42:1 【聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子のマスキールの歌】神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。
42:2 わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。いつ、わたしは行って神のみ顔を/見ることができるだろうか。42:3 人々がひねもすわたしにむかって/「おまえの神はどこにいるのか」と言いつづける間は/わたしの涙は昼も夜もわたしの食物であった。
42:4 わたしはかつて祭を守る多くの人と共に/群れをなして行き、喜びと感謝の歌をもって彼らを神の家に導いた。今これらの事を思い起して、わが魂をそそぎ出すのである。
42:5 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。
「水」は命になくてならないものです。人間のからだは、赤ちゃんの場合は体重の80%、大人は60%が水分でできています。体内の水分が少しでも減ると、まず喉が渇きます。十分に水分を補給しないと、疲れたり、発熱したりします。ごくわずかのパーセンテージの水分が無くなっただけで、死に至ることがあります。アフリカの砂漠などで道に迷って水を飲めなかった人たちが、二、三日のうちに発狂し、脱水症で死んでいくということがあります。
人体のおよそ三分の二が水であるように、地表の三分の二も水です。けれども、海の水はそのままでは飲めません。飲み水として使うことができるのは地上の水のわずか2.5%にすぎません。ところが、地球は今、どんどん砂漠化しています。毎年600万ヘクタールもの土地が砂漠になっています。北海道の面積が834万ヘクタールですから、それに近い土地が砂漠化しているわけです。このままでは、人類は渇きのために滅びるのではないかと心配されています。地球もそこに住む動物も、人間も渇いているのです。
一、たましいの渇き
人間にはからだがの渇きとともに、もうひとつの渇きがあります。それはたましいの渇きす。詩篇42篇は「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ」という言葉で、この渇きを描いています。たましいの渇きをいやそうとする人間の姿を、谷底まで降りていって必死で水を探す鹿の姿にたとえているのです。イスラエルのあたりは雨季と乾季のはっきりしたところで、雨季には水がいっぱいの川も、乾季には涸れてしまうものがたくさんあります。鹿は乾季になると谷を降りていって、川底にあるわずかな水を飲んで、渇きをいやそうとします。急な斜面を駆け下り、谷筋にそって、匂いを嗅ぎ分けながら、水を探すのです。乾季に鹿が必死に水を捜し求め、渇きをいやそうとするように、人のたましいもまた渇きを覚え、その渇きをいやそうとする。そんな姿が描かれています。
「しかが谷川を慕いあえぐように…」とは見事な表現ですが、続く「わが魂もあなたを慕いあえぐ」という表現も、それに劣らず見事な表現です。ヘブル語で「たましい」は「ネフェシュ」というのですが、「ネフェシュ」にはもともと「喉」という意味があるのです。水が足らなくなると喉(ネフェシュ)が渇くように、人のたましい(ネフェシュ)も同じように渇くのです。喉の渇きとたましいの渇きがかけことばになっているのです。水や食べ物は「喉」(ネフェシュ)を通って体に入ります。そこから「ネフェシュ」は、人間の生きようとする欲求を表わすようになりました。そして、そこから「ネフェシュ」は人の「命」や「たましい」を表わすようになったのです。人は欲求することによって生きています。もし、生きる意欲を失くしたら、たとえ、からだは生きていても、その人の人生は死んだも同然になってしまいます。人のたましいは、他の動物にはない欲求を満たそうと、飢え渇いているのです。
人間にはどんな欲求があるのかを研究したのがアブラハム・マズローという心理学者です。マズローの「欲求の五段階」はよく知られています。第一は「生理的欲求」です。お腹がすいて食べ物を求める、喉が渇いて水を求めるなどは、ここに属します。第二は「安全の欲求」です。自分のからだの安全から始まって、自分を支えてくれるもの安全を願います。このふたつは動物も持っている欲求です。動物たちは、お腹がいっぱいになり、安全な住処を得ればそれで満ちたります。しかし、人間にはそれ以上の欲求があります。第三は「所属の欲求」あるいは「社会的欲求」です。人はひとりでは生きていけません。家族や友人、仲間、社会といった他の人とのつながりが必要です。第四は「承認の欲求」これは、自分の価値を知り、それを確信する、また、その価値を他の人から認めてもらい、評価されたいという欲求です。第五が「自己実現の欲求」で、「あるべき人間になりたい」という欲求です。
これは、ひとつの学説にすぎず、すべてがこれによって説明できるわけではありません。人間には、自己実現を超えて純粋に目的のために、他者のために生きるという面もあります。もっとも、マズローもそのことに気がついていたようで、晩年には、この「五段階」の上にさらに「自己超越」という段階があると言うようになりました。それはともかく、人間には、動物が求める以上の精神的、霊的な求めがある、人のたましいは目に見えないものを求める渇きがあるということは、心理学者も認めるところなのです。この世の基準で不足のない生活ができれば、渇きが無くなるというのではないのです。人はみな、その内面に渇きをを持っています。渇きを持っているのが人間、人間は霊的な渇きを持つことによって他の動物とは区別されると言ってもよいでしょう。
二、渇きを満たすもの
