ほんとうの悔い改め

詩篇51:1-7

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51:1 神よ 私をあわれんでください。/あなたの恵みにしたがって。/私の背きをぬぐい去ってください。/あなたの豊かなあわれみによって。
51:2 私の咎を 私からすっかり洗い去り/私の罪から 私をきよめてください。
51:3 まことに 私は自分の背きを知っています。/私の罪は いつも私の目の前にあります。
51:4 私はあなたに ただあなたの前に罪ある者です。/私はあなたの目に 悪であることを行いました。/ですから あなたが宣告するとき あなたは正しく/さばくとき あなたは清くあられます。
51:5 ご覧ください。私は咎ある者として生まれ/罪ある者として 母は私を身ごもりました。
51:6 確かに あなたは心のうちの真実を喜ばれます。/どうか私の心の奥に 知恵を教えてください。
51:7 ヒソプで私の罪を除いてください。/そうすれば私はきよくなります。/私を洗ってください。/そうすれば 私は雪よりも白くなります。

 一、悔い改め

 今週の水曜日は「灰の水曜日」で、この日からレントが始まります。レントの「灰」は三つのものを表します。第一は「悔い改め」です。古代の人々が粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたことに由来しています。ダニエルは、イスラエルの人々のためにとりなしたとき、「断食をし、粗布をまとって灰をかぶり、祈りと哀願をもって」(ダニエル9:3)しました。ダニエルから少し後の時代に、ペルシャに住むユダヤの人々を根絶やしにせよという布告が出たとき、ユダヤの人々は「粗布をまとって灰の上に座って」(エステル4:3)嘆いたとあります。

 イエスも、灰と悔い改めとを結びつけて、こう言いました。「ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。」(マタイ11:21)これは、イエスが力ある業を行って、自らが救い主であることを示したのに、悔い改めなかった人々を嘆いて語った言葉です。コラジンやベツサイダというのは、イエスが宣教した地方で、ツロ、シドンというのは、まことの神を知らない異邦の町々です。イエスの言葉をその耳で聞き、イエスの奇蹟をその目で見ながら悔い改めなかった町の人々は、神を知らない町の人々よりも厳しい裁きを受けると言って、イエスは人々に悔い改めを求めたのです。

 イエスの宣教の第一声は「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)でした。イエスは神の国の到来を告げ、その神の国に入る道を教えました。その道とは「悔い改めて…信じなさい」と言われているように「悔い改め」と「信仰」です。神の国には「悔い改め」という門をくぐらなければ入ることができないからです。

 しかし、「悔い改め」とは何なのでしょうか。弟子たちが「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか」とたずねた時、イエスは、こどもを弟子たちの目の前に立たせ、こう言いました。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。」(マタイ18:3)「向きを変えて」と訳されているところは、以前は意味を汲んで「悔い改めて」と訳されていました。悔い改めとは、神に背を向けて神から去っていた者が、「向きを変えて」神に立ち返ることなのです。ルカ15章の放蕩息子が落ちぶれてどん底まで行ったとき、「立って、父のところに行こう」と言って、父の家へ向かったように、天の父に立ち返ることなのです。

 しかも、いったん「向きを変えた」なら、そのまま、まっすぐ神に向かうことが大切です。悔い改めは最初にイエス・キリストを信じたときだけで終わるものではありません。神に向かい、神に近づくことは、信仰者に与えられた特権なのですから、悔い改めて、神に近づくこと以上に大きな祝福はないのです。

 マルチン・ルターは『九十五か条の論題』の最初にこう書きました。「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めよ……』と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。」ほんとうの悔い改めは、一度だけのものではありません。ときおりすればよい儀式のようなものでもありません。悔い改めは、キリスト者の生き方そのものです。イエスの言葉の通り、私たちは悔い改めによって神の国に入るのですが、同時に、神の国は、悔い改めに生きる人の中にあるのです。「灰の水曜日」をカレンダーの上だけの日で終わらせないようにしましょう。この日、私の全生涯が悔い改めとなっているだろうかと自分を点検し、そうしていただけるよう、真剣に神に祈ろうではありませんか。

