静まって知ろう

詩篇46:1-11

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46:1 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
46:2 それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。
46:3 たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ
46:4 川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。
46:5 神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。
46:6 国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発せられると、地は溶けた。
46:7 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ
46:8 来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた。
46:9 主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。
46:10 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」
46:11 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ

 聖書は、クリスチャンにキリストを信じるだけでなく、「キリストのようになる」ことを求めています。神は、「キリストのようになりたい」と願うクリスチャンを、キリストに似た者につくりかえてくださると約束しておられます。しかし、それは、インスタントに、また自動的にではなく、信仰の訓練を通してなされます。神のお与えになる訓練は、人それぞれによって違うでしょうが、誰にとっても共通して大切な訓練というものもあります。その基本的な訓練には「神との親密さ」「シンプルであること」「沈黙と孤独」「明け渡し」「祈り」「謙遜」「自制」「犠牲」の八つがあることを先週学びました。

 先週はその中の「神との親密さ」と「シンプルであること」を学びました。今朝は、「沈黙と孤独」について学ぶのですが、「神との親密さ」や「シンプルであること」と同じように、「沈黙と孤独」もまた、現代では、守るのが難しいものですね。ヘンリ・ナウエンは、車でロスアンゼルスの町の中を通った時、まるで、大きな辞書の中に迷い込んだようだったと言っています。広告のサインや、スピーカから流れてくる音楽やコマーシャル・メッセージなどが、「私を見て!」「私を買って!」「私を身に着けて!」と叫び続け、街は言葉の洪水であふれていたと言うのです。確かに、現代社会は騒がしく、私たちの身の回りが騒がしいだけではなく、心の中までが騒がしくなっているようです。教会の集まりでも、「しばらく黙祷しましょう。」と、黙祷を呼びかけると、一分ぐらいすると、あちらこちらで私語が聞こえてくることがよくあります。沈黙のうちに神とまじわる訓練ができていないのですね。現代の人々は、ひっきりなしに話し声が聞こえていないと、また自分も話していないと落ち着けないでいるのです。それだけに、私たちは、「沈黙と孤独」の訓練が必要です。

 一、神に従うために

 では、「沈黙と孤独」の訓練は何のために必要なのでしょうか。神はそれによって私たちに何を教えようとしておられるのでしょうか。まず、第一に、それは、神に従うことを教えるものです。神は私たちに、神の前に静まることを命じておられ、私たちはそれを守ることによって、神に従うことができるからです。

 神は十戒の中で、私たちに、七日に一日は、仕事をやめて、神を礼拝する時を持つよう命じておられます。出エジプト20:8-10に「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」とあります。ここには、「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。」とあるように、労働の命令もあるのですが、安息日の戒めの眼目は、やはり、「どんな仕事もしてはならない。」ということにあります。神は、私たちに「怠けてはいけない。働け。」と教えておられますが、同時に、「働いてはいけない。休め。」とも命じておられるのです。現代は、十戒のどれもが守られていない時代ですが、とりわけ安息日の戒めが無視されています。毎週礼拝を守っているクリスチャンでさえ、形式としての礼拝は守っていても、聖書が命じる安息を守っていないということがあります。「安息」という言葉には「止める」「停止する」という意味があります。礼拝は、月曜から土曜までの営みを停止させて、まったく新しく神の前に出る時ですが、このことがよく理解できていない人たちは、礼拝をウィークエンドのアクティビティのひとつにしてしまうことがあります。礼拝が日曜日の「仕事」のひとつになって、安息にはならないのです。このことが極端になると「きょうはこどもの当番だから、アッシャーの奉仕があるから礼拝に行こう。きょうは何も無いから、礼拝を休もう。」と考え、礼拝を休んだ時のほうが、身も心も休めることができるように感じてしまうことがあるかもしれません。それは教会を「活動の場」としてとらえ、礼拝を「仕事」のひとつであると誤解しているからだと思います。教会は、まず何よりも、礼拝の場所であり、礼拝は安息の時であるべきです。

