3:1 【ダビデがその子アブサロムを避けてのがれたときの歌】主よ、わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。わたしに逆らって立つ者が多く、
3:2 「彼には神の助けがない」と、わたしについて言う者が多いのです。〔セラ
3:3 しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、わたしの頭を、もたげてくださるかたです。
3:4 わたしが声をあげて主を呼ばわると、主は聖なる山からわたしに答えられる。〔セラ
3:5 わたしはふして眠り、また目をさます。主がわたしをささえられるからだ。
3:6 わたしを囲んで立ち構える/ちよろずの民をもわたしは恐れない。
3:7 主よ、お立ちください。わが神よ、わたしをお救いください。あなたはわたしのすべての敵のほおを打ち、悪しき者の歯を折られるのです。
3:8 救は主のものです。どうかあなたの祝福が/あなたの民の上にありますように。〔セラ
なぞなぞを三つ出します。一番目。「ある病気にかかると、名前を呼ばれても返事ができなくなります。何という病気でしょうか?」答えは「扁桃腺(返答せん)炎」です。二番目。「病院の待合室に患者さんが一杯で、座るところがないほどです。どんな病気の人たちが集まっているのでしょうか?」答えは「風邪」です。風邪をひくと「咳込む(席混む)」からです。三番目は、きょうのメッセージに関係があります。「大阪や京都の人に多い病気は何でしょうか?」答えは「不眠(府民)症」です。
一、安眠のために
なぞなぞは笑って済まされますが、不眠症は心身の健康に大きなマイナスをもたらしますので、不眠症の方の悩みや苦しみは決して小さなものではありません。皆さんもなかなか寝付かれない、ぐっすり眠れないという辛さを体験したことがあると思います。
National Sleep Foundation が作ったパンフレットを見ました。それによると、大人は7時間から9時間、こどもや若者は9時間以上の睡眠が必要。高齢者も成人と同じ睡眠が必要だそうです。眠っている間からだは休んでいても、脳は働いていて、起きている時に得た情報を記録しているとのことです。ですから、新しいことを学んだ日には、ぐっすり眠ると、翌朝、その知識が身についていて、技能が向上すると言われています。
また、子どもはよく寝るほど、成長ホルモンが良く分泌するのだそうです。「寝る子は育つ」という日本のことわざは本当なんですね。大人でも、よく寝ると筋肉が強くなり、怪我や病気の治りも早いそうです。インフェクションと戦うホルモンが良く分泌するからです。睡眠と肥満、睡眠と血糖値には関係があり、5時間くらいしか寝ない人は7〜8時間寝ている人にくらべ肥満になりやすく、糖尿病になりやすいと言われています。
なにより、十分な睡眠が取れないと、気分にムラができ、不機嫌になったり、落ち込んだりします。子どもなら乱暴な行動をしたり、大人なら自分から人間関係を壊すようなこともしてしまいます。そして、イライラしたり、思い煩ったりして過ごした日は、そのことが気になってぐっすり眠れなくなり、翌日もまた、イライラしたり、思い煩ったりして過ごすという悪循環に巻き込まれないともかぎりません。とくに、この時代に生きる私たちはさまざまなストレスにさらされていて、安眠できる環境にありません。誰もが、十分で快適な睡眠をとりたいと願っています。どうしたら、安らかに眠り、さわやかに起きることができるのでしょうか。
聖書から、そのことを学ぶ前に、もう少し、National Sleep Foundation のパンフレットにあることを紹介しておきましょう。それには、ぐっすり眠るために、していけないことと、したほうが良いことが挙げられています。してはいけないことは次の5つです。
1. 夜はタバコやカフェインの入ったものを飲んではいけない。ニコチンやカフェインは人によっては違うが、8時間くらいからだから抜けないで睡眠を妨げることがある。
2. 寝る前にお腹いっぱい食べてはいけない。大量の食物を消化するため、からだが起きていなければならないから。
3. 寝る前にアルコール飲料を飲んではいけない。アルコールは深い眠りを妨げ、夜中にアルコールが冷めたとき、起きてしまうことがある。
4. 睡眠を妨げる薬やサプリメントを使わない。医師や薬剤師に相談する。
5. 午後3時以降、一時間以上の昼寝をしない。昼寝は睡眠不足を補うが、遅い時間の昼寝は夜の寝付きを妨げる。
そして、安眠に役立つことが13あげられています。
1. ベッドを寝るためだけに使う。
