46:8 来て 見よ。主のみわざを。/主は地で恐るべきことをなされた。
46:9 主は 地の果てまでも戦いをやめさせる。/弓をへし折り 槍を断ち切り/戦車を火で焼かれる。
46:10 「やめよ。知れ。/わたしこそ神。/わたしは国々の間であがめられ/地の上であがめられる。」
46:11 万軍の主はわれらとともにおられる。/ヤコブの神はわれらの砦である。
あるサイトに、“6 Best Doctor in the World” という画像がアップロードされていました。私たちを癒やす6つのもの、それは、“Sun”(屋外で日を浴びること)、“Rest”(休息)、 “Exercise”(運動)、“Diet”(食事)、“Self Respect”(自尊心)、“Real Friends”(本当の友だち)だというのです。確かに、そのどれもが大切で、それらすべては神が与えてくださるものです。きょうは、その中の “Rest”(休息、安息)の大切さを考えてみましょう。
一、やめよ
詩篇46:10は、以前の訳では「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(口語訳)となっていました。多くの英語の訳でも、“Be still, and know that I am God” と訳されています。「静まる」のヘブライ語は「ラファー」で、それには「手を引く」、「見捨てる」、「放っておく」、「避ける」などの意味があります。詩篇37:8でも、「怒ることをやめ 憤りを捨てよ」と「やめよ」と訳されています。それで、新しい訳では「やめよ」と訳されました。詩篇37:8では「怒ること」をやめるのですが、詩篇46篇では、何をやめるのでしょうか。
詩篇46:2-3には「たとえ地が変わり/山々が揺れ 海のただ中に移るとも。たとえその水が立ち騒ぎ 泡立っても/その水かさが増し 山々が揺れ動いても」とあって、地震で発生した巨大な津波が押し寄せ、山でさえも呑み込もうとする様子が書かれています。普通、水は山から海へと流れ込むものなのですが、それが逆流してくるのですから、大変なことです。そんな時、どうしますか。仕事や家事を続けますか。いいえ、すぐにやめて逃げ出すでしょう。「やめよ」というのは、自分が大切だと思っていることにさえも、しがみつかずに、それを手放すようにということなのです。
6節には「国々は立ち騒ぎ/諸方の王国は揺らぐ」とあります。諸国の軍勢が連合して、都を攻め落とそうと、押し寄せてくるのです。その軍勢はまるで津波のように、襲いかかろうとしています。実際の津波も恐ろしいものですが、都を取り囲み、ひたひたと城壁に迫ってくる軍隊も恐ろしいものです。しかし、神は、いたずらに恐れるのを「やめよ」と言われたのです。
エジプトを脱出したイスラエルは、前は海、後ろはエジプトの騎兵隊と戦車部隊、絶体絶命の危機にあったとき、恐れのあまり叫びました。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」(出エジプト14:11-12)。モーセはそれに対してこう答えました。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」(同14:13-14)「恐れてはならない」、「黙っていなさい」── 主は、恐れをやめ、つぶやきをやめるようにと、言われたのです。私たちも、「恐れ」や「不安」に取り囲まれるとき、主の、「やめよ」との言葉に聞き従いたいと思います
主は、都を取り囲んでいる軍勢にも「やめよ」と言われます。「やめよ」と言われるだけでなく、実際に戦いをやめさせてくださいます。9節には「主は 地の果てまでも戦いをやめさせる。/弓をへし折り 槍を断ち切り/戦車を火で焼かれる」とあります。主ご自身が軍隊の「弓をへし折り 槍を断ち切り/戦車を火で焼かれ」るのです。今日も世界で戦火が絶えません。神が「やめよ」と言って、戦車も、戦艦も、戦闘機も、ミサイルも無用なものにしてくださることを私たちは心から祈り、願っています。神は、そのことをしてくださいます。だから、恐れおののく者に、恐れるのを「やめよ」と言われるのです。
二、知れ
「やめよ。知れ。/わたしこそ神。」この部分の二番目の言葉は「知れ」です。主は、「静まって、…知れ」と言われたのです。ある町にこんなサインがありました。“DRIVE SLOW & SEE OUR CITY, DRIVE FAST & SEE OUR JAIL” (ゆっくりドライブして私たちの町を見てください。スピードを出してドライブすれば刑務所を見ることになりますよ)というものです。ユーモアの効いたサインだと思いますが、私たちも、ただ忙しくしているだけでは、大切なものを見落としてしまいます。ただがむしゃらに突っ走るだけでなく、スローダウンする、立ち止まるときがなければ、人生の意味や目的は見えてこないのです。故・小山晃佑(こうすけ)元ユニオン神学校教授の著書に“Three Mile An Hour God”(日本語訳『時速五キロの神』)というのがあります。神のみわざは神ご自身のタイミングによってなされるのであって、私たちがせっかちに判断してはいけない、私たちも、神の歩調に合わせ、人生を歩もうと説いています。
そのために、神は「安息日」を設けてくださいました。「安息日」はヘブライ語で「シャバット」といいますが、これにも「やめる」という意味があります。神は、十戒の中に「六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない」(出エジプト20:9-10)と定めておられます。私たちは月曜日から金曜日まで職場で働き、土曜日は家事をこなしますが、日曜日には、そうした営みをいったんやめて、この日を過ごすのです。そのことによって、私たちは、心身ともに新しくされ、次の週を歩む力を与えられます。
「休んでいる暇などない」と、必要な休息や睡眠をとらない、安息日を守らないでいると、どうなるでしょうか。次をご覧ください。
Aspirituallifewithoutsilenceislikea
sentencewithoutspacesthespaceshelpus
makesenseoutofthesentencesilencehelps
usmakesenseoutofourlifewithgod
アルファベットが並んでいるだけで、何が書かれているか分かりませんね。では、次はどうでしょう。
A spiritual life without silence is like a
sentence without spaces. The spaces help us
make sense out of the sentence. Silence helps
us make sense out of our life with God.
