62:1 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。
62:2 神こそわが岩、わが救い、わがやぐら。私は決して揺るがされない。
62:3 おまえたちはいつまで一人の人を襲うのか。おまえたちはこぞって打ち殺そうとしている。城壁を傾け、石垣を倒すように。
62:4 実に彼らは、人を高い地位から突き落とそうと企んでいる。彼らは偽りを好み、口では祝福し、心では呪う。 セラ
62:5 私のたましいよ、黙ってただ神を待ち望め。私の望みは神から来るからだ。
62:6 神こそわが岩、わが救い、わがやぐら。私は揺るがされることがない。
62:7 私の救いと栄光はただ神にある。私の力の岩と避け所は神のうちにある。
62:8 民よ、どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。 セラ
62:9 低い者はただ空しく、高い者も偽りだ。秤にかけると彼らは上に上がる。彼らを合わせても息より軽い。
62:10 圧制に頼るな。略奪に空しい望みをかけるな。富が増えてもそれに心を留めるな。
62:11 神は一度告げられた。二度私はそれを聞いた。力は神のものであることを。
62:12 主よ、恵みもあなたのものです。あなたはその行いに応じて人に報いられます。
一、日本人の信仰
「いわしの頭も信心から」ということわざがありますが、これは節分の行事に由来しています。「節分」つまり、冬から春への「季節の分かれ目」には、自然界が活気づくだけでなく、霊の世界でも悪鬼たちが活躍し始めると考えられてきました。そこで、悪鬼を退散させるため「豆まき」をしたり、いわしの頭を柊(ひいらぎ)の枝に刺して門口に立てたりしました。悪鬼が柊の葉の刺といわしの臭いを嫌うと信じられたのです。このことから「いわしの頭も信心から」ということわざが、それがほんとうなのかどうかを問わないで、根拠のないものを簡単に信じてしまうことという意味で使われるようになりました。
社会は「信じる」ことで成り立っています。私はアメリカに来てはじめて小切手」(チェック)を使うようになりましたが。小切手は一片の紙切れにすぎません。もし、「信じる」ということが無ければ、紙切れでのお金のやり取りはできません。紙幣もまた紙で作られています。100ドル冊は「紙」としては100ドルの値うちはありません。むしろ、硬貨のほうが、金属としての値うちがあるでしょう。しかし、紙幣にも硬貨にも "IN GOD WE TRUST" と書かれ、刻まれているように、神を信じ、互いに信じ合うことによってお金が通用し、社会が成り立っているのです。
私がアメリカに来たときはまだインターネットの時代ではありませんでしたが、今では、ネット・ショッピングやオンライン・バンキングは当たり前となりました。そこでは実際のお金は動きません。数字のやりとりだけです。ですから、現代ほど「信じる」ということが大切な時代はないと言ってよいと思います。企業もまた、何よりも「信用」を第一に考えなければならない時代になりました。しかし、経済活動では、「信じる」といっても、根拠や担保なしに信じる人は誰もいません。投資しようとするときは、その会社の過去の実績、現在の業績、また将来の見通しをよく調べるはずです。
けれども、多くの人は、宗教的なこととなると、自分がいったい何を信じているのか知らないでいます。「私の家は仏教です」という人のうち、それが何宗の何派でその教えが何なのかを知っている人が、どれだけいるでしょうか。神社にお参りする人のうち、そこに何が祀られているかを知っている人が、どれだけいるでしょうか。ほとんどの人が知りません。いや、知る必要がないと思われています。西行法師は、伊勢神宮に参拝したとき、「何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」と詠みました。そのように、そこに人間を超えたものがあって、それに対して畏敬の念を持つ、そうした心が大切で、何を、なぜ信じるかなどというは、第二、第三のことだと、日本人は考えてきました。
