27:7 聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。私をあわれみ、私に答えてください。
27:8 あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。
27:9 どうか、御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。あなたは私の助けです。私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神。
27:10 私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。
一、神の姿
聖書には、神の手や足、耳や目という表現が数多くあります。たとえば、詩篇18:6には「主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた」と、神の「耳」が描かれています。同じ8節に「煙は鼻から立ち上り、その口から出る火はむさぼり食い、炭火は主から燃え上がった」とあって、神の「鼻」や「口」についても描かれています。9節には「主は、天を押し曲げて降りて来られた。暗やみをその足の下にして」と、神の「足」が描かれています。そして35節には「あなたの右の手は私をささえ、あなたの謙遜は、私を大きくされます」とあって、神の「手」が描写されています。神の「目」については詩篇11:4に「主は、その聖座が宮にあり、主は、その王座が天にある。その目は見通し、そのまぶたは、人の子らを調べる」という言葉があります。
これは、神が、実際に手足を持ち、耳や目、鼻や口を持っておられる、神が人間のような姿形を持っておられるということを言っているのではありません。ヨハネ4:24に「神は霊です」とあるように、神は人間のようなからだを持ってはおられません。人間が「神のかたち」に創造されたというのは、人間の外側の姿形のことではなく、人間の内側の霊的なことを指します。それはエペソ4:23-24に「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を着るべきことでした」とあることからも分かります。
神の手は、神の全能の力を表わし、神の足は、神の支配を表わします。神の耳は、人間の祈りを聞いてくださる神のあわれみを示し、神の目は、詩篇11:4にあったように、すべてを見通される神の知識、全知を示しています。詩篇18:8にあった、煙を吹き出す鼻や火を吐き出す口は、神の正義の審判の表現です。聖書は、神を人間の姿になぞらえて描くことによって、神の全知や全能、神の支配やあわれみをより具体的に語っているのです。イザヤ41:10−13にこうあります。
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。「神は信頼する者をその全能で守る」というステートメントよりも、「わたしの義の右の手が、あなたを守る」「あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握る」という言葉のほうが、はるかに、神のおこころが伝わってきます。恐れから救われ、励まされます。本来は見えない神が、このように見える形で描かれているのは、なんとかしてご自分を人間に示したいという神の御心から出たことなのです。
わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
見よ。あなたに向かっていきりたつ者はみな、恥を見、はずかしめを受け、あなたと争う者たちは、無いもののようになって滅びる。
あなたと言い争いをする者を捜しても、あなたは見つけることはできず、あなたと戦う者たちは、全くなくなってしまう。
あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。
神はまるで人間のひとりであるかのようにして、人間に親しく近づいていてくださるお方です。創世記3:8には神が「エデンの園を歩き回られた」とあります。神のことばに逆らって神から身を隠そうとしたアダムとエバを、神が捜しまわっている様子を描いたものです。神は、全知全能のお方であり、アダムとエバがどこに隠れようと、すべてお見通しです。なのに、神は、まるで、迷子になった子どもを捜す親のようにふるまっておられます。こうした表現は、神がどんなに人間に心をかけ、かぎりなく人間に近づこうとしておられるかを言い表わしているのです。
人は、自分が愛する者に近づこうとします。そして、それによって愛を表わします。学校のクラスで、誰かが小児がんになって、キモセラピーを始め、そのため毛が抜けてしまったりすると、その子のために、クラスメートの男の子の何人かが髪の毛を剃って、病気の子と同じようになって、その子をサポートしてあげることがあります。病気の子と同じようになろうとするのは、友情の表われなのです。ハワイのモロカイ島でらい病の人々に伝道したダミアン神父は、最初なかなからい患者に受け入れてもらえませんでした。ダミアン神父はらい病の人たちと接しているうちに、自分もらい病に冒されました。ダミアン神父は、その時、「これで、私も彼らの仲間になれる」と言って神に感謝しました。その人たちと同じ姿になろうとすること、それは愛の表現です。神も同じように私たちにその愛を示されました。イザヤ57:15に「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである』」とあるように、神は人間に近づこう、近づこうとし、ついに、人間になって世に来られました。それが神の御子、イエス・キリストです。
人間に近づいてくださった神の愛を知る私たちは、私たちの方からも神に近づきたいと願います。私たちも、キリストの姿に似るものになりたいと願い、きよめの道を歩むことによって、私たちへの神の愛を表わしたいと思います。
二、神の顔
さて、詩篇27篇には神の手や足、目などという言葉は使われていませんが、その代わりに神の「顔」という言葉が使われています。8節と9節に「あなたに代わって、私の心は申します。『わたしの顔を、慕い求めよ。』と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。どうか、御顔を私に隠さないでください」と、三回連続して「顔」という言葉が使われています。
