ゆとりを与える神

詩篇4:1-8

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4:1 【聖歌隊の指揮者によって琴にあわせてうたわせたダビデの歌】わたしの義を助け守られる神よ、わたしが呼ばわる時、お答えください。あなたはわたしが悩んでいた時、わたしをくつろがせてくださいました。わたしをあわれみ、わたしの祈をお聞きください。
4:2 人の子らよ、いつまでわたしの誉をはずかしめるのか。いつまでむなしい言葉を愛し、偽りを慕い求めるのか。〔セラ
4:3 しかしあなたがたは知るがよい、主は神を敬う人をご自分のために聖別されたことを。主はわたしが呼ばわる時におききくださる。
4:4 あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい。〔セラ
4:5 義のいけにえをささげて主に寄り頼みなさい。
4:6 多くの人は言う、「どうか、わたしたちに良い事が見られるように。主よ、どうか、み顔の光を/わたしたちの上に照されるように」と。
4:7 あなたがわたしの心にお与えになった喜びは、穀物と、ぶどう酒の豊かな時の喜びに/まさるものでした。
4:8 わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです。

 1節に「あなたはわたしが悩んでいた時、わたしをくつろがせてくださいました」とあります。ここはいろんなふうに訳されますが、もともとは「大きくする」という言葉が使われています。ここで使われている「大きくする」という動詞から出た言葉は詩篇18:19で使われています。「主はわたしを広い所につれ出し、わたしを喜ばれるがゆえに、わたしを助けられました」の「広い所」という部分がそれです。詩篇18篇はダビデがサウルから救われたときに歌ったものですが、ダビデはサウルの執拗な追撃を逃れて岩山や洞窟に隠れていたことがありました。ダビデはそんな狭いところから、文字通り広い所に連れ出されました。神はダビデの居場所を広くしてくださり、その領域を大きなものにしてくださいました。それで、「大きくする」という言葉は、「苦しみから救い出す」という意味を持ち、新共同訳では「苦難から解き放ってください」と訳されています。けれども、神がダビデを「大きくされた」というのは、ダビデの名声や支配、領土のことだけではありません。ダビデの「心」を大きくされたのです。それで、新改訳は詩篇4:1を「あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました」と訳しています。神はダビデの心を大きくし「ゆとり」を与えてくださったのです。

 一、心のゆとり

 苦しみや困難の中にあるとき、私たちの心は、狭く、小さくなります。目の前の辛いこと、嫌なことだけに心が占領されてしまいます。助けや救い、希望があるのに、それが見えなくなってしまいます。こころが狭くなるのです。不平や不満が心に一杯になってきて、心の容積が小さくなってしまいます。そのため、感謝なことや喜ぶべきことが心に入ってこなくなります。そんなとき必要なのは、心の余裕、「ゆとり」です。

 私は、日本で「軽自動車」に乗っていたことがあります。ガソリンをあまり食わず、税金も安く、狭い道でも通り抜けられるので、随分重宝しました。今の軽自動車はエンジンも、車体も大きくなりましたが、私が乗っていたころの軽自動車は360ccのエンジンで、運転席も客室も狭く、窮屈でした。それでも家族4人で少し遠出をすることもありました。フリーウェーでは80km/hしか出せませんし、上り坂になると、エンジンの音だけは大きいのですが、みるみるスピードが落ちていきます。他の車がどんどん追い越して行きました。

 私たちの心も、軽自動車で上り坂を登るように、精一杯回転して、なんの「ゆとり」も余裕もなければ、どうなるでしょうか。エンジンがオーバーヒートしてしまうように私たちの心もバーンアウトしてしまいます。「神さま、私をくつろがせてください」「私の心にゆとりを与えてください」と祈る必要があると思います。

 車のアクセルやブレーキのペダルには「遊び」という部分が設けられています。それに足が触れただけで、急に車が発進したり、急にブレーキがかからないようにするため、ペダルを踏んでも何も起こらない部分があります。これがあるために、ペダルは弱く踏めば弱く、強く踏めば強く反応し、車をコントロールしやすくなっているのです。

 機械にさえ「遊び」の部分が必要なら、人間にはなおのことです。現代社会は、生産性を上げるため、「ムダ」「ムリ」「ムラ」の三つの「ム」を失くそうとしてきました。しかし、人間には「ムダ」と思える部分も必要なのです。働くだけでなく休むこと、義務からでも、報酬や名声のためでも、人と競うためでもなく、まったく楽しみのために、自由に過ごす時間、「遊び」の時間が必要です。それが人を生かすのです。ところが、現代は、遊びまでもが、企画されたもの、半ば義務のようになってしまっています。大人からも子どもからも、ほんものの遊びや楽しみが奪われているように思います。

