悪が栄える時

詩篇37:1-9

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37:1 悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。
37:2 彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。
37:3 主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。
37:4 主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
37:5 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
37:6 主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。
37:7 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。
37:8 怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。
37:9 悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。

 今日は9月11日。テロリストがハイジャックしたジェット機がニューヨークのツインタワーめがけて突っ込み、何千という人々が一瞬にして命を落とした、あの2001年9月11日からちょうど4年が経ちました。多くの人々は「21世紀が不安で問題の多い世紀になるだろう」と予想しましたが、はたして、そのとおりになったのです。9・11は、不安で危険な21世紀の幕開けを象徴するような出来事でした。あの9・11から4年間に、アフガン戦争やイラク戦争があり、スペインで、イングランドで同じようなテロが起こりました。テロだけではなく、世界中で凶悪な犯罪が増えつづけています。かつて欧米には「罪」の意識、東洋には「恥」の意識というものがあり、それが犯罪を食い止めていました。ところが、現代では「罪」の意識が薄れ、「恥」の意識も消え、犯罪が横行するようになりました。ある人は、「罪」の意識や「恥」の意識というものは、人間が作り出したもので、そういう古い殻を打ち破ってこそ人間は自由になり、社会は良くなっていくのだと主張してきました。この主張は正しかったでしょうか。いいえ、人は罪を犯すことによって、さらに罪に束縛されるようになりました。罪の奴隷になりこそすれ、自由にはなれなかったのです。罪の本質は、自分さえ良ければ、他の人はどうなっても良いという考え方にあります。そのような考えが社会を良くしていくわけはありません。また「恥」を忘れると、今の楽しみさえ手に入れば後はどうなっても良いという生き方をするようになります。そのような生き方からは決して意義あるもの、美しいもの、将来の希望につながるものは生まれてこないのです。

 9・11は起こってはならなかった出来事ですが、別の角度から見れば起こるべくして起こった出来事でもありました。自分たちの主義や主張のためには、人の命などどうでも良いという考え方、生き方が、形や規模は違っても世界中で、また、私たちの身の回りで起こっているからです。聖書は「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。」(テモテ第二3:1)と教えています。「そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。」(テモテ第二3:2-5)と、テモテへの手紙第二3章に書かれています。悪が栄える時代が来るというのですが、まさに、今が、その時代だということができるでしょう。

 聖書は今の時代を「曲がった時代」(使徒4:20)と呼んでいます。この曲がった時代に、クリスチャンはまっすぐに生きようとするので、あちらでぶつかり、こちらで窮屈な思いをするのす。クリスチャンばかりでなく、多くの心ある人々も、この世の悪を見て、怒ったり、悲しんだり、悩んだり、また、それを批判したりします。クリスチャンが悪を見聞きしてフラストレーションを感じるのは、当然のことです。もし、クリスチャンが、この世で何のフラストレーションも、戦いも体験しないでいるとしたら、そのほうが問題なのです。もしかしたら、その人は、この世と調子を合わせて生きるだけで、「世の光」「地の塩」となるというクリスチャンとしての生き方を忘れてしまっているのかもしれません。しかし、クリスチャンの生活はフラストレーションで終わるものではありません。悪が栄えるのを見る時も、私たちはそれに対処する方法を教えられているのです。今朝はそのことを詩篇37篇から学びたいと思います。

 一、怒るな

 詩篇37篇はまず、「腹を立てるな。怒るな。」と教えています。1節に「悪を行なう者に対して腹を立てるな。」とあり、7節に「悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。」とあります。8節には「怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。」と書かれています。