「神の顔」というとき、それは何を意味するのでしょうか。それは、「神の手」などとどう違うのでしょうか。「神の手」というときには、神がその手で何かをなさる、そのみわざや、それを成し遂げる全能の力を指します。しかし、「神の顔」というときには、神のお力よりも、神のご人格やご性質を表わしているのです。
民数記6:24-26は、祭司が礼拝を終えた人々を祝福する「祝福」の言葉ですが、そこに神の「御顔」が出てきます。
主があなたを祝福し、あなたを守られますように。「御顔をあなたに照らし」、「御顔をあなたに向け」というのは、それによって神がなさる、何かについてでなく、神が礼拝をささげる者に心を向けてくださること、いつしみをもって臨んでくださることを言っています。神のみわざでなく、神のご人格について語っているのです。
主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。
私たちが神に向かうときには、神のみわざを求めるとともに、神のご人格、神ご自身を求めることが大切です。私たちは、神がその手を動かして事をなしてくださることを祈ります。そう信じて求めて良いのです。しかし、それだけで終わって、神の御顔を求めることがなければ、私たちの祈りは、神の力を利用するだけの祈りになり、神とのまじわりのない祈りになってしまうでしょう。私たちが抱えている課題には、祈れば即座に与えられ、問題が解決することもあれば、祈っても祈っても何の答えもないと思えることも多くあります。とくに、自分の外側のこと、健康のことや経済のことなどは、祈っていやされ、求めて与えられることによって、具体的に神の力を見ることができますが、自分の内面や霊的な成長のことは、すぐに結果が目に見えるものではなく、何度も同じ罪を犯してしまう自分のふがいなさに嘆いたり、苦闘したりしながら祈ることのほうが多いかもしれません。そんなとき、私たちに必要なのは、神の御顔です。私たちは、信仰のストラグルの中で、苦い顔をしているかもしれない。醜い姿になっているかもしれない、ボロボロになっているかもしれない。神から顔をそむけられても当然かもしれない。なのに、神は、そんな私たちに顔を向けてくださる。私たちをごらんになって微笑んでくださるのです。神の手は私たちの「問題」に解決を与えます。しかし、神の顔は、問題をかかえている「私たち」自身に、慰めを与え、いやしを与え、平安を与えるのです。
私たちのたましいは神の顔を慕い求めています。神もまた、私たちに「わたしの顔を、慕い求めよ」と語りかけてくださっています。ところが、私たちは、自分のたましいの求めに素直でないのです。神の御顔を求めるよりも、他のものでたましいを満たそうとします。ジェームス・ヒューストン先生の "Joyful Exils" という本が『喜びの旅路』というタイトルで日本語に訳されたとき、先生は、日本の読者のためにわざわざ序文を書いてくださいました。その中にこんな文章がありました。
日本文化について、私に最初に強い印象を与えたのは、雨の日に都心に向かう地下鉄から降りてきた人々でした。誰もが傘の中に隠れるようにして歩いていました。ですから人の顔は、ビニール袋に包まれているかのようで、見ることができませんでした。それから、私は「自殺の小道」と呼ばれる地下鉄のプラットフォームへ案内されました。地下鉄で最も飛び込み自殺が多い場所だというのです。ホームには大きな鏡が設置されています。これは命を捨てないでという最後の嘆願です。あなたが誰であるのか、誰一人わかってくれなくても、自分自身の顔をしっかりと見つめることによって、自殺を思いとどまってほしいというものなのです。このエピソードは「人の顔のない」日本文化の一面を示すものです。ヒューストン先生は、日本語には "person" にあたる言葉がなく、そのため、クリスチャンまでもが、自分の「人格」を大切にし、教会でその回復と成長を求めるよりは、教会の活動そのものを目的にし、それをこなすことを最優先していると指摘しています。この指摘は、なにも日本人だけにあてはまるものではなく、現代というこの時代、先進国と言われている国に住む人の多くは、物質文明、機械文明の中で、霊的なことを忘れ、内面の価値を軽んじ、「パーソン」としての自分を見失い、「顔のない人間」になっているかもしれません。しかし、キリストにある者は、そうした中からでも、神の御顔を慕い求めることによって、もう一度、本来の自分自身を取り戻すことができるのです。
ダビデは言っています。「あなたに代わって、私の心は申します。『わたしの顔を、慕い求めよ。』と。」神のことばでみずからを励ましているのです。ダビデのように、私たちも、自分の心に神のことばで語りかけましょう。信仰や希望、愛を失いかけたとき、心に蓄えられた神のことばで自分に語りかけるのです。そうすると、信仰が息を吹き返し、希望が生まれ、愛が育っていくのを感じ取ることができるようになります。ダビデは「わたしの顔を、慕い求めよ」と自分に語りかけたあと、すぐに、「主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。どうか、御顔を私に隠さないでください」と祈っています。私たちもこのようにして、自らの祈りを励ましましょう。
健康も経済も、家庭の平和も、みな私たちにとって大切なもの、必要なものです。けれども、そうしたことだけに心が向いていると、神の御顔、神のご人格を忘れてしまい、自分自身の人格をも見失ってしまいます。神は私たちの必要を良くご存知で、恵みをもってそれを満たそうとしてくださっているのですから、この神に近づき、その御顔を求めたいと思います。私たちの顔を、神の御顔に向け、神と顔と顔とを合わせて語る、最高の祝福を味わいたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、あなたは私たちのために力強い御手を動かしてくださるとともに、私たちに、温かい御顔を向けてくださる方であることを、今朝、学びました。あなたは、私たちをあなたに似せ、あなたの形にお造りになり、私たちを神に近い者としてくださいました。そして、あなたの御子は人となって世に来られ、あなたは私たちに近づいてくださいました。ここに、私たちがあなたに近づく道が開かれています。どうぞ、私に、イエス・キリストを通して、あなたの御顔を求めることをさらに教えてください。あなたが私たちに御顔を向けてくださっているのですから、私たちも自分の顔をあなたに向けることができますように。主イエスのお名前で祈ります。
9/16/2012