2. ベッドルームやベッド、枕を寝心地の良いものにする。
3. 寝る時間と起きる時間を決める。
4. 朝、すくなくとも30分、日に当たる。
5. 夜や寝るときは部屋を暗くする。
6. バスルームやホールウェーにナイトライトを使う。
7. 寝る前に静かな時を持つ。
8. リラックスする。
9. 温かいシャワーを浴びる。
10. 寝室を昼間より涼しくする。
11. 寝室のノイズを避ける。
12. 時計をベッドから遠ざける。時間を気にしない。
13. 眠くないときはベッドから出て、リラックスできることをする。眠くなったらベッドに戻る。
二、神への信頼
安眠のためには、他にも様々なサジェスションがあるでしょう。しかし、一番大切なのは「神への信頼」だと、聖書は教えています。詩篇3:5に「わたしはふして眠り、また目をさます。主がわたしをささえられるからだ」とあり、詩篇4:8にも「わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです」とあります。
詩篇の多くは、苦しみの中で作られました。詩篇3篇の表題には「ダビデがその子アブサロムを避けてのがれたときの歌」とあって、これが歌われたときの具体的な状況がしるされています。ダビデは、王子のひとりアブサロムにクーデターをおこされ、エルサレムから逃亡しなければなりませんでした。クーデターの首謀者が自分の子どもだというのは、最悪のことです。ダビデはどんなに嘆き、苦しんだことでしょう。ダビデは戦争のときのように野営をしなければなりませんでした。そこには宮殿にあるような心地良い寝室もベッドもありません。アブサロムの追撃がいつあるかと、みんなが神経をピリピリさせています。安眠のために無くてならないリラックスした雰囲気などあるはずがありません。ダビデは、思い煩い、心配、後悔、そして恐れのまっただ中にいました。なのに、そんな中で「わたしはふして眠り、また目をさます」と言っています。これは驚くべきことです。とうてい眠れないような状況の中で、ダビデが「わたしは安心して眠ります」と言うことができたのは、なぜでしょうか。それは神への信頼です。
ダビデは祈りました。祈りの中で、神に自分の置かれている苦しい立場と心の痛みを訴えました。「主よ、わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。わたしに逆らって立つ者が多く『彼には神の助けがない』と、わたしについて言う者が多いのです。」(1-2節)祈りは現実からの逃避ではありません。ダビデは、自分を取り囲んでいる苦しい現状をきちんと見ています。けれども、そのあとで「しかし主よ」(3節)と祈っています。この「しかし」は信仰の「しかし」です。神を信じる者は、自分を取り囲む現状に目をつむったり、それを否定したり、そこから逃げ出したりはしません。しかし、現状に埋もれ、そこに沈み込んでしまいません。そこから、目を上げるのです。ダビデは、自分が逃亡の身であることを認めていました。ダビデが落ち目になったのを良いことに、ダビデに敵対する者たちが増えてきているのを知っていました。なにより、自分のこころが張り裂けそうになるほどの苦しみを味わっていました。けれども、ダビデは「しかし、主よ」と神を見上げ、神に信頼を寄せています。
私たちは「しかし」を言い訳けに使ってしまうことが多いように思います。神の言葉に対して、「しかし主よ、私には無理です。」「しかし主よ、私には経験がありません。」「しかし主よ。私は年をとりすぎています。」「しかし主よ、私には力がありません。私は足らないものです。」「しかし主よ。私は忙しすぎます。」こうした「しかし」は不信仰の「しかし」かもしれません。不信仰の「しかし」を信仰の「しかし」に変えていただけるよう、絶えず神に祈り求めたいと思います。
ダビデが祈った「しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾」という言葉は、神がアブラムに語られた言葉です。創世記15:1に「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」とあります。ダビデは、神の言葉に基づいて、「あなたはわたしを囲む盾」と神に祈り、王座を追われ、逃亡する中でも神に信頼を寄せました。明日は敵と戦わなければならないという夜、野営のテントの中でもダビデに安眠を与えたのは、この「神への信頼」でした。