 二、へりくだり

 第二に、「灰」はへりくだりのしるしです。創世記2:7に「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」とあるように、人はもとは土のちりに過ぎないのです。実際、人が死ねば、そのからだは灰となり、また土となるのです。人のからだの元素も、土に含まれる元素も、変わりません。人の生命や人格が尊く、その生涯に意味や目的があるのは、神によって生かされているからなのです。私たちはそのことを思って神の前にへりくだることを学びたいと思います。

 アブラハムは、甥のロトが住むソドムの町のためにとりなしたとき、「ご覧ください。私はちりや灰にすぎませんが、あえて、わが主に申し上げます」(創世記18:27)と言いました。神は人を「神のかたち」に造り、神と対等であるかのようにして、人に語りかけてくださいます。とくに、アブラハムは「神の友」(ヤコブ2:23)と呼ばれるほどに、神が親しくしてくださった人物でした。しかしそれは神の特別な恵みによるものであって、神が創造者であり、人は被造物であることには変わりません。それでアブラハムは「私はちりや灰にすぎませんが…」(創世記18:27)と言って神の前にへりくだったのです。

 ほんとうの「悔い改め」は、この神の前での「へりくだり」から生まれます。聖書が教える「罪」は、法律を犯すことや、社会の通念にそぐわないこと、また、道徳的に問題になることをしてしまうということだけではありません。本来しなければならないことをしなかったこと、それも「罪」に数えられます。聖書に「こういうわけで、なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人には罪です」(ヤコブ4:17)とあります。親を亡くした人は「親が生きているうちに、どうしてもっと良くしてやれなかったのだろう」と後悔したことがきっとあると思います。罪は人と人との関係を損ね、自分を苦しめるものなのですが、それと同時に、私たちに正しく生きるようにと願い、そうすることができるよう助けてくださっている神の、愛の心を傷つけることでもあるのです。「神が私をこんなにも愛しておられ、教え、戒め、助けてくださっているのに、神に逆らうようなことをしてしまった」という悔いは、誰の心にもあると思います。

 私たちは、他の人に与えた損害は、それをお詫びし、償うことができるものは償って、その人と和解しようとします。しかし、それと同時に、神に対しても心からの悔い改めをもって赦しを願うのでなければ、心の安らぎと、罪からの回復はないのです。

 きょうの聖書は、イスラエルの王、ダビデが神の前に悔い改め、神に赦しを願った祈りです。ダビデは、部下の妻を自分のものにするため、その部下を戦争でわざと死なせてしまいました。その時代の他の国の王なら、誰でもしているようなことだったでしょうが、神の民の王であるダビデには許されないことでした。ダビデは自分の罪を悔い改めて、こう祈りました。「私はあなたに ただあなたの前に罪ある者です。/私はあなたの目に 悪であることを行いました。」(4節)ダビデは、人の前ではなく神の前に立ちました。人の目ではなく、神の目で自分の罪と向かい合いました。そして、どんな弁解もしないで、王であるという立場に頼らず、神の赦しを必要とする、ひとりの罪人として神の前に立ったのです。

 ダビデとサウルはよく比較されます。サウル王は、ダビデのような罪は犯しませんでしたが、神をないがしろにし、自分の判断を優先して神の言葉に従いませんでした。神に対して真っ直ぐでない人の心は、やがて歪んでいきます。サウルは自分の部下であり、義理の息子であったダビデを妬んで、何度もダビデを殺そうとしました。神はそのつど、ダビデを救い出してくださり、サウルはダビデに手を触れることができませんでした。逆に、ダビデにはサウルを亡き者にする機会が何度もあったのですが、決してサウルを手にかけませんでした。ダビデは、神を恐れる人でしたので、神が立てたサウルを害することをしなかったのです。ところがサウルは、ダビデを匿ったからというので、神が聖別した祭司たちを殺害しました。サウルは、神を恐れず、神の領域にまで踏み込み、それを踏みにじったのです。