スペースを入れると、意味が通じるようになります。日本語に訳すとこうなります。「沈黙のない霊的生活は空白のない文章のようなものだ。空白は文章の意味を理解するのを助けてくれる。そのように沈黙は神と共に生きる人生の意味を理解するのを助けてくれる。」このように、仕事の手を休め、神の前に静まる時を持つことによって、私たちは、神からの語りかけを聞き取ることができます。人の話もきちんと聞くことができます。自分を取り囲む状況をはっきりと理解できるようになります。このことは、神を信じる者にも、そうでない人にも同じように必要です。誰であっても、立ち止まり、自分の人生を考えることは大切なことです。
効率よく仕事をするためには、時々ブレークを取る必要があります。けれども、仕事の手は休めても、思い煩いで心が占領されていれば、心が休まることはありません。思い煩いというものは、頭の中に住むうるさい虫のようなものです。虫の声でも、小鳥の声でも、時々聞こえてくる分にはいいのですが、ひっきりなしに鳴き続けられると、うっとおしいものです。私たちにも、心の中の思い煩いの声を黙らせるときが必要です。そのためには、主にある安息のとき、静まる時が必要なのです。神は私たちがそのことを忘れないために、安息日の戒めを十戒の中に入れてくださいました。神が命じられることはみな、私たちに幸いとなることばかりです。忙しい時代だからこそ、安息日の戒めが教えていることを実践していきたいと思います。
三、「私こそ神」
「やめよ。知れ。/わたしこそ神。」三番目の言葉は「わたしはある」(“I am God.”)です。これは、「わたしは存在する」という意味です。神は永遠のお方、究極の存在者、まさに「有って有る」お方です。しかし、この世のものは皆、年月が経てば古び、衰え、消え去っていきます。つまり、「有っても無いようなもの」です。この世のものはすべて神によって存在させられているに過ぎないのです。そんな私たちが、「神などいない」ということは、じつに愚かなことです。神が存在されなければ、この世界も、「神などいない」と言っているその人も存在しないのですから。
また、“I am” は、神が、人とともに、とりわけ、神に頼る者とともにいてくださることを意味しています。11節に「万軍の主はわれらとともにおられる。/ヤコブの神はわれらの砦である」と言っています。困難や苦しみの中で私たちを支えるのは、「主はおられる。主は私たちとともにいてくださる」という真理です。それを知る知識です。礼拝の恵みの中心は、「主はともにおられる」こと、そこから来る平安、慰め、喜びを味わうことにあります。日々の祈りの時もまた、「主がともにおられる」ことを確認し、それによって力づけられるために必要なのです。
「やめよ。知れ。/わたしこそ神。」主は、この言葉を、神を信じない人に向けても語られます。出エジプトのとき、主はモーセに言われました。「わたしはファラオの心を頑なにするので、ファラオは彼らの後を追う。しかし、わたしはファラオとその全軍勢によって栄光を現す。こうしてエジプトは、わたしが主であることを知る。」(出エジプト14:4)軍勢が海に呑み込まれ、敗北することによって、エジプトは、主がどんなに偉大な神であるかを、思い知ることになりました。しかし、主を信じる者は、そんなふうにしてではなく、感謝と喜びをもって主の偉大さを知るのです。
詩篇100:3はこう言っています。「知れ。主こそ神。/主が 私たちを造られた。/私たちは主のもの 主の民 その牧場の羊。」主を「私の神」、「私の造り主」として知り、そう呼ぶことができるのはなんという恵みでしょうか。何者にもまさって偉大で、高いお方が、こんなに小さな者、低い者の神となってくださいました。「私の造り主」となって、私を守り、支え、導いてくださるのです。主を信じる者は、主を愛といつくしみの神として仰ぐことができるのです。これが、主を知ることの恵みです。そして、主を知ることによって、私たちは自分が何者であるかを知ることができます。多くの人が自分を見失い、自分の価値を投げ捨てていますが、それは、神を知ろうとしないからです。神を知ることなしに、誰も自分の価値を知り、認めることはできません。「私は主のもの」、私は「主の民」、私は、最高の牧者によって守られ、満たされ、導かれる主の牧場の「羊」である。主を知るとき、そのような自覚と確信が与えられるのです。
最初に触れた、私たちを癒やす6つのものは、霊的には、「太陽」は主の御顔です。「安息」は主にある平安です。「エクササイズ」は祈りです。「食事」は御言葉です。私たちの「自尊心」は神の民とされたことです。「真の友」はイエス・キリストです。このように、主は、私たちが霊においても、身体においても、健康であるために、すべてを備えておられます。思い煩いで心がいっぱいになり、主の恵みを見落とすことがないように、あまりにも自分を忙しくして、主のご計画を見過ごすことがないようにしたいと思います。「やめよ。知れ。/わたしこそ神。」「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」今週、この御言葉に心をとめ、主の前に静まる時を、少しでも多く持ち、私たちとともにおられ、ともに歩んでくださる主を、日常の生活の中で見出したいと思います。
(祈り)
主なる神さま、さまざまなことに心を騒がせやすい私たちに、「やめよ。知れ。/わたしこそ神」と語りかけてくださり、感謝します。「わたしこそ神」と言われるあなたに、「あなたは私の神、私はあなたのもの」とお答えする私たちとしてください。あなたの限りない恵みをさらに知り、あなたをあがめる者としてください。主イエスのお名前で祈ります。
5/7/2023