 では、いっさいの「怒り」は間違ったものなのでしょうか。人はどんな場合でも怒ってはいけないのでしょうか。そうではありません。「怒り」は、自分自身を、また他の人を守るために、神が私たちに与えてくださった感情で、それ自体は間違ったものでも、不必要なものでもありません。私たちは、誰かが私たちを傷つけようとする時、そのことに怒ります。それによって自分を守るのです。また誰かが弱い者を踏みつける時、そのことに怒りを覚え、それによって力のない人々を守ろうとするのです。正しいことが曲げられる時、私たちは怒ります。このような怒りによって社会が正され、秩序が保たれるのです。何よりも神ご自身が不正に対して「怒る」お方であり、神は私たちに「怒り」の感情が必要と認めて、私たちに「喜怒哀楽」の感情を与えてくださったのです。ある人が「現代人は何事にも無関心で、アングリーとハングリーの精神が足らない。」と言っていましたが、ほんとうにそうだなあと思えることがよくあります。不正に対する「怒り」はなくしてしまってはならないと思います。

 しかし、「怒り」は正しく用いられないと、私たちに罪を犯させる危険があります。「怒り」は自分を守るためにあるのですが、自分を守るということが正しい意味でなされないで、ひとりよがりの意見や、枝葉のことで怒り散らすということがあるからです。車に乗ると、他の人の運転にいちいち怒ったり、テレビ・ニュースで大統領が出てくるたびに怒ったりする人がいますが、それは、正しい怒りではありません。聖書は「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」(エペソ4:26-27)と教えています。「怒っても、罪を犯すな」というのは、「怒り」そのものは罪ではなくても、「怒り」を正しく処理していないと、それが罪になるということを教えています。「日が暮れるまで」というのは、「怒り」を明日に持ち越してはいけないということです。「怒り」を何日も、何週間も、また、何ヶ月も何年も持ちつづけていると、今度は自分が怒りのとりこになってしまいます。とても恐ろしいことですが、処理されていない怒りを持ち続けていると、悪魔がそれに乗じて、私たちの心を左右することもあるのです。「悪魔に機会を与えないようにしなさい。」というのは、そのようなことを教えています。悪魔の罠に陥らないため、怒りをきちんと処理しておかなくてはなりません。

 「怒り」を覚えたなら、それを祈りによって神の前に持っていきましょう。一体、自分は何を、なぜ怒っているのか。その怒りは正当なものなのか。その怒りによって守ろうとしたものは何だったのか。たんに自分のプライドや面子だけなのか、それとももっと大切なものだったのか。自分にとってほんとうに守るべきものは何なのか。それをどのようにして守ればいいのか、考えてみるのです。しかし、自分の思いだけであれこれ考えていても、答えは出てきません。そうしたことを神に祈り、神とともに考えるのです。祈りによって、神の助けをいただいてはじめて、私たちは怒りを正しく処理することができるようになります。悪が栄えるのにわずらわされる時、それに対する怒りだけで終わらず、祈りによって次のステップに進むことができるのです。

 二、悪を行なう者の運命を知る

 「怒ることをやめ、憤りを捨てよ。」に続く、次のステップは、「悪を行なう者の運命を知る」ということです。私たちは、悪の栄えるのを見ると、それがいつまで続くのだろうと不安になります。誰にとっても苦しみの時は長く感じられるもので、それが永遠に続くように見えるときもあります。特に、自分が直接悪に苦しめられるような時は、大変つらく、とても長くは耐えられないと思えるものです。詩篇には「主よ、いつまでなのですか。」(詩13:1)という祈りが数多く出てきます。「主よ、悪しき者はいつまで勝ち誇るでしょうか。」(詩篇94:3)という祈りもあります。私たちは、神が必ず悪をさばかれることを知っています。しかし、そのさばきは、いつでも即座にはやってくるというわけではないので、私たちはしばしば忍耐や神への信頼を失ってしまうことがあります。アサフという人は、詩篇73:1-3で「まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。それは、わたしが誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。」と言っています。「悪者は人々をしいたげ、神を冒涜しても、なお安らかで、富を増しているではありませんか。彼らは死ぬ時にも苦痛がないのです。神さま、いったいどうなっているのですか。」とアサフは訴えているのです。アサフならずとも、私たちも、正しい人が苦しく短い生涯を送っているのに、悪い人が豊かで長生きしているのを見ると、「神さま、いったいどうなっているのですか。」と訴えたくなります。

