新しい歌を

詩篇33:1-4

オーディオファイルを再生できません
33:1 正しき者よ、主によって喜べ、さんびは直き者にふさわしい。
33:2 琴をもって主をさんびせよ、十弦の立琴をもって主をほめたたえよ。
33:3 新しい歌を主にむかって歌い、喜びの声をあげて巧みに琴をかきならせ。
33:4 主のみことばは直く、そのすべてのみわざは真実だからである。

 一、ほんとうの新しさ

 新年を迎えました。お正月には、お雑煮におせち、普段とは違うものを食べて、「新しさ」を感じるのですが、その新鮮な感覚も、日が経つにつれてだんだんとうすれていきます。「新しい」といわれるものも、やがて古くなっていくのです。伝道の書(コヘレトの言葉)にこんな言葉があります。

日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。
風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。
川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く。
すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言いつくすことができない。目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。
先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。(伝道1:5-9)
「日の下に新しいものはない」などと言われると、新年を祝う気持ちがそがれてしまいそうですが、ほんとうに「新しいもの」はどこにもないのでしょうか。あるとすれば、それはどんなものなのでしょうか。

 ほんとうの「新しさ」は、「目新しさ」とは違います。古代から人は「目新しい」ものに飛びついてきました。新約聖書は古代ギリシャのアテネの町の人々について「いったい、アテネ人もそこに滞在している外国人もみな、何か耳新しいことを話したり聞いたりすることのみに、時を過ごしていたのである」(使徒17:21)と書いています。どのメーカーも毎年、車のモデルチェンジをしますし、ファッションも同じです。15年ほど前、日本に行ったとき、若い女性が、それまで顔を黒く塗っていたかと思うと、今度は白く塗り出していて、わたしのほうが、目を白黒させました。流行はめまぐるしく変わり、「新しい」と言われたこともすぐ古くなります。時代の流行に乗ったからといって、それで「新しさ」を得ることができるわけではありませんし、外側を新しくしたとしても、わたしたちの内面が新しくなるわけではありません。旧約の「伝道者」が言うように、確かに「日の下」つまり、地上には、ほんとうの「新しいものはない」のです。

 しかし、地上にはなくても、「天上」にはあるのです。新約聖書は言います。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(コリント第二5:17)人は、イエス・キリストを信じるとき、聖霊によって生まれかわり、その内側から新しくなるのです。そしてこの新しさは決して古びません。イエス・キリストを信じる皆さんは、信仰の告白をして、バプテスマを受けたときの感動を今も持ち続けていると思います。

 わたしは日本の神学校で羽鳥明先生からいくつかの講義を受けましたが、先生は、毎年、どの講義でも、最初の時間に16歳のとき宣教師に導かれてイエス・キリストを信じ、救われたときのことを学生に話しました。わたしは、三度も同じ話を聞いたのですが、聞くたびに感動を覚えました。先生も、その証しをするたびに目に涙をためていました。イエス・キリストにある「新しさ」は、何年経とうと決して古びはしません。同じコリント第二の手紙に「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」(コリント第二4:16)とある通りです。世の中のものは、どんなに新しいものも、古びていきます。しかし、イエス・キリストによる救いは、年を重ねるたびに、日ごとに新しくされていくのです。

 詩篇は「正しき者よ、主によって喜べ、さんびは直き者にふさわしい」(詩篇33:1)と言っています。ここで「正しき者」「直き者」といわれているのは、もとから「廉直」で、「高潔」な人物であるということではありません。神の前には、ほんとうに正しく、欠けのない人などいないからです。神の前に立つことができるのは、ただ、神の恵みによって、罪を赦され、欠けをおおわれた者だけです。4節に「主のみことばは直く、そのすべてのみわざは真実」とあるように、「正しき者」「直き者」というのは、イエス・キリストによって贖われ、神を畏れる生き方へと招き入れられた者のことを指します。神のみことばを信じ、神のみわざに信頼して、「正しく、直き者」とされた者ということなのです。イエス・キリストによって、新しい立場、新しい身分、新しい性質、新しい命、新しい生活を受けた者には「新しい歌」、神への賛美の歌が与えられるのです。

 二、新しい歌

 詩篇で賛美の歌が「新しい歌」といわれているのには、三つの意味があります。第一は、新しい歌詞や新しい曲の歌という意味です。人々の神への信仰が高まってきたときには、いつも新しい讃美歌が数多くつくられてきました。宗教改革者マルチン・ルターは自ら作詞作曲し、讃美歌集を出版しました。英国では、アイザック・ウォッツが600篇の讃美歌を書き、リバイバルの時代にはチャールズ・ウェスレーが数えきれないほどの新しい賛美を作りました。その多くは今も盛んに歌われています。クリスマスの賛美「天にはさかえ」(新生讃美歌167)もチャールズの作詞によるものです。

 第二は、「新しい心で歌う歌」であるということです。新しく作られた讃美歌といえども、その内容は、決して「目新しい」もの、「耳新しい」ものではありません。それは、神の創造や摂理、また、イエス・キリストの贖い、信仰の喜びという変わらない真理を歌っているもので、新しい讃美歌も、古くからの聖書の信仰を歌ったもので、内容的には変わりはしませんし、変ってはいけないものなのです。

