34:1 私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。
34:2 私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。
34:3 私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。
34:4 私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。
34:5 彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。「彼らの顔をはずかしめないでください。」
34:6 この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、彼らはすべての苦しみから救われた。
34:7 主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。
34:8 主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。
34:9 主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。
34:10 若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。
34:11 来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。
34:12 いのちを喜びとし、しあわせを見ようと、日数の多いのを愛する人は、だれか。
34:13 あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。
34:14 悪を離れ、善を行なえ。平和を求め、それを追い求めよ。
34:15 主の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。
34:16 主の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。
34:17 彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。
34:18 主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。
34:19 正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。
34:20 主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。
34:21 悪は悪者を殺し、正しい者を憎む者は罪に定められる。
34:22 主はそのしもべのたましいを贖い出される。主に身を避ける者は、だれも罪に定められない。
「犬もあるけば棒に当たる」「論より証拠」「花より団子」…「いろはかるた」のことばです。そのそれぞれは、いろは四十七文字ではじまっていますが、聖書の詩篇にも、それぞれの行がヘブル語のアルファベットの順にならんでいるものがあります。「いろはかるた」の場合は、全体にひとつのまとまった意味があるわけではありませんが、詩篇の場合は、全体がちゃんと意味のある文章になっているのです。こういうのを「アクロスティックの詩篇」と呼び、詩篇25篇、37篇、111篇、112篇、119篇、145篇、そしてこの34篇がそうです。34篇はヘブル語のアルファベット22文字とおなじく22節あり、各節がアルファベットの文字ではじまっています。日本語で読むかぎり、そんな技巧が凝らされているとは全く気づかないほど、この詩は自然です。こうした技巧は、ヘブル語を話す人には、覚えるのにとても助けになったことでしょう。アクロスティックの詩篇には教訓的なものが多く、こどもや若者に神への賛美や祈り、信仰を教えるために作られたものと思われます。私たちも、初心に返り、詩篇34篇から、賛美と祈り、そして信仰のあり方を学ぶことにしましょう。詩篇34篇は1-3節で「賛美」を、4-10節で「祈り」を、11-22節で「信仰」を教えています。
一、賛美
詩篇34篇は、最初に「賛美」を教えています。この詩を作ったダビデは「私はあらゆる時に主をほめたたえる。」(1節)と言い、「私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。」と、まわりの人々によびかけています。これは、ダビデが立派だったから、リーダシップを発揮して、人々に神を賛美させたというのではありません。詩篇34篇の表題によると、この詩はダビデが敵の王に捕まえられるという危機を逃れたときに歌われたものです。そのことはサムエル第一21:10-15に書かれています。そのころダビデは、サウル王から追われており、サウルの手から逃れるため、ユダヤの敵であったペリシテの町に逃れました。身なりを替え、顔を覆っていれば、隠れていられると思ったのでしょうが、ダビデほどの人が人目につかないわけはありません。ペリシテの王の家来たちは彼を見るなり、「この人は、あの国の王ダビデではありませんか。みんな踊りながら、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」とダビデの素性を見破ってしまいました。そのときダビデはまだユダヤの王ではありませんでしたが、そのとき王であったサウルよりもダビデのほうが人望があったので、「あの国の王ダビデではありませんか。」と言われたのです。ダビデがペリシテの王のところに逃れて行ったのは、ペリシテ人にしてみれば「飛んで火に入る夏の虫」でした。ダビデは、危機一髪の状況に陥ってしまいましたが、そのとき、とっさに、気の狂った人のふりをして、この危機を逃れました。聖書には「捕らえられて狂ったふりをし、門の扉に傷をつけたり、ひげによだれを流したりした。」とあります。ペリシテの王がそれを見て、「こんな気の狂った人間に用はない。さっさと私の前から連れて行け。」と家来に命じたので、ダビデはやっとの思いで危険から脱出したのです。このときのダビデの救いは、かつて、鎧もつけず、剣も持たず、石ころひとつで巨人ゴリアテを倒したような、華々しいものではありませんでした。英雄ダビデにふさわしくない、実にみっともない、恥かしい姿です。しかし、神は、そんなダビデを救い出してくださいました。ダビデは、彼の勇気によってでも、能力によってでも、人望によってでもなく、ただ神のあわれみによって、恐怖の中から、惨めな敗北の中から救い出されたのです。ダビデはこの経験を通して、ますます神の前にへりくだりました。そして、自分を誇る気持ちなどひとかけらもない純粋な賛美に導かれたのです。
