33:6 もろもろの天は主のみことばによって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた。
33:7 主は海の水を水がめの中に集めるように集め、深い淵を倉におさめられた。
33:8 全地は主を恐れ、世に住むすべての者は主を恐れかしこめ。
33:9 主が仰せられると、そのようになり、命じられると、堅く立ったからである。
今、私たちは、クリスマスののち、「公現節」(エピファニー)というシーズンを過ごしています。これは、東方の博士たちが幼な子イエスを礼拝したことからはじまって、イエスの幼少時代、バプテスマ、そして公生涯をたどるものです。教会学校の『聖書教育』の教材でも、イエスの公生涯が取り上げられています。今年は3月1日からレントに入り、4月16日にイースターを祝います。エピファニーには、神がイエス・キリストによって示してくださったいつしみのみわざを想い、レントには、イエス・キリストのご受難の中にある神の贖いのみわざを想いみます。
聖書がイエス・キリストについて「めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネ1:14)と言い、イエスご自身が「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ14:9)と言われたように、神は、イエス・キリストにおいて、最もよくご自分を表わしておられ、神のきわみまでの愛は、十字架の贖いのみわざに最もよく示されています。けれども神は、御子イエスを世に遣わされる以前にも、ご自分を表わし続けておられました。それは、神の創造のみわざと、摂理のみわざによってです。レントの期間に贖いのみわざをよりよく理解するためにも、しばらくの間、神の創造のみわざと摂理のみわざを学んでおきたいと思います。
神の創造のみわざは信仰の基礎であり、出発点です。きょうは少し耳慣れない、数学の用語などを使うかもしれませんが、神のことばは、科学のことばによっては決して無になることはない、いやむしろ、科学は神のことばが真実であることを証ししていることを知っていただければと思います。
一、世界の起源
聖書は「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす」(詩篇19:1)また「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである」(ローマ1:20)と言っています。この世界のあらゆるものが神に造られたものであり、それらは神がいらっしゃることと、神が知恵と力に満ちておられる方であることを物語っているというのです。
世界がどのようにして出来たかについてはさまざまな説がありますが、皆さんが良く耳にするのが、宇宙に起源があったとする「ビッグバン説」でしょう。この説が登場するまでは、宇宙には始まりも終わりもなく、常に同じで、永遠、無限であるとされていました。これを「定常説」と言います。それに対して、「ビッグバン説」は、宇宙は最初、ゴルフボールぐらいに圧縮された原子のかたまりでしたが、それが爆発し、138億年かけて現在の姿になったとするものです。
「ビッグバン説」は宇宙が膨張しているという観測結果から導きだされました。それは、多くの物理学の法則にあっているというので、広く受け入れられるようになりました。それで、人々は、「ビッグバン説」と「進化論」とを結びつけて、世界と生命の起源を次のように考えるようになりました。「宇宙はビッグバンによってできた。地球上の生命は、原始の大気の中にあったメタンなどの有機物が水の中でアンモニアや水素と反応して窒素を含む有機物になった。それからしだいに複雑な有機物が合成され、蛋白質になった。これをもとに物質交代を行う原始的な生物が生じた。そこから進化の過程を経て、われわれ人類が生まれた。」そして、「世界も人間も自ずとできたのであって、神によって造られたものではないのだから、われわれは神を信じたりする必要はない。そもそも神などいないのだ」という、世界観や人生観を持つようになったのです。
二、第一原因
しかし、「ビッグバン説」や「進化論」は、はたして神を否定することができるのでしょうか。「ビッグバン説」も「進化論」も仮説にすぎません。天体の観測精度が向上するにつれて、「ビッグバン説」によっては説明しきれないさまざまな現象が見つかるようになりました。そうしたものはこれからも発見されていくでしょう。「進化論」にいたっては、進化論者の中にもさまざまな説があり、今まで進化の「証拠」とされていたものが、進化論を否定する証拠になったりしています。宇宙のはじまりや生命の起源は、それを見た者は誰もいないわけですし、実験室でそれを再現できるわけでもありません。ですから、「ビッグバン説」や「進化論」は、「事実はこうであったかもしれない」と言うことはできても、「事実はこうであった」と言い切ることはできません。「こうであったかもしれない」と言う場合でも、それは、確かな証拠によって支持されたものでなければなりません。
博物館に展示されている類人猿を描いた絵は、ごく僅かな骨のかけらから想像力をたくましくして描かれたもので、科学的というよりは、芸術的なものといってよいものが多くあります。サイエンスとサイエンス・フィクションとは別ものですから、その説を支持していると思われる現象や、その説では説明できない現象を公平に検討する必要があります。科学上の新しい発見が、今まで定説とされていたものを覆すこともありますから、科学者には、事実の前に謙虚であることが求められます。
宇宙や生命の起源について、どんな説をとるにせよ、それらは、ほんとうには起源を説明してはいません。「ビックバン説」でははじめに原子の塊が最初にあったと言いますが、では、その原子の塊はどこから来たのでしょうか。それについて、科学は何も説明することができません。それは科学の領域を超えた事柄だからです。科学は、そこに存在するものの成り立ちを調べるものであり、それが究極的にはどこから来たのかを知ることはできないのです。