 ある人が「七日に一日休むように、七回口を開くうち、一回は、口を閉ざしたらどうだろうか。」と提案してくれました。もちろん、口を開くたびに「一回、二回、…」と数えるわけにはいきませんが、とにかく、口を閉ざす時を多く持つということができたら、今までと違ったことを体験できるかもしれません。

 詩篇46篇でも、神の前に静まるように命じられています。10節に「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」とあります。ここで使われている Raphah というヘブル語には「手を引く」「見捨てる」「放っておく」「避ける」という意味があり、詩篇37:8には「怒ることをやめ、憤りを捨てよ。」というところでこの言葉が使われています。詩篇37:8では「怒りをやめる」とあって、何を「やめる」のかという目的語がありますが、詩篇46:10では、ただ「やめよ。」とだけあります。詩篇46篇では、いったい何を「やめる」のでしょうか。

 2-3節に「たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。」とあります。このことばは火山の爆発や地震、洪水などの大災害を思い起こさせますね。たとえば、地震が起こった時、私たちは何と言うでしょうか。「気をつけて!」「机の下にもぐりこめ!」と叫ぶことでしょう。洪水だったら、「逃げろ!」「急げ!」などと言うことでしょう。そのような時には、誰もが自分の身を守るため、また、他の人の命を守るためにできる限りの努力をするでしょう。ところが、神は、ここで、「やめよ。」「何もするな。」と言っておられます。6節の「国々は立ち騒ぎ」というのは、おそらく戦争のことでしょう。戦争の時にも「守りをかためろ!」「勇敢に戦え!」という号令がかかることでしょう。しかし、神は、「やめよ。」と言われます。もちろん、これは、災いが及ぶ時に何もしなくても良い、命の危険がある時に身を守らなくもよいということを教えているわけではありません。ここでは、もっと霊的なことが教えられています。普通だったらパニックになってしまうような状況の中で、神は、「恐れるのをやめよ。」「心を乱すことをやめよ。」「人間の判断で行動することやめよ。」「不信仰をやめよ。」と語っておられるのです。

 神は、私たちに、日々の生活の中で、仕事をやめ、安息を規則正しく守ることを命じておられます。普段の生活の中で、神の前に静まる訓練が出来ている時、私たちは、とんでもない災いに遭うとき、大変な困難、問題の中に投げ込まれるとき、また、他の人からいわれのない攻撃を受ける時も、神の前に静まり、問題の只中に、神の救いを見出すことができるようになるのです。私たちは「沈黙と孤独」の訓練によって、それを命じておられる神に従うことを学ぶのです。

 二、神を知るために

 神が「沈黙と孤独」の訓練をお与えになるのは、第二に、私たちが神をもっと知ることができるためです。詩篇46:10は「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(口語訳)と言っています。神の前に静まる時を持たないかぎり、私たちは、ここに神がおられ、今私たちに語りかけておられることを気付くこともできないと言うのです。

 主イエスは、神の御子であり、最も神をよく知っておられるお方でした。しかし、そのような主イエスでさえ、神とのまじわりを保つために、しばしば、ひとりで寂しいところに行って祈っておられました。マルコの福音書には、「すると、すぐに」という言葉が何度も出てきます。たとえば、マルコ1:21-31には、ガリラヤ湖畔の町、カペナウムで主イエスがなさったことが書かれています。イエスはカペナウムに行くと「そしてすぐに」(21節)会堂で人々を教えました。「すると、すぐに」(23節)汚れた霊につかれた人が叫び出したので、イエスは汚れた霊を追い出しました。会堂を出ると「すぐに」(29節)シモン・ペテロの家に行き、ペテロのしゅうとめの病気を直しました。日が沈んで安息日が終わると、カペナウムの町中の人々がイエスの評判を聞いて、イエスのもとに押しかけました。主イエスは、人々が連れてきた病人をいやし、悪霊を追い出しました。それは、おそらく、夜遅くまで続いたことでしょう。こうしたことが、たった一日のうちにあったのです。それはイエスにとって、忙しく、また長い一日でした。イエスの評判は、町中にひろがりましたから、翌日もまた人々がイエスのもとに大勢押しかけてくることでしょう。イエスは、そのことを知っていましたから、翌日は「朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」(35節)のです。主イエスは人々を愛し、人々の間で、人々とともに働きました。しかし、同時に、神とまじわる時には人々を避けました。イエスは絶えず人々を教え続け、弟子たちと会話をし、反対者たちと議論しました。しかし、祈りの時には、人に語ることを止め、神に語りかけ、神に耳を傾けました。マルコの福音書は、「すると、すぐに」という言葉を使って、人々の間で精力的に働くイエスの姿を描いていますが、同時に、人々から離れて神とまじわるイエスの姿をも描いています。主イエスがそうであったように、私たちにも、人とまじわる時ばかりでなく、人から離れて神とまじわる時が必要です。主イエスのように精力的に働くとともに、しばしばそれを停止して神の前に静まる時が必要です。