「わたしはふして眠り、また目をさます。主がわたしをささえられるからだ。」食べて、働いて、眠る。なんでもない日常のことがらです。しかし、これは実は大きな幸いです。世の中には貧しさのために食べることができない人が大勢います。病気のため働きたくても働くことができない人も多いのです。心身の痛みのため眠れないでいる人の数は決して少なくないと思います。日常のことができるということは、じつは、大きな恵みなのです。神は「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」(詩篇50:15)と言われます。神ご自身が、「苦しいときには、神頼みをしなさい」と言っておられるのですから、大いにそうしましょう。しかし、苦しみの日から救われたあとも、日常の生活でも、神に信頼し続け、神の恵みを覚え、感謝しながら生活することが大切です。「眠り、目をさます」という日常を神に信頼しながら生きるとき、日常の平安を破るような大変な出来事が起こったときも、神の助けにより、早く日々の平安に戻ることができるようになるのです。
三、死を迎える備え
「眠り、目をさます」というのはまた、人生の最後を迎える日のことを指しています。歴史を通して、キリスト者たちは、「一日一生」という生き方をしてきました。とくに迫害の時代を生きたキリスト者たちはそうでした。明日の命が保証されていなかったからです。
古代には信仰者たちは、夜休むとき、ルカ2:29のシメオンの賛美から 「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます」と祈りました。一日の終わりを生涯の終わりに、眠りを死になぞらえてそう祈ったのです。ですから、詩篇3:5「わたしはふして眠り、また目をさます」という言葉を、生涯の終わり、死を迎えるときに当てはめ、「主よ、あなたはそのときも、私を囲む盾となり、私を支え、平安を与えてくださいます」と神に祈ることができるのです。
「死」を「眠り」と表現したのは、キリスト者たちでした。それは、キリストを信じる者にとって死は苦しみではなく、安息だからです。また、「眠り、目をさます」とあるように、キリスト者はずっと眠っているのではなく、神の国で目覚めるときがあるのです。地上の人生が終わるとき、私たちは地上のからだを、それが造られた土に返します。しかし、霊はそれを授けてくださった神のもとに帰るのです。キリストを信じる者は神の子として生まれ、神の民とされ、国籍は神の国にあるのですから、地上で眠りについても、神の国で目覚めるのです。イエス・キリストは十字架の死によって私たちが安らかに生涯を終えることができるように、その復活によって私たちが神の国に目覚めるようにしてくださいました。これは、キリスト者だけが持っている確かな希望です。私は、子どものころ肉親を亡くし、死への恐れを持っていましたが、イエス・キリストを信じてから、その恐れから救われました。皆さんの中に私が持っていたのと同じ不安や恐れを感じている人はいませんか。イエス・キリストを信じて、そこから解放していただこうではありませんか。
日本で最初にホスピスを始めた淀川キリスト教病院の精神科医長だった工藤信夫先生は「人は生きてきたように死ぬ」と話しておられます。つまり、平安のうちに生きてきた人は平安のうちに死に、ジタバタして生きてきた人は死ぬときもジタバタするというのです。日々に「わたしはふして眠り、また目をさます」と言うことができる神への信頼の生活を過ごしている人は、その人生の終わりにも、平安をもって「わたしはふして眠り」と言い、希望をもって「また目をさます」と言うことができるようになるのです。
私たちは誰一人、明日のことは分かりません。それで明日のことを思い煩うのです。けれども、私たちに安らかな眠りを与えてくださる神は、明日、必ず私たちを目覚めさせてくださいます。それがこの地上で最後の眠りになったとしても、かならず神の国に目覚めるのです。一日で世界が大きく変わる不安定な時代ですが、その中でも、今日という日を神に信頼して生きる人は、明日を思い煩わず、やがての日を恐れることはないのです。この平安、日々の安らかな眠りを神への信頼、イエス・キリストへの信仰によって、私たちのものとしたいと思います。
(祈り)
神さま、私たちの人生はストレスで一杯で、私たちのたましいはあなたからの安らぎを求めて飢え渇いています。苦しみや痛みは、困難の大きさにかならずしも比例しません。小さなことでも、私たちは不安や恐れに捕らわれてしまいます。そのような中で、「わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです。」心に不安を感じるとき、恐れに捕らわれるとき、あなたを呼び、あなたからの安らぎを受けることができますように。イエス・キリストによって祈ります。
7/14/2013