 以前は、人と人がぶつかり合っても、お互いの間にクッションがありました。一時的に喧嘩をしても、クッションがあるため、そんなに深く傷つけあうことがなかったように思います。しばらくすればまた仲直りして、いっしょにやっていくことができました。ところが、現代は、ひとりひとりの心に余裕、ゆとり、遊びの部分がなくなり、ペダルに触れただけで急ブレーキがかかったり、急発進したりする車のように、自分の気にいらないことがあるとすぐにそれに反応し、自分とぶつかった人を傷つけたり、殺したりということが起こるようになりました。いわゆる、「切れてしまう」のです。

 「切れる」というのは、突然、怒りを爆発させることですが、いつ頃からそう言うようになったのでしょうか。「切れる」というと、「電池が切れた」、「お醤油を切らしてしまいました」などと、何かが無くなる状態を表わしますので、怒りを表わして、大声を出したり、暴力をふるったりというのは、我慢や忍耐が切れることを言うのかもしれません。そう言えば「堪忍袋の緒が切れる」という言葉は昔からありました。「あの人はなかなか切れる人だ」というのは、知恵があって、判断が的確な人のことで、褒め言葉ですが、「あの人はすぐ切れる人だ」というと、悪い意味になってしまいます。同じ「切れる」という言葉でもまったく違った意味で使われています。日本語は難しいですね。

 現代の子どもはすぐに「切れる」と言われます。子どものころから、物質的に恵まれた環境で育ち、欲しいものは何でもすぐに手に入れてきましたから、我慢する、忍耐するということを学ばないでしまったのです。弾力のないゴムを引っ張るとプッツンと切れてしまいます。そのように心に弾力がないため、ものごとが思い通りにならないと切れてしまう子どもが増えたのでしょう。

 しかし、こどもだけを責めることはできません。子どもが欲しがるものを何でも買い与えてきた親にも責任があります。私たち親は、こどもの心の弾力がまだ十分でないのに、「行儀よくしなさい」「きちんと片付けなさい」「ちゃんと勉強しなさい」「バイオリンのお稽古を頑張りなさい」などなど、あまりにも多くのことを性急に要求して来たかもしれません。実際、夜遅く仕事から帰ってきた父親が、その日、子どもがバイオリンの練習をしなかったのを知ると、もう寝ている子どもをたたき起こしてバイオリンの練習をさせていたということも聞きました。ダラスに来る前、私は「シリコンバレー」にいました。IT企業がひしめき合い、競いあっているところです。多くの人が忙しい生活を送っており、小さな子どもまでが、スケジュールがびっしりの生活をしていました。サンデースクールで楽しい活動をしようとしても、子どもたちはなかなか乗ってきません。こどものひとりが「ぼく疲れた。休みたいよ」と言いました。エネルギーがありあまっているはずの子どもが、そう言ったのです。子どもたちも「余裕」や「ゆとり」、そして「くつろぎ」を失くしているのです。

 「子どもはちいさな大人ではない。」これは私が教育学を学んだとき、最初に聞かされた言葉です。子どもには子ども独自の世界があります。私たち大人は自分たちの基準を子どもにあてはめ、子どもを、小さな大人に作り上げようとしてしまいがちですが、実はそれが子どもの本当の成長を妨げるのです。子どもは、子どもだけが持っている、自由でゆったりとした時間の中で成長していくのです。それを子どもから奪ってはいけないと思います。子どもがすぐに「切れる」のは、子どもだけの問題でなく、子どもを取り囲んでいる社会の問題でもあるように思います。大人や親がまず「切れて」いる、そんな社会の状態は、ニュースなどで良く知られている通りで、ほんとうに残念なことです。

 そんな社会の中で、心に「ゆとり」を持って生きていく、そのために私たちは何ができるでしょうか。

 二、ゆとりを得る方法

 聖書は「<あなたは>わたしが悩んでいた時、わたしをくつろがせてくださいました」(口語訳)、「<あなたは>、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました」(新改訳)と言っています。そうです。心にゆとりを得ることができる唯一の方法は、私たちをくつろがせてくださり、私たちに余裕を与えてくださるお方を、心に迎えること、平安と喜びのみなもとであるお方を持つことです。それ以外には本当の「ゆとり」を持つことはできません。「ゆとり」を持とうとして努力しても、「ゆとり」を持つための努力が、逆に「ゆとり」を奪ってしまうのです。

