信頼の力

詩篇62:1-12

オーディオファイルを再生できません
指揮者のために。エドトンによって。ダビデの賛歌
62:1 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。
62:2 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。
62:3 おまえたちは、いつまでひとりの人を襲うのか。おまえたちはこぞって打ち殺そうとしている。あたかも、傾いた城壁か、ぐらつく石垣のように。
62:4 まことに、彼らは彼を高い地位から突き落とそうとたくらんでいる。彼らは偽りを好み、口では祝福し、心の中ではのろう。セラ
62:5 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。
62:6 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。
62:7 私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。
62:8 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。セラ
62:9 まことに、身分の低い人々は、むなしく、高い人々は、偽りだ。はかりにかけると、彼らは上に上がる。彼らを合わせても、息より軽い。
62:10 圧制にたよるな。略奪にむなしい望みをかけるな。富がふえても、それに心を留めるな。
62:11 神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを。
62:12 主よ。恵みも、あなたのものです。あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます。

 一、独立と信頼

 明日は July 4th、独立記念日です。イギリスの植民地であった13の州が会議を開き「独立宣言」を採択したのが、1776年7月4日でした。それ以来、この日が Independence Day、また、建国の日として祝われてきました。

 アメリカにイギリスからの独立の気運が高まったのは、イギリス国王ジョージ三世が、ヨーロッパからの物資の輸入に頼っていた植民地に高い関税をかけたことに反発してのことでした。けれども、アメリカの独立は、たんに政治的、経済的な理由からだけでなされたものではありませんでした。独立を願った人々は、世界のどの国にも先んじて自由で平等な国家を作ろうとしたのです。そして、それを聖書をよりどころとし、神への信仰によって成し遂げようとしました。独立宣言はこのようなことばではじまっています。「われわれは以下の真理を自明であると信じる。すなわち、すべての人は平等に創造され、ひとりびとりは創造主なる神によって、常に変らぬ、他に譲り渡すことのできない権利を与えられている。これらの権利の中には、生命、自由、幸福を追求する権利が含まれている。」

 すべての人には自由や平等などの権利が与えられているというのは、今では当たり前のことかもしれませんが、今から250年ほど前の世界では画期的な宣言でした。アメリカの独立宣言は、その後1789年に起こったフランス革命に大きな影響を与え、独立宣言の精神はアメリカの憲法とその修正条項に反映さたばかりか、世界各国の憲法の模範となりました。アメリカは、その精神にしたがって、自由とともに平等を追い求めてきました。南北戦争では奴隷が解放され、公民権運動によって差別の壁が崩されました。女性にも参政権が与えられ、原住民や少数者が保護されてきました。もちろん、完全な国家、政府はどこにもなく、アメリカもさまざまな過ちを犯しましたし、今も、過ちを犯しているかもしれません。アメリカは若い国ですから未熟なところや行き過ぎたところがあるでしょう。しかし、アメリカが、自由と平等を守るために努力してきたことは誇って良いことだと思います。

 アメリカはほとんど勝ち目のなかった独立戦争を戦い抜いて独立と自由を勝ち取りました。しかし、自由や平等はたんに軍事力や権力で、あるいは民衆の声だけで守ることができるものではありません。政府が自由や平等に価値を置かなくなったら、それはあっけなく消え去ってしまうからです。自由は代価なしに手に入れられるものではなく、平等も犠牲なしに保つことはできません。人々が自由をはきちがえて自分の権利だけを主張しはじめるなら、そこは強い者が弱い者を食いつくす「弱肉強食」の世界になってしまいます。自由や平等は、独立宣言が言うように神から与えられたものですから、それを守るためには神を信じる信仰が必要なのです。自由が神によって与えれた素晴らしい賜物であること、神はどの人をもかけがえのない存在として造られたこと、そうしたことを信じることによって、はじめて、私たちは自由や平等を守ることができるようになるのです。アメリカが自由と平等を守リ続けてくることができたのは、多くの人々が神への信仰を大切にしてきたからでした。

