われらは恐れない

詩篇46:1-3

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46:1 神は われらの避け所 また力。/苦しむとき そこにある強き助け。
46:2 それゆえ われらは恐れない。/たとえ地が変わり/山々が揺れ 海のただ中に移るとも。
46:3 たとえその水が立ち騒ぎ 泡立っても/その水かさが増し 山々が揺れ動いても。

 マルチン・ルターには、フィリップ・メランヒトンという改革の協力者がいました。ルターは、「フリップ、詩篇46を歌おうじゃないか」と言って、この詩篇を一緒に歌ったと伝えられています。実際、ルターは、この詩篇から、「神はわがやぐら」という讃美を作っており、それは宗教改革を導く歌となりました。このように詩篇46は、いつの時代も愛され、特に、困難な時に、人々の慰め、励ましとなってきました。

 一、私たちを取り囲む苦しみ

 詩篇46は「セラ」という言葉で三つに区切られています。最初の区分、1-3節は自然災害、とくに地震や津波のことを言っているようです。2011年3月11日の東日本大震災のとき、宮城県の沖合で起こったマグニチュード9.0という巨大地震は高さが10メートルを越える津波を引き起こし、海岸沿いの町や村を破壊しました。家屋が海に浮かび、船が丘に押し上げられました。2節と3節に「たとえ地が変わり/山々が揺れ 海のただ中に移るとも。たとえその水が立ち騒ぎ 泡立っても/その水かさが増し 山々が揺れ動いても」とあることが実際に起こりました。

 地震や津波でなくても、「地が変わり、山々が揺れる」ようなことは起こります。ニューヨークのワールド・トレード・センターにあったツイン・タワーは、最上階が110階で411メートルの高さがありました。ツイン・タワーは実際の山ほどの高さがありました。それが、2001年9月11日の同時多発テロで、数時間のうちに崩れ去ったのです。

 そして、この3年間、世界中の人々がCOVID-19(新型コロナ・ウィルス)という目に見えないものの攻撃にさらされてきました。健康面だけでなく、政治や経済、社会や学校、教会や家庭も大きなダメージを受けました。「地は変わり、山々が揺れる」ほどの混乱が世界に、また、私たち一人ひとりに起こったのです。

 二、私たちの内にある苦しみ

 私たちが体験する苦しみには、外側からやってくる苦しみと、自分の内側から生じてくる苦しみとがあります。外部からのものと内部からのものは、互いに関連し、影響しあっており、決して切り離すことはできないのですが、私たちの内面の問題が解決され、強められていれば、かなり大きな外部からの問題にも対処することができるようになります。

 たとえば、ある人が、誰かから「いじめ」や「いやがらせ」、「軽蔑」や「無視」などを受けたとしましょう。これらは外側からの苦しみです。しかし、そうした苦しみを受けたとしても、その人が、健全なセルフ・エスティームを持ち、劣等感や優越感から解放されていれば、ひがんだり、卑屈になったり、被害者意識に囚われたり、失望しなくて済みます。信仰を持つ者は、「私は決して完全でも、正しい者でもない。けれども、イエス・キリストによって罪を赦され、神の子どもとして受け入れられている。私には私にしかできない使命があり、そのための賜物が与えられている」との確信を、御言葉によって持つことができます。外からの苦しみを跳ね返し、自分のたましいを守ることができるのです。

 初代のキリスト者は、「いじめ」や「いやがらせ」以上に、財産を奪われたり、故郷を追われたりといった迫害を受けました。しかし、迫害を受ければ受けるほど、人々は強くなり、福音がどんどん広がっていきました。迫害は、過去のものだけでなく、今も多くの国で現実のものです。そんな国に住む、ひとりのキリスト者がこう言いました。「私たちの信仰を嫌う人たちは私たちを地面に打ちつけます。しかし、強く打ちつけられれば、打ちつけられるほど、私たちは高く跳ね上がって、天の喜びに入るのです。それは、私たちのたましいに神の愛が満ちているからです。」空気の入っていないボールは地面に打ち付けられればぺしゃんこなりますが、空気がいっぱい入っているボールは強く跳ね返ります。これは、聖霊に満たされ、信仰に満たされ、喜びに満たされていればこそ語ることができる、素晴らしい証しだと思います。

 詩篇46は「われらは恐れない」と言い切っています。健康上の問題、経済的な苦しみ、仕事のことや人間関係などでの悩みなど、私たちには様々なものが襲いかかって来るでしょう。けれども、私たちのたましいに「われらは恐れない」との確信や平安があれば、落ち着いてそれに対処し、自分を守ることができます。たとえ一時的に落ち込んでしまうことがあっても、祈りによって、また御言葉によって、立ち上がることができます。しかし、心配や不安、恐れが解消されていないままで、それがずっと長引いていると、実際の問題や困難の何倍もの痛み、苦しみを感じるようになります。あわててとんでもないことをしたり、落胆して何もできなくなったります。問題、困難、苦しみに押しつぶされてしまうのです。

 外側からの苦しみも、内側にある苦しみも、それぞれ厄介なものですが、この二つが悪く組み合わさるともっと厄介なものとなります。そのようなときも、「われらは恐れない」と言って、苦しみを乗り越えていくにはどうしたらよいのでしょうか。詩篇46はどう教えているのでしょうか。