しかし、科学が成り立つために必要なことがひとつあります。それは、現在、わたしたちが見ている世界は、何かの原因があって、その結果として存在しているということです。原因なしに結果が生まれるというのは、科学の世界ではなく、マジックの世界です。マジシャンは、何も入っていないはずの箱から果物を出したり、帽子から鳩を飛び出させたりします。「種もしかけもございません」と言っても、実際は種もしかけもあるのです。同じように、この世界の起源には究極の原因があるのです。それが神です。
ですから、古代の哲学者は神を「第一原因」と呼びました。こどもが母親に、「わたしはお母さんから生まれたのでしょ?だったら、お母さんはだれから生まれたの?」と聞きます。母親は、「お母さんのお母さん、おばあさんからよ」と答えます。するとこどもはまた聞きます。「ではおばあさんはだれから生まれたの?」母親は、「お母さんの、お母さんのお母さん、ひいおばあさんからよ」と答えます。すると、こどもは「では、ひいおばあさんはだれからか生まれたの?」と質問し、質問と答えは延々と続きます。日本人の場合は、自分たちの起源を「ご先祖様」にしてしまうのですが、聖書によれば、すべての人は、最初の人アダムに、そしてアダムを創造された神に至るのです。こどもは、「では神さまは誰から生まれたの?」と質問するかもしれませんが、神は「第一原因」であって、それ以上に遡ることができないお方なのです。
すべての科学は「存在」や「運動」、また「時の経過」などを前提にして成り立っています。つまり、「第一原因」であるお方が与えた「存在」、「運動」、「時」を対象に論理を組み立てるのです。もし、科学が「第一原因」を否定するなら、科学は成り立ちません。「ビッグバン説」や「進化論」を無神論とを結びつけて「だから神はいない」ということは、決して科学的ではないのです。それは「科学」の装いをした「無神論」という、ひとつの信仰でしかないのです。
三、ことばによる創造
神は、ご自分を「有って有る者」と言われました。神は、「存在」そのものです。この存在そのものであるお方が、ご自分以外のものに存在を与えること、それが「創造」です。世界や人間は、「有って有る」お方から見れば「有って無き者」です。宇宙がどんなに大きなものであったとしても、人間がどんなに知恵や知識を持っていても、それは唯一の存在者によって存在を許され、また支えられているものに過ぎません。
そして、神によって存在させられたものはすべて、その存在によって存在者である神を指し示しています。造られたものは、創造者を物語っているのです。詩篇19:2-4に「この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ」とあるとおりです。科学者たちはその言葉を聞き取り、数式にし、化学記号で表わしました。哲学者たちはそれを考察して、論理を組み立てました。芸術家はその「美しさ」に触れて、それをさまざまな形に表現してきました。コスモスの花の形は r=a sin nθ という数式で、オーム貝のらせんは r=keaθ という数式で表わすことができます。松ぼっくりに見られるらせんもフィポナッチ数列で表わされます。
なぜ、被造物はそのように神を語ることができるのでしょうか。それは、神が「ことば」によってこの世界を造られたからです。詩篇33篇は「もろもろの天は主のみことばによって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた」(6節)「主が仰せられると、そのようになり、命じられると、堅く立ったからである」(9節)と言っています。それは神のことばによって造られたものであるので、神の「ことば」を語ることができるのです。
「ことば」によって造られたというのは、知性のある人格によって造られたといういうことを意味しています。他の動物にも、その種族の中でのコミュニケーションの手段があり、いわゆる「ことば」があるのでしょうが、人間のように、ものごとを考察し、論理を構成し、新しいものを生み出していく「ことば」は持っていません。人間だけが「ことば」によってその知性を発展させ、さまざまなものを生み出し、社会を築きあげてきたばかりが、人格としての自分自身を磨きあげてきたのです。そうであるなら、世界を「ことば」で造り、人間に「ことば」をお与えになった神が、知性を持つ、優れたご人格であることは当然理解できることだと思います。
世界は、じつに無駄なく、みごとに造られており、これを設計した神の知恵、これを形作られた神の力に驚かないわけにはいきません。「創造」を認めない人たちは、これを「偶然」が造り出したものだと言います。しかし、「偶然」は何も造り出すことはできず、どんな秩序も生み出すことはできません。進化論では、すべての生物は偶然から偶然を渡り歩いて生き延びてきたというのですが、たとえ40億年という時間があったとしても、とても考えられないことです。実際の自然の観察から得られる事実は、この世界の背後に知性による設計と、それを実現する力があったことを教えています。
神がおられ、この神が「ことば」を語られる神であって、知恵と力に満ちておられることは、じつに被造物自体が雄弁に語っています。わたしたちは、この被造物の「ことば」とともに、神がわたしたちに直接語りかけられる、もうひとつの「ことば」、つまり、聖書のことばを持っています。世界をその「ことば」によってみごとに作ってくださった神は、今も、聖書のことばによって、信じる者の日々の生活と人生を形造ってくださいます。わたしたちに語り続けてやまない神に、わたしたちも耳を傾け、神のことばに聞き続けたいと思います。
(祈り)
創造の神、あなたは、そのことばによってわたしたちに存在を与え、それを支えてくださっています。どうぞ、わたしたちの耳を開いて、被造物が語り、聖書が語るあなたのことばを聞かせてください。そして、わたしたちが、他のどんな被造物にまさって、あなたのことばを高らかに語る者としてください。主イエスのお名前で祈ります。
1/22/2017