 ある調査によりますと、「信仰が生活や人生にとって大切な役割を果たしているか」という質問に、日本ではわずか10数パーセントの人々しか「はい」と答えていません。英国でも30数パーセントです。しかし、アメリカでは60パーセント近い人々が「はい」と答えています。英国の倍、日本の6倍にも及ぶ人々が信仰を大切なものと考えているのです。アメリカでは、90パーセントの人々が「神の存在を信じる」と答えています。無神論者、不可知論者と自称する人はわずか1パーセントに過ぎません。およそ70パーセントの人々が「アメリカの大統領は強い信仰を持っているべきだ」と答えています。アメリカ人の大半が自由や平等は神への信仰によって守られるべきであると信じているのです。

 「独立宣言」の結びのことばはこうです。「この宣言を支持するために、われわれは神の摂理の守りにかたく信頼しつつ、われわれの生命、財産、神聖なる名誉をささげることを、相互に誓うものである。」アメリカの独立は、神の守りなしには達成されないと言っているのです。独立宣言を作成したアメリカ建国の父たちは、ほんとうの独立とは、何者にも頼らず「独り立つ」というものではなく、神への信頼によってもたらされると信じていました。「独立宣言」は、神への「信頼宣言」だったのです。

 二、神への信頼

 聖書は、創世記?のはじめから黙示録の終わりまで、私たちに、神への信頼を教えています。神への信頼だけが、人を罪から解放し、自由にするからです。創世記のアダムとエバの物語では、アダムとエバが自らが「神のようになる」(創世記3:5)ことを願い、神の戒めのもとに生きることを捨て、自分で自分の思いどおりに善悪を定めることを選んだことが書かれています。人間が神にとってかわってこの世界の主人となる。人間は神の支配から離れて自由な者、より成熟した者になるのだというのです。これは、まさに神からの「独立宣言」、しかも間違った「独立宣言」でした。人はこの「独立宣言」によって自由を勝ち取ったのでなく、逆に愛と正義に生きる自由を失いました。より成熟した人格へと成長するどころか、悪に抵抗することのできない弱い者になってしまったのです。神から与えられた自由を失い、罪の奴隷となってしまったのです。

 科学の発達によって、かつては、超自然的な出来事だと思えたことが、実は、自然の法則に則ったことであることが分かってきました。すると人々は、すべては科学で説明できるようになった、世界には神秘などないと考えるようになりました。科学知識の乏しい時代には、不思議なできごとをすべて「神」の働きとしてしてきましたが、「神」を引っ張り出さなくてもすべては科学的に説明できるようになった。もう、世界には「神」の住むところはなどない。私たちは「神」を必要としなくなったと言うのですが、果たしてそうでしょうか。いいえ、実際のところ、科学の発達はほんとうの神がおられることを明らかにするようになりました。かつて人々は、太陽や月、星を天上にある神々と考えきました。日本の八百万(やおよろず)の神々の主神は「天照大神」(あまてらすおおみかみ)で太陽です。神々は天上にあるだけでなく、地上にもあって、山も、森も、川も、海も、また風も雨もみな神々としてあがめられてきました。しかし、科学の発達によって、自然界や自然の現象が「神」ではないことが証明され、「神々」は姿を消していき、かえって、この大宇宙と自然を造り、それに命を与え、それを保っておられるお方、聖書が教える神のみがまことの神であることが明らかになってきたのです。

 科学者は自然の法則を発見し、技術者はそれを利用してさまざまなものを作り出します。しかし、科学者が法則を作り、それをコントロールしているわけでも、技術者が何もないところから物質やエネルギーをを作ったのでもありません。この世界を無から造り出し、それを治めておられるのは神です。人間がこの世界の仕組みを理解できるようになったのも、神が人間に理性をお与えになったからです。人間は理性と意志と感情を持った「人格」として造られています。人はたんに生物学的に生るのではなく、「たましい」を持ち、神を知り、神を愛し、神とまじわることによって生きる者とされているのです。科学技術の発達は神への信仰を妨げるものではなく、むしろ、神の素晴らしさを明らかにするものです。宇宙の大きさを知れば知るほど、この大宇宙を造り、それを保っておられる神の偉大さが分かってきます。生命の仕組みが、解き明かされていくにつれて、命の与え主である神の豊かさがより示されていきます。また、科学技術は、人を生かし、社会を豊かにするために使うこともできれば、人を殺すため、犯罪に利用するために使うこともできます。技術が発達すればするほど、それをどう用いるかについて、神からの確かな導きが必要となり、いよいよ神への信仰が大切なものとなるのです。

