地上で苦しんだから、その報いを受けたのでしょうか。それだけではありません。それは、ラザロが神に信頼していたからです。ラザロが行ったところは「アブラハムのふところ」と言われていますが、このアブラハムはユダヤ人の先祖となった人ですが、同時に、その信仰によって、後に神を信じるすべての人の「信仰の父」となりました。ですから「アブラハムのふところ」とは信仰によってアブラハムの子となった人たちのいるところ、天の信仰者の集まりを指しています。ラザロは、苦しみの中で、自分では何一つできない弱さの中で、神を信じ、ただ神にだけ頼りました。その信仰によって天に迎えられ信仰者のまじわりの中に安息を得たのです。
「ラザロ」という名前には「助け無き者」という意味があります。わたしたちは物事がうまく行ったり、何かを成し遂げたり、人よりも有利な立場に立ったりするとき、自分は何にも、誰にも頼らないでそうしたことができたのだと、思い上がってしまうことがあります。しかし、ラザロは自分が「助け無き者」であることを知り、認め、それゆえに、ひたすら神に頼りました。自分の乏しさ、弱さ、無力さを知る。そして神に頼る。主イエスが祝福された「貧しい人」とは、そのような人です。
ラザロについて「ラザロという貧しい人がいた」と書かれていますが、この「貧しい人」という言葉は、「こころの貧しい人たちは、さいわいである」で使われている「貧しい人」と原語で同じ言葉です。ラザロは「貧しい人」の代表としてここにしるされているのです。たしかにラザロは「貧しい人」の見本のような人でしたが、実は、ラザロに勝って貧しい人がおられます。それはイエス・キリストです。イエスは貧しい人たちを祝福されましたが、じつは、本当に「貧しい人」とはイエス・キリストご自身だったのです。イエスほどご自分を低くされたお方はありません。大きな苦しみにあうとき、わたしたちは、「わたしの苦しみは誰にもわからない。神にもわからない」と思ってしまうことがあります。しかし、キリストの知らない苦しみはありません。神の御子は人の苦しみのすべてを体験してくださいました。いいえ、キリストは神から引き離されるという極限の苦しみさえも味あわれました。それは、わたしたちがその苦しみにあわなくて済むためでした。ですから、このお方によって癒やされないものは何ひとつないのです。
アイルランドの詩人トマス・モアはこんな賛美歌(賛美歌399、新聖歌443)を書きました。
Come, ye disconsolate, where are ye languish,"Earth has no sorrow that heaven cannot heal."「天の力に癒やし得ぬ悲しみは世にあらじ。」そのとおりです。キリストご自身が「貧しい人」となってわたしたちと共にいてくださる、わたしたちのために祈ってくださる。これ以上の慰めや希望が他にあるでしょうか。
来なさい、慰めの無い者、しおれている者
Come to the mercy seat, fervently kneel.
来なさい、あわれみの御座に、そこに膝まづこう
Here bring your wounded hearts, here tell your anguish;
ここに傷ついた心を携え、ここで苦悶を語ろう
Earth has no sorrow that heaven cannot heal.
天がいやせない、地上の悲しみは、何一つないのだから
この世では、金銭も、権力も、能力もない人には希望がないと思われています。コネやツテを無くし、健康を損ない、社会的信用を無くしてしまったら、もう絶望しか残っていないと言われます。しかし、神を信じる者に、希望はなくなりません。神はどんな場合でも、貧しい者、悩む者、神により頼む者をお忘れになりません。「貧しい者は常に忘れられるのではない。苦しむ者の望みはとこしえに滅びるのではない」のです。だからわたしたちは希望を失いません。この希望によって祈り続けるのです。
(祈り)
父なる神さま、あなたは旧約の時代から、苦しむ者、貧しい者の叫びは必ず聞かれると約束してくださっていました。この約束は、イエス・キリストによってさらに確かなものとなりました。この週も、一日、一日を御言葉の約束によって導かれ、励まされていくわたしたちとしてください。わたしたちのためにみずから「貧しい者」となってくださったイエス・キリストのお名前で祈ります。
10/19/2014