クリスチャンの「あかし」というと、自分がどんなに成功したか、誘惑をはねのけて神に従ったか、困難の中で耐えたか、そうしたことを示すことだと思われきました。しかし、実際の信仰生活には、信仰によって困難を乗り越えて前進することもあれば、ペリシテの王の前で気の狂った真似をしたダビデのように、敗北的なことをしてしか自分を守れないときもあります。けれども、だからといってそんな時には神の守りも助けもなかったというわけではありません。やっとの思いで危機を脱したようなときにも、そこ神の守りがあり、あわれみがあったのです。聖書の信仰者の「あかし」は「サクセス・ストーリー」ばかりではありません。大きな罪を犯してしまったり、失敗したり、不遇な目に遭ったりといったことも多く出てきます。しかし、信仰者はそうした中でこそ、順調なときよりも、もっと深く神の恵みを学びます。神のあわれみを体験します。そして、そこから、ほんものの賛美へと導かれるのです。詩篇34:2に「私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。」とある通り、賛美は、自分が霊的にどんなに貧しく、乏しい者かを知っている人の口から出てくるのです。
二、祈り
詩篇34篇は、次に「祈り」を教えます。ペリシテの王から逃れたダビデはその後、「アドラムのほら穴」と呼ばれるところに隠れて住みました。そこにダビデの兄弟たち、親戚たちをはじめ、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちがやってきて、その数は四百人になったと、聖書は書いています。この人々はみな心に痛みを持った人たちでした。ダビデは、サウル王から追われる身でありながら、彼のもとに身を寄せてきた人々を守り、養わなければなりませんでした。ダビデは自分のためだけでなく、人々のためにも祈りました。いつしか、ダビデの祈りは人々の祈りとなり、人々の祈りはダビデの祈りとなりました。4節に「私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。」とあり、5節の前半に「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。」とあります。ダビデが、苦しみの中から神を呼び求めて救われると、ダビデと共にいた人たちも喜びで輝いたというのです。ダビデとともにいた人たちが苦しみに遭ったときには、ダビデが彼らのために熱心に祈り、そして、人々が救われていきました。5節の後半から6節にかけて「『彼らの顔をはずかしめないでください。』この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、彼らはすべての苦しみから救われた。 」とあるとおりです。
逃亡者ダビデと避難民には、権力も、武力も、経済力もありません。彼らが頼ることができたのは、神だけです。ですから、そこから真剣な祈りが生まれてきたのです。力によってでも、知恵によってでもなく、ただ神によってだけ、救われる、そのような体験をすることができたのです。5節の「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。」ということばは、そのような体験をさしています。今日の私たちはあまりにも多くのものに満たされています。病気のときは医者がいて、ある人には、困ったときには頼ることができる親戚がいます。自分の家があって、貯えもあります。そんな中にいると、問題が起こったとき、熱心に神に祈るよりも、目に見える助けに走り、神のわざを見ることができなくなってしまいます。教会もある程度人数がいて、経済的にも大丈夫だと、真剣に祈らなくても活動や行事が進んでいきます。人間の力で達成できることしか目標にかかげなければ、熱心に、真剣に神のみわざを求めることがないのです。それはコンフォタブルかもしれませんが、そこでは「若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。」(10節) というみことばの成就を見ることができないのです。ここで「若い獅子」、ライオンは、自分の力に頼っている人々のことをさしているかもしれません。私たちのまわりにはそんな人が一杯います。私たちも、神を知るまでは、知識や能力、話術や人間関係の技術、経済管理の知恵に頼って生活してきました。しかし、人間にとっていちばんたいせつな、たましいのことを顧みることがありませんでした。人のたましいは学歴や地位、財産や名誉によっては満たされないのです。たましいは飢え渇き、痩せ衰えているのに、ライオンのふりをして、空元気、空威張りをしているだけ、そんな私たちではなかったでしょうか。ライオンもやがて飢えます。しかし、神の羊となって、羊飼いであるイエス・キリストに従うなら、私たちは決して飢えることはないのです。
自分の乏しさを知って、真剣に神に願い求める人は、「主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。」という確信に導かれます。豊かさを誇り合うのでなく、乏しさを認め合い、互いのために祈りあう教会にこの約束が成就します。
三、信仰