 私たち人間と、この社会の一番の問題は、すこしばかり「お利巧」になった人間が、あたかもすべてを知っていて、何でもできるかのように思い上がり、全知全能の神にかわって世界をコントロールしようとしてきたことにあります。今、私たちは、神の前に謙虚な者となり、神への信頼に立ち返る時代に至っていると思います。

 旧約時代のイスラエルは「神の民」と呼ばれましたが、それは、決して大きな国でも、強い国でもありませんでした。イスラエルの国はアジアとヨーロッパ、アフリカの三つの大陸の繋ぎ目にあり、北はアッシリヤやバビロン、南はエジプトからの軍隊の通路にありました。ヨーロッパにギリシャやローマが興ったときも、その軍隊の通路となりました。大きな国にかこまれ、いつ滅ぼされても不思議ではない国でした。そんな中でイスラエルが独立を保ってきたのは、神への信頼によってでした。イスラエルが神への信頼を忘れてしまったとき国は独立を失い、イスラエルが神に立ち返ったとき繁栄が戻ってきました。

 ダビデは、イスラエルをまわりの諸民族の圧迫から救い、堅固な王国とした人で、イスラエルの王たちの中で、いちばん尊敬され、愛され、慕われている王です。ダビデは戦いにおける勇士でした。しかし、ダビデは、イスラエルの独立は、武力も、政治力でもない、神への信頼によるということを知っていました。そして、人々に、こう言っています。「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」(8節)

 ダビデは、自分の人生においても、神への信頼に生きた人です。ダビデは失敗のない完全な人ではありませんでした。しかし、罪を犯したときも、それを悔い改め、神に信頼しました。詩篇32篇は、ダビデが大きな罪を神に赦していただいた時のことを歌ったものですが、その中で「悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む」(詩篇32:10)とあかししています。ダビデはたえず神の導きを願い求めて生きた人で、詩篇37:5では「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」と言っています。そして、詩篇56:3では「恐れのある日に、私は、あなたに信頼します」と、神に語りかけています。恵みと祝福、力と平安は神への信頼からやって来るのです。

 私たちは、今、とても不安な時代に生きています。もっと不景気になって仕事を失いはしないかという不安、病気になったらどうしょうという心配、人間関係の悩みや生活の気苦労などに一喜一憂しています。自分の力でなんとかしようとすればするほど、回りの状況に振り回されたり、他の人に振り回されたりしてしまいます。神に信頼することによって、他の人や環境に左右されない確かなよりどころを持ちたいと思います。それこそがほんとうの自由であり、独立です。そして、ほんとうの独立 Independance は、神への信頼 Depndance によって与えられるのです。

 アメリカには50の州があり、それぞれの州に州の憲法がありますが、どの州の憲法も、神への信仰を言い表しています。カルフォルニアの憲法では「わたしたち人民は、私たちに与えられた自由のゆえに全能の神に感謝し、その祝福を守り、永続させるためにこの憲法を定める」と書かれています。 アメリカ建国の父たちをはじめ、アメリカの発展に貢献した人々が神への信頼によって自由と独立を保ってきたことを覚えましょう。そして、私たちひとりびとりも、神に信頼することが、それぞれの人生においても、具体的な困難な課題の中で、どんなに大きな力となるかを体験していきたいと思います。

 (祈り)

 全能の神さま、あなたはこの世界を造られたお方です。私たちは、あなたによって造られ、生かされ、守られ、導かれています。私たちの人生の一瞬、一瞬があなたに依存しています。それなのに、私たちは、自分が独立した存在であるかのように思い違いをし、あなたへの信頼を忘れがちです。そんな私たちをあわれみ、赦し、あなたへの信頼に立ち返らせてください。「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ」とのおことばをもって私たちを日々、あなたたに頼り、委ね、あなたの前に謙虚に導きを求める者としてください。主イエス・キリストによって祈ります。

7/3/2011