孤独な人は、人とのつながりを求めます。親からも、先生からも、上司からもよい評価を与えられなかった人は、自分の価値を認めてくれ、評価してもらえる場をさがすでしょう。自分の才能を生かせなかった人は、その機会を求めることでしょう。差別を受けて苦しめられてきた人たちは社会に正義や公平を願い求めるでしょう。自分の中にある欠けたものを満たしたいという願いが生きる力となり、努力を生み出します。そうした願いや求めは、正しい方法で満たすのなら良いのですが、自分の努力を後回しにして、手短かに結果だけを得ようとすると、大きな間違いをしてしまいます。たとえば、人とのつながりを求めるあまり、その人への真実な気持ちや愛情を確かめないまま結婚してしまうということがあります。また、人に認めてもらいたい一心で、犠牲的に人に尽くすのですが、それがほんものの愛から出たものではないため、疲れて果てて鬱状態に陥るといったこともあります。また、人を騙したり、押しのけたりして不正な方法で自己実現の機会を手にいれようとすることもあります。社会に正義と公平を求めるのは間違ったことではありませんが、それを暴力によって実現しようとすると、それこそ社会の正義に反してしまいます。
たましいの渇き、それは、たましいの根本的な問題を解決してこそ、満たされるものです。やりがいのある安定した仕事に就き、健康で、家族に大きな問題もなく、なにもかも満たされていても、満足を感じることなく、いつも何かにおびえたり、心配したりしながら、喜びも、平安もなく生きている人が多いのです。それはまず根本的な問題を解決しないでいるからです。それは、たましいの大きな空洞を満たすことをしないまま、小さな穴を塞ごうと努力しているからです。聖アウグスティヌスは「神は人を神にむけてお造りなった。だから、人の心は、神のうちに憩うまで、安らぎを得ることができない」と言いました。人のたましいには神にしか埋め合わせることのできない空洞があるのです。丸、三角、四角などの穴のあいた箱に、同じ形のブロックを入れて遊ぶおもちゃがあります。丸い穴に三角や四角のブロックは入りません。それと同じように、神のかたちに造られた人間のたましいには、神によってしか埋め合わせることができない空洞があるのです。人はどんなに、安全、安心な生活ができても、大勢の人々に取り囲まれ、人々の尊敬を集めていても、この世のもの、人間からのものでは満たされないものを持っているのです。
詩篇42篇の作者は、不幸な境遇にありました。かつては神殿で神を礼拝したのに、今は、エルサレムを遠く離れて、神を信じない人々の中にいます。みずから進んでそうしたのではありません。強いられてエルサレムから引き離されたのでしょう。ありもしない疑いをかけれらて追放されたのかもしれません。あるいは、戦争に負けて捕虜として外国に引っ張られていったのかもしれません。この詩の作者は、そうした状況の中で、具体的な救いを祈り求めることができました。神の正義の裁きを願っても良かったのです。しかし、この詩の作者は、そうしたことではなく、神ご自身を、生ける神をひたすらに求めています。「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。いつ、わたしは行って神のみ顔を見ることができるだろうか」とある通りです。
わたしたちは、あまりにも過酷な環境の中では生きていくことができません。病気になってからだが弱くなれば、心も弱くなります。あまりにも多くのプレッシャーが一度に重なると、精神的にまいってしまいます。しかし、だからといって、環境が変われば、健康を取り戻せば、また問題が去れば大丈夫かというと、そうではありません。心の中に空いた大きな空洞が残るかぎり、いやされない渇きを持ち続けるのです。誰しも、最初は、目に見える問題の解決を願って神を求め、教会にやってきます。それは自分の問題であったり、家族の問題であったりします。それで良いのです。苦しい時は神頼みをすればよいのです。神は求める者に答えてくださいます。しかし、そこから、神がどんなに力あり、真実で、わたしたちにとってなくてならないお方であるかを知るようになります。信仰がご利益を受け取る手段ではなく、神との信頼の絆であることが分かってきます。神が、わたしたちにさまざまな恵みをくださるだけでなく、ご自身を与えようとしておられることが分かるようになります。自分を満たすものが、神の恵みのおこぼれではなく、神ご自身であることが分かり、「わたしはあなたを慕い求めます。あなたの生命によって生かされたいのです。あなたにお会いしたいのです。あなたがわたしを満たすお方だからです」との祈りに導かれていくのです。
スプライトのコマーシャル・メッセージに "Obey Your Thirst" というキャッチ・コピーがあります。「喉がかわいたら我慢しないで、冷えたスプライトの瓶をあけて飲みなさい」というわけです。誰も喉の渇きを我慢しないように、たましいの渇きにも素直でありたいと思います。自分の渇きをごまかさないで、ただおひとり、それを満たしてくださる神のもとに向かいましょう。イエス・キリストは「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」(ヨハネ6:35;7:37,38)と言われました。この主のもとに行き、たましいの飢えと渇きをいやされようではありませんか。
(祈り)
神さま、あなたこそ、わたしたちのたましいの求めを満たし、渇きをいやすお方です。わたしたちはたましいの渇きを覚えて、あなたのもとにやって来ました。これから与る主の晩餐のパンと杯によって、約束のとおり、わたしたちを満たし、いやしてください。この晩餐によって、他のどんなものよりも、あなたご自身を熱心に求める信仰へと導いてください。主イエス・キリストによって祈ります。
7/5/2015