 詩篇4:7-8はこう言っています。「あなたがわたしの心にお与えになった喜びは、穀物と、ぶどう酒の豊かな時の喜びにまさるものでした。わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです。」私たちの心を満たす本当の喜びは、あらゆる努力をしてこの世のものをかき集めても得られるものではありません。また、私たちのたましいを支える平安も、精神修養によって得られるものではないのです。それは喜びのみなもと、平安のみなもとである神から来るのです。

 こんな話があります。文明から隔離されたある小さな国の王様が、その国の大臣といっしょに、19世紀のアメリカにやってきました。そびえ立つビルディング、全国に張り巡らされた鉄道網、そこを走る列車、各家庭の豊かな食事など、この王様にとって、見るもの、聞くもののすべてが驚きでした。なかでも、この王様が一番感心したのは、ひねるだけで水が出てくる蛇口でした。彼の国では、水は何時間もかけて川に行って汲んで来なければなりません。水汲みは女性や子どもの仕事でした。水汲みをしなくて済めば、炊事も洗濯も掃除もどんなに楽になることでしょう。子どもが水汲みから解放されたら、学校で勉強できるようになります。それでこの王様は大臣に、蛇口を買って来るように、しかも、金ピカのいちばん上等のものを買って来るように命じました。ふたりは、その蛇口を宝物のようにして大切に国に持って帰りました。そして、それを王宮の壁につけ、蛇口をひねってみました。しかし、そこから一滴の水も出てきませんでした。それは水道につながっておらず、その国にはまだ水道がなかったのです。王様と大臣は蛇口さえ持って帰って壁につければ、どこからでも水が出てくると思っていたのです。

 私たちもこれと同じようなことをしていることがあります。誰もがしあわせを求め、平安を求め、喜びを求めています。人生の意味を探求し、その目的を追求しています。しかし、そうしたものの与え主であるお方、父なる神と主イエス・キリストをないがしろにしているのです。聖書を学ぶときさえそうかもしれません。聖書はじつに興味深い書物で、そこからありとあらゆる知識を汲み出すことができます。しかし、聖書をたんに「お勉強」のテキストブックとしても、人のたましいにほんとうに必要なもは得られないでしょう。聖書は、神の言葉として、神から私へのメッセージとして読まなければ、たとえ人の好奇心は満たされても、人の霊は生かされることはないのです。

 預言者エレミヤは言いました。「それは、わたしの民が二つの悪しき事を行ったからである。すなわち生ける水の源であるわたしを捨てて、自分で水ためを掘った。それは、こわれた水ためで、水を入れておくことのできないものだ。」(エレミヤ2:13)私たちも命の水の源である神ご自身ではなく、結局はこわれた水ためのような、自分の知恵、知識、努力などに頼ってはいないでしょうか。

 イエスは言われました。「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。」(ヨハネ7:37-38)イエス・キリストを心と生活と人生に迎え入れるとき、私たちは、人はなぜ、何のために生きるのかという根本問題に答えを得ることができます。このことが分かれば、その他のことは、おのずと解決していきます。

 米粒のはいった器にあとからボールを入れようとしても米粒は器からこぼれてしまいます。けれどもまずボールを入れ、あとから米粒を入れれば、米粒はちゃんと器に収まります。イエスは「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ6:33)と言われました。「神の国と神の義」という第一のものを第一にして生きるとき、私たちの人生は自ずとゆとりあるものとなっていきます。自分にゆとりがなくてどうして他の人を助けてあげられるでしょうか。心のゆとりが無ければ、温かい心で人に接することができなくなってしまいます。神がくださる心の豊かさが、自分にも、まわりの人にも幸いをもたらすのです。

 そのために、一日を神と共に始めましょう。一週間を神のことばで始めましょう。そして一ヶ月を主の晩餐を通してイエス・キリストと共にはじめましょう。神に心を大きくしていただくとき、私たちの人生もまた大きく広がっていくのです。

 (祈り)

 父なる神さま、痛みや苦しみ、困難で押しつぶされ、小さく狭くなりがちな私たちの心を、大きく広げてください。「くつろぎ」と「ゆとり」はあなたから来ます。あなたにそれを求めます。喜びと平安のみなもとであるあなたご自身を求めます。どうぞ私たちひとりひとりをあなたの良きもので満たし、互いが互いを高め合うまじわりへと、私たちを導いてください。主イエスのお名前で祈ります。

8/11/2013