ところが、この日本人の考え方が、今では、“New Age” と呼ばれるものになって、「キリスト教国」といわれる国々にも広がっています。「ニューエイジ」では、世界は神によって造られたのではなく、それ自体で存在する神秘的なパワーを持ったものとされています。そして、人は、宇宙や自然、また他の人々と神秘的なつながりを持つことによって、そのパワーを受けるのだと言われています。天地を造られた「父なる神」への信仰を否定し、そのかわりに「母なる地球」への信仰を持ち込んでいるのです。「癒し系の音楽」などといったものも「ニューエイジ」の影響によって生まれたものです。最近、さまざまなところで、「元気をもらう」「パワーを受ける」という言葉が使われますが、これもまた「ニューエイジ」から来ています。「ニューエイジ」が心理学と結びついたものが「自己啓発セミナー」や「積極思考」です。それは、自分の中にある「可能性」という「神」を信じることによって「自己実現」を達成しようとするものです。「ニューエイジ」は西欧の人には「新しく」見えても、東洋の宗教を取り入れたものに過ぎず、日本人には、古くから馴染んできたものなのです。
二、聖書の信仰
日本人の信仰の考え方では、どんな神でも、それこそ「いわしの頭」でも、懸命に信じれば、その信仰心が救いをもたらすのだと言いますが、事実は違います。私たちの信仰は、人を救う力のあるお方に向かっていなければ、そのお方に繋がっていなければならないのです。神は発電所のようなお方です。電気は発電所から送電線を通って、家庭のコンセントに届きます。電気製品が動かなくて、あちらこちらいじったあと、コードがコンセントに入っていなかったのに気づくことがよくあるでしょう。そのように、私たちの信仰が神につながっていなければ、神の救いの力は私たちに届かないのです。電気の来ていないコンセントにつないでもだめなのです。
詩篇121にこうあります。「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。」(1節)日本の山には森があり、獣が棲み、鉱石があります。雲が山からやってきて雨を降らせ、田畑を潤します。また雪解けの水が山から下り、川となります。山は生活の資源でした。それで人々は、山自体を神として崇め、そのふもとに鳥居を立て、山を仰いで手を合わせてきました。「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか」という質問に対する日本人の答えは、「私の助けは山から来る」だったのです。しかし、聖書は言います。「私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。」(2節)聖書の信仰者たちは高い山を仰ぐだけで終わらず、その山のはるか上、天におられる神を見上げました。山も野も、この世界のあらゆるものを造られた神に信頼したのです。
詩篇62も、救いは神から来る、人を救う力を持っておられるお方から来ると言っています。この詩はダビデが書いたものですが、ダビデの時代のイスラエルは四方を敵に囲まれていました。国内の政治もまだ確立しておらず、ダビデには政敵が多くいました。ダビデにはさまざまな困難がありましたが、彼はそのつど、神に信頼し、神に救いを祈り求めました。1-2節でダビデはこう言っています。「私のたましいは黙ってただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそわが岩、わが救い、わがやぐら。私は決して揺るがされない。」ダビデは、イスラエルの王たちの中で最も信仰深く、神に愛された人でしたが、ダビデは、彼の信仰深さが救いをもたらしたとは言っていません。救いは、自分から出てくるのではなく、外から、天地を造られた全能の神から来ると明言しています。「人間は無力、しかし、神は全能。」聖書が教える信仰は、このことを信じる信仰、全能の神に信頼する信仰です。
ダビデのようではないにしても、私たちの人生にも順調な時と逆風の吹くとき、平穏な日と苦難の夜、また成功と失敗があります。逆風に耐えられなくなる時、苦難に押しつぶされそうになるとき、惨めな失敗を味わうとき、私たちの目はどこに向けられるのでしょう。回りの人々を見て、他の人は幸せなのに自分ひとりが苦しんでいると考えて苛立つ人もいるでしょう。真面目な信仰者ほど、自分の信仰の足りなさを嘆きます。自分だけを見つめて、自分の不信仰を責めることでしょう。しかし、どちらも、私たちに救いをもたらしません。神を見上げましょう。神は人の思いを超えて、その力を表してくださいます。わたしたちの信仰がどんなに小さく、弱くあっても、信仰そのものが人を救うのでなく、神が信仰を通して人を救ってくださるのですから、ただ神にすがり、神を待ち臨めばいいのです。