 夏の夜には、虫の鳴き声が聞こえてきます。日本では、虫の声というと情緒があるものですが、アメリカの虫の鳴き声は違いますね。私は、テキサスとカリフォルニアにしか住んだことがないのですが、どちらでも、虫たちは一晩中ひっきりなしに鳴きます。アメリカ人が「虫の声」とは言わず、「ノイズ」という気持ちがよく分かりました。虫の声も、鳴いては黙り、黙っては鳴くから風情があるように、私たちも、ひっきりなしにしやべり、休みなく動き回るだけでは、語ることも、活動することも生かされないで終わることでしょう。チャック・スウィンドールは「確かなものを持っていない人は、忙しくすることによて自分を支えようとする。しかし、よくしゃべり、忙しく動き回っている人は、どこかで霊的な力を失っている。ほんとうの意味で神のため、人々のために働こうとするなら、人々から離れて、神のもとで静まる時が必要である。静寂と沈黙なしには深い洞察をもった人物になることはできない。」と言っています。ヴァンス・ヘヴナーもまた「もし、人から離れるのでなければ、あなた自身がばらばらになるだろう。」("If you don't come apart, you will come apart.")と言っています。

 「沈黙と孤独」の訓練と言っても、ただ単に、誰ともしゃべらずに、ひとりでひきこもっていれば良いというものではありません。たとえ、音声にはならなくても、実は、私たちは、心の中で多くのことを語っているのです。漫画に、セリフをいれる「ふきだし」という枠があります。実際に口に出したことばは、先のとがった「ふきだし」に書き、心の中のことばは、先が丸くなった「ふきだし」に書くというきまりがあります。もし、私たちの心の中のことばが、漫画の「ふきだし」のように見えたなら、たとえ、黙ってはいても、心の中でどんなにかさまざまなことばを発しているかがわかるでしょう。沈黙の時を持つとなおのこと、心のことばが多く聞こえてきます。黙想の訓練が出来るまでは、唇を閉ざしているのに、頭の中が自分のことばで一杯になって、神のことばを聞く備えがまるでできていない自分に気付くことでしょう。「沈黙と孤独」の訓練とは、たんに唇を閉ざすだけでなく、この心の中のことばさえも静めることであり、また、たんに人から離れるだけでなく、神に近づくことの訓練なのです。私たちはこの訓練によって、より神を深く知ることができるようになるのです。

 三、神に信頼するために

 「沈黙と孤独」の訓練は、第三に、私たちが神に信頼するために必要なものです。

 十戒は「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」と命じています。しかし、皆さんの中には、会社から日曜日も働くように命じられることもあり、「一週間に七日働かなければ、生活が成り立たない。」という人もいるでしょう。だからこそ、安息日の戒めは大切なのです。安息日の戒めは、そんな私たちを仕事の奴隷から解放するためにあるからです。安息日の戒めは、私たちをかぎりない欲望から救い出し、私たちを金にではなく、神に仕えさせてくれます。最善を尽くして礼拝を守ることによって、私たちは、仕事の奴隷、欲望の奴隷になって身を滅ぼすことからまぬかれることができるのです。そして、安息日を守ることによって、私たちの生活は、実際は、私たちの労働によってではなく、神の恵みによって支えられているのだということを学ぶことができます。詩篇127:2に「あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」とあります。神は、私たちに安息を命じ、神の前に静まることを命じておられますが、それは、私たちが、自分の働きの手を休めて、神の御手に目を留めるようになるためです。