 三、私たちの助けである神

 「われらは恐れない」との確信は、私たちがそう思い込むことによって得られるものではありません。「恐れない」、「こわくない」、「大丈夫」と、呪文のように繰り返し、自分を納得させようとしても、本物の確信や平安はやってきません。一時的な気休めだけです。時間が経つと、心配や不安、恐れが戻ってくるのです。「われらは恐れない」との確信を得たいなら、自分が何事においても心配しやすく、すぐに不安になりやすい者であること、また、今、自分が直面している問題に対して恐れを抱いていることを素直に認めることから始めるとよいでしょう。自分の無力を認めることが信仰の出発点です。

 確かに信仰は私たちを強くします。より聖い者にします。しかし、信仰が深まれば、神の助けがいらなくなる、罪の赦しが必要でないほど聖くなる、神を必要としないほど完全になるのというのではありません。むしろ、自分の弱さ、足らなさ、罪深さが分かって、より神に信頼するようになる、それが信仰の成長です。聖書の人物でも、歴史上の人物でも、信仰の模範とされてきた人たちは皆、自分の弱さを知り、罪深さを知る人たちでした。何者にも動じない人ではありませんでした。思い煩いや不安、恐れを持っていました。だからこそ、自分に頼るのでなく、神に信頼し、神に助けを呼び求めたのです。ダビデは詩篇56:3で、「心に恐れを覚える日/私はあなたに信頼します」と言っています。

 パウロも、こう言っています。「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(コリント第二12:9-10)「私が弱いときにこそ、私は強い。」なぜでしょう。自分の弱さを知るからこそ、最も力あるお方に信頼するからです。これは、「キリストが私の力」という信仰の告白です。詩篇46で「神は われらの避け所 また力」と言っているのと同じことです。信仰者は自分の力で恐れを克服し、襲って来る苦しみに立ち向かい、内面の葛藤と戦うのではありません。その力は神の力、神から与えられる力なのです。

 そして、詩篇46は、「苦しむとき そこにある強き助け」と言って、その神の力が、いつでも、すぐに見つかるところに、手の届くところにあると言っています。口語訳では「いと近き助け」、新共同訳では「必ずそこにいまして助けてくださる」、ESV では “a very present help” となっています。

 「避け所」は英語で “refuge” や “shelter” と訳されます。緊急時の「避難所」のことです。災害の多い日本では、何かあったとき、この地域の人はここに避難するようにと、学校や公民館など、身近な場所が避難所として指定されています。地図を調べてから行かなければならないようなところではなく、誰もが知っている場所が選ばれています。予約や、身分証明書、お金は必要ありません。誰でも駆け込めば、保護してもらえます。二年前だったでしょうか、とても寒い日に停電になり、暖房がとれなくなったことがありました。その時、私の住む町では消防署や教会が、電力が戻るまでの間の避難所となりました。そして、そこには誰でも行くことができました。

 神もまた、そのような避難所になってくださるのです。誰であっても、神のもとに駆け込む者を、神は決して退けず、受け入れ、守ってくださいます。神は、私たちの「避け所」、「苦しむとき そこにある強き助け」です。「今日はもう閉店です。明日、また来てください」といったことはないのです。神は24時間、週7日、いつでも、両手を広げて私たちを待っていてくださいます。

 苦しみが私たちを襲うとき、私たちの内側から問題が生じてくるとき、「神さま、まず自分の力でなんとかします。それでもだめだったら、あなたのところに行きます」などと言わないで、すぐに、神のもとに行きましょう。何よりも神に祈り、「神さま、私の力となってください」と願いましょう。それが、苦しみ、悩み、恐れから救われ、与えられた問題、課題を解決していく第一歩となるのです。

 最後にマルチン・ルターが作った「神はわがやぐら」のもとの歌詞を紹介します。ドイツ語をそのまま日本語にすると、次のようになります。

私たちの神はかたいとりで
よい守りの武器です。
神は私たちを苦しみ、悲惨から
助け出してくださいます。
古い悪い敵はいま必死にあがいており、
その大きな勢力と策略を用いて
攻撃してくるので
地上の存在でこれに勝てる者はおりません。
私たちの力は無にひとしいのです。
私たちは立ちえません。
けれども私たちに代わって戦ってくださる方がおります。
それは神ご自身が立ててくださった戦士であられます。
そのお名前を尋ねますか?
その御名はイエス・キリストです。
万軍の主なるお方であり、
神ご自身であられるお方です。
主は敵に譲ることはありません。
悪魔が世に満ちて
私たちを飲み込もうとするときも
私たちは恐れなくてもいいのです。
私たちは敵に勝利します。
この世を支配するサタン、悪魔が
たけり狂っておそってくるときも
彼の手は私たちにとどきません。
彼は神のみことばの一撃で、打ち倒されてしまいます。
世の人たちがみな神のみことばをあざけり、
みことばをふみにじって畏れを知らないときであっても
主は私たちと共に戦ってくださり、
聖霊と賜物を与えてくださいます。
世の人たちが地上のいのち、
財産、名誉、妻子を奪いとろうとしても
世の人たちは何も得ることはできません。
神の国は永遠にクリスチャンのものです。

 (祈り)

 あわれみ深い父なる神さま、あなたは、私たちが、苦しみ、悩み、心配し、不安や恐れの中にあるとき、「私があなたの避難所だ。私のもとに駆け込みなさい。私があなたの力となり、あなたの苦しみ、悩みと戦う」と言ってくださいます。たとえその苦しみ、悩みが、私たちの失敗や至らなさから出たものであってもです。私たちのすぐ近くに、手の届くところにあなたはおられ、私たちの助けとなってくださることを感謝します。常にあなたを私たちの「避け所」、「そこにある強き助け」として、この週も歩ませてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

1/29/2023