 教会で歌われる讃美歌は、神の愛や真実、イエス・キリストの救いなど信仰の真理を歌っているものですから、賛美を歌うことによって、信仰の真理を学ぶことができます。しかし、イエス・キリストを信じるまでは、口では歌っていても、心では歌うことができない讃美歌も多くあると思います。たとえば「ああ十字架、ああ十字架、カルバリの十字架、わがためなり」(新生讃美歌232くりかえし)、「主の恵みは深く、豊かに赦したもう、わが重荷は去れリ、ああカルバリ」(同297)など、イエス・キリストの贖いを歌ったものなどです。ヨハネの黙示録には贖われた者だけが歌うことのできる「新しい歌」(黙示録5:9、14:3)について書かれていますが、それは、イエス・キリストの贖いのみわざを歌ったものだと思われます。有名なアメージング・グレース(新生讃美歌301)も、その歌詞のように、自分が神の前にどうしようもない罪人であることを認め、ただイエス・キリストの赦しの恵みに頼る他ないことを知って、救いを受け入れてこそ、はじめて歌うことができる賛美だと思います。讃美歌が多くの人に歌われるのは素晴らしいことです。しかし、もっと素晴らしいのは、歌う人が、その賛美が歌っている真理を心から受け入れ、イエス・キリストの贖いを歌う「新しい歌」を、贖われた「新しい心」で歌うことです。

 「古くからの讃美歌は言葉が難しくてわからない。メロディーも単調でおもしろくない」といった声を時々、聞くことがあります。讃美歌の歌詞のほとんどは短い言葉で意味を表わすため、文語体で書かれていますが、そんなに古い言葉は使われていませんから、辞書を引けばたいてい分かります。歌詞の意味が分からないという場合、そこで歌われている信仰の真理が良く理解されていないことが多いと思います。ほとんどの讃美歌には、そのもとになった聖書の箇所が示されていますから、聖書をよく学べば、讃美歌が使っている言葉のひとつひとつがどんなに意味深いものか分かるようになります。古くからの讃美歌であっても、新しい心を持つなら、それを「新しい歌」として歌うことができるのです。

 三、主に向かって

 賛美の歌が「新しい歌」といわれる第三の意味は、それが「主に向かって」歌われる歌だからです。わたしたちが神を知らないとき、わたしたちは、誰に向かって歌を歌ったでしょうか。たいていは自分に向かってだろうと思います。つらいときやかなしいとき、こどものころ学校で習った歌や、若いときにみんなで歌った歌を歌って自分を励ましたり、慰めたりすることがよくあると思います。病院やケアホームに日本人を訪ねると、かならずといってよいほど「ふるさと」を歌ってくださいといわれます。戦後まもなく日本を離れた人たちにとって、この歌を歌うと祖国へのなつかしさがこみあげて来るのでしょう。

 つぎに、人に向かって歌う歌があります。プロの歌手でなくても、歌が好きな人は人に聞いてもらいたいと願い、また、人に聞かせるために歌うことが多いでしょう。

 しかし、信仰者は、それらに加えて「主に向かって」歌います。わたしたちは、イエス・キリストを信じてはじめて、いままで漠然と「神」と呼んできたお方が、イエス・キリストの父なる神であり、また、わたしたちの父ともなってくださったことを知りました。今まで、歌ってきた讃美歌が、この神に向かって歌うものであることを知りました。讃美歌が、主に向かって歌う「新しい歌」となったのです。

 礼拝の司会をしていると、大きく口をあけて歌っている人もいれば、歌わないで口を閉じている人もいるのに気付きます。歌っていない人は、他の人が歌っているのを聞いて、歌詞を味わい、それによって主を賛美しているのだろうと思いますが、自分は良く歌えないから、音を外して歌うのは迷惑だからといって口を閉じる人も中にはいるかもしれません。でも、そうしたことにあまり気をとられないで、声を出して歌ってみてください。他の人のために歌うときはその賛美が持っている美しさや力強さを表現し、その賛美が持っているメッセージを伝えるため、音楽的に整える必要がありますが、礼拝で神に向かって歌うときには、ただ神だけを見上げて歌えばよいのです。神は、あなたの賛美の心をごらんになり、その声を聞いて喜んでくださることでしょう。

 賛美のことを考えるとき、わたしはいつも、ある町の助産師の家での家庭集会を思い起こします。助産師は、昔は「産婆さん」と言われ、年配の方が多かったのですが、その方も、高齢でした。彼女は「わたしは民謡しか歌ったことがないから、どの讃美歌も民謡調になるんですよ」と言いながらも、よろこんで賛美していました。「人生の海の嵐に」(新生讃美歌520)が彼女の愛唱歌でした。確かに彼女が歌うと民謡調になるのです。楽器もなく、彼女の声が通るだけに、それが目立ちました。でも、それで賛美が台無しになったわけではありません。むしろ、どこの誰が歌うよりも、主は、彼女の賛美を喜んでおられたに違いありません。目に涙を浮かべて歌う彼女の姿は、今もわたしの目に焼き付いています。

 「主イエスの血しおの泉」(新生讃美歌299)も彼女の愛唱歌のひとつでした。新聖歌(238)の歌詞では、最後の節が「回らぬ舌もて歌いぬれど、栄えの御国に移されなば、心ゆくばかり、いとも妙(たえ)に、救いの力をたたえ歌わん」となっています。わたしたちはどんなに上手に歌えても、天使たち、聖徒たちの賛美に比べれば、「回らぬ舌」でしかありません。どの賛美も、「主に向かう」なら、それは主が喜んで受け取ってくださる「賛美のいけにえ」(ヘブル13:15)となるのです。イエス・キリストの贖いによって、新しい者とされ、新しい心で、主に向かって歌う、そんな「新しい歌」を、この年も歌い続けましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、わたしたちは、礼拝でだけでも、一年に二百曲以上もの讃美歌を歌っています。それらが、常にあなたに向かってささげられる賛美となりますように導いてください。わたしたちの賛美が贖われた者たちの「新しい歌」となることができますように。天使たちや聖徒たちの賛美と融け合い、天の聖所に捧げられるいけにえとなりますように。主イエスのお名前で祈ります。

1/1/2017