 しかし、聖書は、はっきりと、悪はかならず裁かれると教えています。人間の目から見るならそれは長く感じられるかもしれませんが、神の目から見るなら、悪が栄えるのはほんのひと時にすぎないのです。2節に「彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。」とあります。サンホゼの東側の丘は、春には草で覆われ緑の丘となりますが、やがて草がかれ、茶色い丘に変わってしまいます。そのように悪を行なう者の運命は、すでに定まっており、悪事は長続きしないのです。聖書のバックグラウンドになったイスラエルもカリフォルニアと似たような気候で、雨季の後丘には草が生え、そこに羊ややぎが放たれますが、やがて、その草も夏になると枯れてなくなってしまいます。「イスラエルでは羊は石をなめている。」と言われるように、乾季には、羊は石の間からわずかに出ている草の芽を見つけて食べるのです。私はイスラエルに行って、そんな光景を見て、20節に「しかし悪者は滅びる。主の敵は牧場の青草のようだ。彼らは消えうせる。煙となって消えうせる。」とあるのを実感することができました。よしんば、悪が栄えて大木になったとしても、山火事で林や森が丸裸になるように、神はそれを切り倒しておしまいになるのです。35-36節に「私は悪者の横暴を見た。彼は、おい茂る野性の木のようにはびこっていた。だが、彼は過ぎ去った。見よ。彼はもういない。私は彼を捜し求めたが見つからなかった。」とあります。悪が栄えるのは決して長くはない、まして、それは永遠でもないと、神ご自身が約束しておられます。34節に「主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせてくださる。あなたは悪者が断ち切られるのを見よう。」とあります。私たちは、悪が栄えるのを見ていたずらに嘆くだけでなく、7節にあるように「主の前に静まり、耐え忍んで主を待」つ者となりたいと思います。

 三、正しい人に目を留める

 悪が栄えるのを見て、こころにいらだちを感じる時、私たちはまず、「怒りを正しく処理」することを学び、次に「悪を行なう者の運命」を知ることによって、それを解決していくのですが、完全な解決のために、もう一つのステップが残されています。それは、「正しい人に目を留める」ということです。

 悪が栄える時、私たちは、世の中の人々がみな悪を行なう者のように見え、正しい人はほんのひとにぎりしかいないかのように思ってしまいがちです。エリヤは、イスラエルが北王国と南王国に分裂し、北王国がまことの神から離れ、他の民族が拝んでいたバアルやアシェラといった神々を礼拝していた時、神が北王国に警告を与えるために立てられた預言者でした。人々の心が神に向っている時に神のことばを語るのは容易いことですが、神から心が遠く離れている人々に神のことばを語ることほど、苦痛なことはありません。しかし、預言者たちの多くは、人々が神から離れ、神に背いている時に神のことばを語らなくてはなりませんでした。預言者は、見ることも、聞くことも、悟ることもしない人々にも神のことばを語り続けたのです。しばしば、預言者はたったひとりで、神に背く人々と戦わなくてはなりませんでした。エリヤも、バアルの預言者450人とカルメル山で対決しました。バアルのための祭壇と主のための祭壇がそこに作られ、犠牲の動物が祭壇の上に置かれました。バアルの預言者は自分たちの祭壇にバアルのための犠牲を、エリヤは主の祭壇に主のための犠牲をささげました。ふつうなら、犠牲をささげた者っちがそこに火をつけて犠牲を焼き尽くすのですが、この時は、バアルの預言者とエリヤのそれぞれが天からの火を祈り求め、天から火を下したものを神としようということになりました。バアルの預言者たちは朝から昼まで、熱心にバアルに祈りました。しかし、火はくだりませんでした。しかし、エリヤが祈った時、主は天から火をくだし、ご自分が神であることを示してくださいました。この時、エリヤは「私ひとりが主の預言者として残っている。しかし、バアルの預言者は四百五十人だ。」(列王第一18:22)と言っていますが、エリヤは、この孤独な信仰の戦いに疲れ果ててしまいました。エリヤはかつて神がモーセに十戒を授けたホレブの山で、神に会うのですが、その時も「イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りました。」(列王第一19:10、14)と言いましたが、神はこれに答えて、エリヤに、彼の協力者、やがて後継者となるエリシャを与え、こう言われました。「わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」(列王第一19:18)七千人というのは、かなりの数です。おそらくエリヤはそんなに大勢の主を信じる者がいるとは思っていなかったでしょう。「バアルの預言者は450人だったが、主を信じる者はその十数倍もいるのだ」と言って、主はエリヤを励ましたのです。