ダビデは「民よ、どんなときにも神に信頼せよ」(8節)と私たちに語りかけています。なぜなら、「力は神のもの」(11)であり「恵みもまた神のもの」(12)だからです。使徒信条で、神は「全能の父」と呼ばれています。神は全能の力とともに父としての愛といつしみを持っておられるお方です。「神は、私を助け救うことがお出来になる」というだけでなく、「神は私を助け救おうとしておられる」ことを、私たちは信じることができるのです。そう信じて、全能の神を見上げましょう。
三、全能の神
「全能の神」という言葉は、聖書では創世記17:1ではじめて出てきます。神はアブラハム、イサク、ヤコブに、ご自分を「全能の神」として現わしてくださり、彼らも、神を「全能の神」と呼びました。アブラハム、イサク、ヤコブにとって、「全能の神」という呼び名は、神への呼び名のひとつではありませんでした。「全能」も、神が持っておられるご性質のひとつではありませんでした。「全能の神」は彼らにとってなくてならないお方であり、「神の全能」を信じる以外に、生きていくことができなかったのです。
アブラハムの場合を考えてみましょう。神はアブラハムに、故郷を離れ、未知の土地へと旅立つよう命じました。アメリカの西部開拓がそうであったように、アブラハムは家族と財産とともに地図さえない道を辿らなければなりませんでした。それは神の全能を信じ、全能の神に頼ることなしにはできないことでした。神はまた、アブラハムからひとつの民族を起こし、「わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる」(創世記17:7)との契約を結んでくださいました。しかし、そのときには、アブラハムもサラも高齢になっていて、子孫を残すことができない状態でした。アブラハムは、このとき、今までにまさって、神が「全能の神」であって、約束を果たされるお方であること信じることを求められたのです。
アブラハムは神の約束と神の全能を信じました。新約聖書は、このことを次のように書いています。「彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。」(ローマ4:19-21)アブラハムは「神には約束したことを実行する力がある」と信じました。まだ見ていない現実を、神の言葉によって確信したのです。それが信仰です。神は、私たちに何かを命じられるとき、かならずそれを果たすことができる力を備えていてくださいます。また神が、私たちに何かを約束されるとき、それは人の考えでは不可能に見えても、神はそれを全能の力で成就してくださるのです。実に、信仰とは「神にとって不可能なことは何もない」(ルカ1:37)「主によって語られたことは必ず実現する」(ルカ1:45)と信じることなのです。
「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」このように告白できるのは何と幸いなことでしょうか。「自分の信仰深さが自分を救い、助けるのではない。神の全能が自分を救い、助け、自分の信仰を支えてくださる。」そう信じて、全能の神にすべてを委ねる時、言いようもない平安が心に満ちてきます。日々の歩みが確かなものになっていきます。使徒パウロはこう言っています。「私は自分が信じてきた方をよく知っており、また、その方は私がお任せしたものを、かの日まで守ることがおできになると確信しているからです。」(テモテ第二1:12)私たちも、パウロのように、「私は自分が信じている方を知っています。私の信じるお方は、全能の神です」と言い表しながら、信仰の歩みを一歩一歩進めていきたいと思います。
(祈り)
全能の父なる神さま。私たちは、さまざまな困難に直面するとき、あなたが全能であることを忘れ、思い患ったり、慌てたり、自分の力でなんとかしょうとあくせくしたりすることが何と多いことでしょう。そのようなとき、「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る」とのみことばを思い返させてください。そして、心静かに「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白することができますように。主イエスのお名前で祈ります。
1/27/2019