 しかし、ダビデは神を恐れ、神の前に生きました。それでダビデは、彼の犯した大きな罪にもかかわらず、悔い改めた後、神の祝福を受けました。いつの時代も、神の前にへりくだって悔い改める者に、神は、祝福を取り戻してくださるのです。しかし、サウルは戦場で敵に囲まれ、自ら生命を絶ちました。悔い改める機会を与えられたのに、それをしなかったからです。ダビデは詩篇51:17でこう言っています。「神へのいけにえは 砕かれた霊。/打たれ 砕かれた心。/神よ あなたはそれを蔑まれません。」私たちも、ダビデのようなへりくだった心をもって、神の前に悔い改め、神の大きな祝福にあずかりたいと思います。

 三、きよめ

 第三に「灰」はきよめのしるしです。エレミヤ2:22に「たとえ、あなたが重曹で身を洗い、たくさんの灰汁を使っても、あなたの咎は、わたしの前に汚れたままだ」とあるように、ソーダや灰は、からだや着物、調理器具や家具など、さまざまなものをきれいにするために使われたのです。けれども、灰は目に見えるものの表面をきれいにすることはできても、目に見えない人の内面をきよめることはできないのです。

 しかし、イエス・キリストが十字架の上で流してくださった血は、人の内面を罪の汚れからきよめる力を持っています。ヘブル9:13-14にこう書かれています。「雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。」レントの「灰」は、悔い改める者に与えられる、罪の赦し、また罪からのきよめのしるしでもあるのです。

 ダビデは、旧約の人物ですから、イエス・キリストの十字架を知りませんでした。しかし、ダビデは、神に特別に愛された人で、神の真実や、恵み、あわれみを他の誰よりもよく知っていました。頭で知っていたというのでなく、経験を通して知っていました。羊飼いの少年だった彼がイスラエルの王にまでなり、サウルに命を狙われて放浪していた彼が、敵対する者がないまでに、その王座を確立するという、波乱万丈の人生を通して、神の恵み、あわれみを知ったのです。ダビデはその体験からたくさんの詩篇を書きましたが、その多くが、イエス・キリストを預言するものになっています。ダビデは、彼の28代後にイエスが彼の子孫として生まれることを知りませんでしたが、神の恵み、あわれみが、罪の赦しと罪からのきよめをもたらすことを信じて疑いませんでした。「ヒソプで私の罪を除いてください。/そうすれば私はきよくなります。/私を洗ってください。/そうすれば 私は雪よりも白くなります」(7節)との祈りは、十字架以前の祈りですが、神に聞かれています。ダビデは、信仰によって新約の恵みを先取りしたのです。

 詩篇30:11に「あなたは私のために/嘆きを踊りに変えてくださいました。/私の粗布を解き/喜びをまとわせてくださいました」とあり、イザヤ61:3に「シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために」とあります。新約の時代に生きる私たちにとって、レントは決して暗い気持ちで過ごす期間ではありません。レントは春分の日に向けて、日が一日、一日日が長くなる時期に守られます。それは、キリストの赦しときよめの力が罪の闇を打ち負かしていくことを表しています。私たちは、イエス・キリストの復活によっていのちの光の輝きが完全に現れるのを待ち望み、このシーズンを過ごすのです。

 誰も皆、罪を犯し、失敗し、後悔します。何の罪も、失敗も、後悔もない人はありません。しかし、そのときに、後悔だけで終わらず、きちんと悔い改めるなら、後悔のない人生を送ることができます。しかし、「悔い改め」を通らないなら、その人生は「後悔」しか残らないものになります。聖書はこう教えています。「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」(コリント第二7:10)「後悔」と「悔い改め」は違います。「後悔」は、「あんなことをしなければよかった」「あのときにこうしておけばよかった」と過去を悔やむことです。また、そこには、神に対する罪の告白はありません。人の目に恥ずかしいことをしてしまったというだけです。しかし、「悔い改め」は、神の前に自分の罪を認め、神に赦しと回復を願うことです。過去から、将来へ目を向けることなのです。悔い改める者には将来があります。回復の希望があります。この希望を見つめて「レント」の時を過ごしたいと思います。

 (祈り)

 恵みとあわれみに満ちた神さま。あなたの恵みとあわれみはイエス・キリストの十字架となって、この地上に立てられました。十字架から流れ出る罪の赦しときよめを、また、復活のいのちによるいやしと回復を体験させてください。そのためにも、私たちを真実な悔い改めに導いてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

3/3/2019