 私たちも、時として、悪を行なう人、神を求めない人々、神に従わない人々だけに目を向けてしまって、あたかも世界中がそういう人ばかりであるように感じて失望落胆してしまうことがあります。しかし実際は、すべてがそうではないのです。神は、どんな暗黒の時代にも、正義や公平を求める人々、神を求める人々、神のことばを求める人々を残しておられるのです。それは、おそらくは思う以上に多いことでしょう。カリフォルニアは、アメリカの中でも、クリスチャンの少ないところで、とくにベイエリアは物質主義のはびこっているところです。全米祈りの日に私たちクリスチャンは市庁舎のフロントヤードに集まり祈っていたのですが、その時「サンノゼ無神論者協会」の人々が、私たちの祈りを妨害しにきました。どこの町にも「無神論者協会」があるのは知っていましたが、サンノゼのようにアクティヴな活動をしているのにははじめて出会いました。けれども、神は、この町にも大勢の神の民を与えていてくださっています。私たちは、そうした人々に目を留めたいと思います。この世では悪が栄え、権力ある人やずうずうしい人が大手をふって歩いているかもしれませんが、同時に、神を愛する人々も大勢いて、それぞれに祝福された歩みをしているのです。「私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない。」(25節)というのは、ほんとうなのです。「全き人に目を留め、直ぐな人を見よ。」(37節)とあるとおり、神が残していてくださる神の民に目を向けましょう。そして、神がなおも、多くの人々を神の民に加えてくださるよう、祈り求めましょう。

 悪を行なう者だけに目を向けていると、それに腹を立て、いらだちえ覚えるだけで終わってしまいます。3節に「主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。」とあるように、たとえ、悪を行なう者が多くなったとしても、私たちはそれにまさって「善を行な」うようにしたいと思います。善を行なうことによって、悪に打ち勝つことができるからです。もちろん、これは、自分ひとりでできることではありません。ひとりができることはあまりにも小さく、この世の悪に飲み込まれてしまうように感じ、いつしか善を行なうことに倦み疲れてくるのです。善を行い続けるためには、主を信じる者たちがもっともっと心をひとつにし、力を合わせなければなりません。そして、なによりも悪をさばき、善に報いてくださる主に信頼する必要があります。「主に信頼して善を行なえ。」このみことばを握り締め、悪に打ち勝つ私たちでありたく思います。

 (祈り)

 悪をさばき、善に報いてくださる神さま。私たちは、悪が栄える時、怒りを覚え、あなたを疑い、そして、孤独を感じ、自分をみじめに感じてしまうことがあります。そのような時、あなたは常に、私たちに、「怒るな。悪者の最後を見、正しい者への報いを見よ。」と教えてくださいます。あなたのおことばに従う時、私たちの心は怒りから平安へ、憤りから静けさへと変えられていきます。あなたは今朝、私たちに「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」と語ってくださいました。人の悪に怒るだけで終わらず、あなたを喜びとする私たちとし、悪が栄える時も、あなたに信頼して善を行い続ける者たちとしてください。悪をもって悪に報いず、善をもって悪に打ち勝たれた、私たちの主イエス・キリストのお名前で祈ります。

9/11/2005