 詩篇46篇は「地は変わり山々が海のまなかに移る」という大災害の中でも、「われらは恐れない。」(2節)と言い切っています。なぜ、そう言うことが出来たのでしょうか。それは、神が、神を信じる者とともにおられる、その確信があったからです。「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。」ということばが7節と11節の両方に繰り返されています。では、この確信はどこから来るのでしょうか。それは、「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」とのおことばに聞き従うことから来ます。自分の手のわざを捨て、神の御手に目を留め、自分で自分に語りかけることをやめて、神のお声に聞くことによって、神への信頼が生まれ、「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」(1節)であると言うことができるようになるのです。

 モーセに導かれて、エジプトを脱出したイスラエルの人々は、荒野へ旅立つのですが、たちまちにしてエジプト軍に追いつかれました。前は海、後ろはエジプト軍という絶体絶命の時、イスラエルの人々は口々にモーセに向かって不平不満をぶちまけました。出エジプト14:11-12には「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」とあります。神の全能の手によって、エジプトの奴隷から救われたばかりだというのに、彼らはもうそのことを忘れてしまって、不平不満で一杯になっているのです。人間というものは、まるで工場のように、次から次へと不平不満を生産しているのですね。これに対してモーセは言いました。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」(出エジプト14:13-14)神の救いを体験するには、「黙っていなければならない。」のです。神の主権を認め、神の真実に信頼して、神の前に出て静まる時、私たちは、主の救いを見るのです。

 ユダヤの人々は祈る時、「主よ。」と呼びかけたなら、その後、しばらく沈黙し、神が主であるということがどんなことなのかを瞑想し、それから祈りを続けると聞いたことがあります。祈りの中にも沈黙の時があり、それを通して、神を深く知り、神への信頼を学ぶのだそうです。賛美も同様です。詩篇には「セラ」という言葉を時々見かけます。46篇にも、3節の終わり、7節の終わり、そして11節の終わりにあります。これは、詩篇が歌われた時の音楽記号のひとつで、ここで沈黙の時をとると言われています。1節から3節を歌った後、歌うことをしばらくやめて、歌われている内容を深く思い見る、そして、4節から7節を歌い、しばらくポーズをとって8節から11節を歌い、最後にまた、しばし沈黙の時をもって終わるということになります。詩篇で神を賛美する時も、静まって神を思うことを実践したのです。私たちは、祈る時も、賛美する時も、ただ口を開いてことばを出すというのでなく、心の中で静まって、神を思う、そのような心の態度を持ちたいと思います。「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」神は、私たちに、神の声を聞かせ、神をさらに深く知ることができるようにと、「沈黙と孤独」の訓練をお与えになります。この訓練によって、神に従うことと、神に信頼することを学びとっていきましょう。

 (祈り)

 神さま。私たちは、なんと多くの言葉、しかも、不平や不満、つぶやきや疑いの言葉を発しているでしょうか。このことだけはどうしても言いたいと自分の主張を語りますが、それが、多くの場合、何の良い結果ももたらさず、人を傷つけ、自分を傷つけ、そしてあなたの栄光を傷つけてしまうことが多いのです。主よ、私たちに、まず何よりも、あなたの前に沈黙し、あなたを待ち望むことを教えてください。そうすれば、私たちは何を語るべきか、何を語らざるべきかを学ぶことができるでしょう。そしてなによりも、私たちを取り囲んでいる困難や問題からのほんとうの救いがあなたにあることを知ることができるでしょう。静まって、あなたを知る訓練に喜んで従うことのできる私たちとしてください。この訓練においても私たちの模範となってくださった主イエスのお名前によって祈ります。

7/24/2005