第三に、詩篇34篇は「信仰」を教えています。信仰とは「主を恐れること」であると教えています。「主を恐れる」といっても、それは「怖がる」ことではありません。主イエスは「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)と言われました。私たちは、主を恐れることによって、あらゆる恐れ、恐怖から救い出されるのです。聖書には「恐れるな。」ということばが365以上あると言われます。神は、私たちに毎日、「恐れるな。」と呼びかけおられることになります。主イエスも、弟子たちに、何度も「恐れるな。」と語りかけられました。私たちには、「恐怖」とまでいかなくても、健康のことで、仕事のことで、家族のことで、経済のことで、またその他のことで何らかの「心配」があります。この心配が重なると「不安」になり、「不安」が嵩じると「恐怖」になります。そんな私たちに「心配するな。」「思い煩うな。」「恐れるな。」ということばはとても力強いものです。しかし、「恐れるな。」ということばを聞くとき、同時に「主を恐れよ。」ということばをも聞かなくてはなりません。今の時代はイージー・ゴーイングの時代です。「恐れるな。」という尊い神のことばでさえ、そこにある深い意味が理解されないで、たんに気休めのことば、いわゆる「元気の出ることば」としてしか受け止められていないのは残念なことです。もし、身の回りに起こることや、人間のすることを「恐れる」なら、私たちはそうしたものに支配されていることになります。「恐れるな。」と、神が言われるとき、それは、人間や人間が造り出したものに支配されてはいけない。神があらゆるものの上に立っておられる主権者であることを認め、神のご支配に従うようにと、命じておられるのです。恐れるべきお方を恐れることなしには、気休めや一時しのぎはできても、ほんとうの意味で恐れを乗り越えることはできないのです。
「主を恐れること」は、頭の中だけで、「神は主である。」ということを認めていればよいものではありません。神を主として生活することです。詩篇34篇は「来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。」(11節)と呼びかけ、「いのちを喜びとし、しあわせを見ようと、日数の多いのを愛する人は、だれか。 あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。悪を離れ、善を行なえ。平和を求め、それを追い求めよ。」(12-14節)と言っています。「主を恐れること」は、頭の中だけのもの、心の中だけのものではなく、私たちの舌に、くちびるに現れるべきものなのです。それは礼拝の儀式の中だけでなく、日々の生活の中で手足を使って実践されるべきものだというのです。一般に日本人はとても信心深いと言われます。迷信のようなものまで信じ、昔からの儀式を大切に守ります。しかし、僧侶を招いて、うやうやしくお経を聞いたからといって、それが毎日の生活に生かされることはありませんし、神社に詣でて手を合わせたからといって、それがその人の人生を変えるわけでもありません。宗教は宗教、生活は生活というふうに分けて考え、行動しています。同じことは、まことの神を信じている者たちにも起こりうるのです。「主を恐れること」がなくなるとき、教えと実践、儀式と生活とが分離していきます。それで預言者は、「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。…主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ6:6-8)と言い、新約聖書も「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」(ヤコブ1:26-27)と教えているのです。もちろん、こうした箇所は、だから「教え」はどうでも良く「儀式」や「礼拝」がいらないと言っているのではありません。信仰によって「教え」が実践され、神への「礼拝」がそれぞれの生活や社会の中に実を結ぶべきことが教えられているのです。行いさえあれば良いと言っているのでもありません。これの箇所は、やはり信仰を教えています。神に喜ばれる行いは、「主を恐れる」信仰からしか生まれてきません。これらの箇所は行いを生み出す本物の信仰を教えているのです。
教えと生活を結びつけるといっても、聞いた聖書の教えをすべて実践できる人は、地上には誰ひとりありません。真面目な信仰者であればあるほど、自分が知っていることと、自分がしていることとのギャップに悩むものです。使徒パウロでさえ、そのギャップに悩みました。しかし、この悩みは、必要な悩みです。私たちは、この悩みを原動力にして神に近づくからです。この悩みのない人は「主を恐れること」を学んでいないのかもしれません。「主を恐れる」人は、「聖なる神の前に、なんと自分は罪人なのだろう。」ということを意識します。自分の罪を知っているからこそ、罪の赦しを求め、きよめを願うのです。「主を恐れる」とは、聖なる神の前に萎縮してしまうことではありません。詩篇130:4に「しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。」とあるように、神が赦しの神であることを信じて、神に近づくことが信仰です。詩篇34:22にも「主はそのしもべのたましいを贖い出される。主に身を避ける者は、だれも罪に定められない。」とあります。これはなんと「福音的」なことばでしょうか。これこそ私たちが信じ、宣べ伝えている「福音」そのものです。このみことばをにぎりしめて、主のもとに行きましょう。それが「主を恐れる」信仰です。主は、赦し、受け入れ、祈りを聞き入れ、私たちを賛美で満たしてくださいます。
(祈り)
「正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのそのすべてから彼を救い出される。」(詩篇34:19)主なる神さま、この約束のおことばのゆえに感謝します。私たちに、「主を恐れること」を教え続けてください。「主を恐れる」信仰によって、すべての悪と恐れから、私たちを解放してください。そして、私たちのくちびるに真実な賛美を与え、真剣な祈りへと導いてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。
8/24/2008