一、祈りのことば
小さな男の子が、母親の目を盗んで、棚の上にあるクッキー・ジャーに手を伸ばしているところを見つかりました。男の子は母親に叱られると覚悟しましたが、母親は言いました。「ぼうや、クッキーが欲しいのね。『お母さん、クッキーをください。』と言ってごらん。」こどもは、自分が悪いことをしたので、しばらく黙っていましたが、母親が赦してくれていると知って、ちょっと恥ずかしそうに言いました。「お母さん、クッキーをください。」母親は「はい。クッキーをあげましょうね。」といって、ジャーからひとつとって男の子にあげました。それからは、この子は、母親の目を盗んでジャーに手を伸ばすことをしなくなりました。クッキーが欲しいときは、「お母さん、クッキーをください。」と言えば良いからです。母親は、クッキーが欲しいときにはどうしたら良いかを、こどもに教え、こどもに、クッキーを得るためのことばも与えたのです。同じように、私たちを愛してやまない神は、私たちに良いものを豊かに与えようとしておられ、「こう言って、わたしに求めなさい。」と、私たちに祈りのことばを与えてくださっています。
その祈りのことばは、聖書のいたるところに見ることができますが、詩篇には、それが詩のかたちで150篇にまとめられています。聖書は、本来は、神が人に語りかけておられるおことばが記されたものです。しかし、それと同時に、人が神に向かって語りかけたことば、つまり、祈りのことばも聖書にしるされています。詩篇は、神を信じる者たちが、さまざまな状況の中で神に祈った祈りを集めたものです。神が、神から人への語りかけである聖書の中に、人から神への語りかけを含められたのは、何を、どう祈ったらよいのかわからない私たちに、こんなときはこう祈りなさいと教えるためです。詩篇は、聖書のほぼ真ん中にあります。聖書を手にとって、ぱっと開くとたいてい詩篇が出てきます。そして詩篇を読んでいくと、かならず、自分にぴったりの祈りを見つけることができます。私たちは、そこにある祈りのことばで神に祈れば良いのです。
神が私たちの祈りを聞いてくださるのは、祈りのことばが整っているから、立派だから、それが状況を正確に説明できているからではありません。神は、私たちが願う先に、私たちに必要なものをすべてご存知です(マタイ6:8)。神に教えなければならないかのようにして、事細かに客観的な事実を神に申し上げる必要はありません。むしろ、自分の心のうちを神に語ればよいのです。誰か他の人のためにとりなし祈るときも、その人の状況をくわしく知らなければ祈れないというのではありません。病気の人のために祈るとき、その人の病状をくわしく知らなくても、病気のつらさ、苦しさを知っていれば、同情の心を働かせて祈ることができます。心が働けば、何をどう祈ったら良いかに気付くはずです。もちろん、祈りに知性は必要ですが(コリント第一14:19)、祈りは、頭を働かせてするものというよりは、心を働かせてするものです。心があれば、祈りのことばは、神が与えてくださいます。実際、神は聖書の中に素晴らしい祈りのことばを備えてくださっているのです。それを使って祈る祈りは必ず神に聞き入れられるのです。
8節をごらんください。この詩の作者、ダビデは「あなたに代わって、私の心は申します。『わたしの顔を、慕い求めよ。』と。」と祈っています。「わたしの顔を、慕い求めよ。」とは、神からのことばです。神は、祈りの中で、ダビデの心に「わたしの顔を、慕い求めよ。」と語りかけました。ダビデは、神からのことばを自分に言い聞かせ、「主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。」(8節)と祈っています。ダビデは、祈りのことばを神から与えられ、そのことばの通りに祈っているのです。この詩の最後の14節も同じです。ダビデは「待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。」と自分に言い聞かせていますが、このことばはどこから来たのでしょう。神からです。「強くあれ。雄々しくあれ。」とは、神がモーセに語り、ヨシュアに語り、常に神の民に語りかけてこられたことばです。ダビデは、神が備えてくださった、祈りのことばを使って祈っているのです。
ですから、私たちも、もし、何をどう祈ってよいかわからなくても、心配はいりません。神は聖書の中に祈りのことばを備えてくださっています。それを使って祈り出すとき、神は、そのあとに続く祈りのことばを与えてくださいます。また、よく祈ることができる人も、自分はもう十分に祈ることができるから、祈りについて何も学ばなくてよいなどと言って高慢になってはいけません。「自分が祈りたいように祈る。」という頑固な心を捨てて、神が「こう祈りなさい。」と教えてくださっていることばを学びましょう。聖書の祈りの世界は豊かです。今まで知らなかった祈りのことば、祈り方が聖書には数多くあります。そうしたものに触れるとき、自分の祈りがもっと高められなければならない、深められなければならない、また、広げられなければならないということに気付きます。そして、習慣的な、決まりきった、堂々巡りの祈りから、神に届く祈りへと変えられていくのです。
二、祈りの確信
では、詩篇27篇から、私たちに与えられている祈りのことばを学びましょう。詩篇27篇は二つに分けることができます。前半では信仰の確信が歌われ、後半では神への願いが祈られています。
27:1 主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。1節から6節は、確信に満ちています。それは、「私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。」という神への賛美となっています。
27:2 悪を行なう者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。
27:3 たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。
27:4 私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。
27:5 それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。
27:6 今、私のかしらは、私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。
ところが、後半の7節から14節はどうでしょうか。
27:7 聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。私をあわれみ、私に答えてください。後半は、祈り、願いですが、それは、非常に切羽詰った嘆願です。前半の神への信頼や確信に満ちたことばはどこへ行ったのでしょうか。同じ人が歌ったとは思えないほどの変化です。前半と後半は何か矛盾したことばなのでしょうか。決してそうではありません。信仰者たちは、天を見上げ、神を礼拝し、信仰の確信を歌いますが、それだけで終わらず、この地上でも、神のみこころに従って生きようとします。しかし、神をないがしろにし、神に信頼するものを痛めつけようとする人々がいる社会では、当然、ぶつかったり、苦しんだりするのです。聖書は、不真実で、不誠実な、神をないがしろにする社会を「曲がった世」(申命記32:5、ピリピ2:15)と呼んでいますが、曲がった世をまっすぐに生きようとすれば、ぶつからないわけにはいかないのです。まわりと適当に妥協し、自分の身を守るようなことをしていれば、そんなに深い苦悩を経験することもないでしょうが、真実な生き方をしようとすると、なんらかの戦いを体験しなければなりません。もし、神を信じる者たちが信仰は信仰、現実は現実というように、天と地上を切り離していたなら、地上の悪に嘆くこともなかったかもしれません。しかし、自分が信じ、礼拝しているとおりに、この地上でも生きていこうとするなら、そこには戦いがあります。そこには「待ち伏せしている者」たちがおり、「仇」が「偽りの証人」が待ち構えているのです(11-12節)。だからこそ、私たちは、そうしたものを乗り越えていくための助けが必要であり、そのための祈り、嘆願が生まれてくるのです。
27:8 あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。
27:9 どうか、御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。あなたは私の助けです。私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神。
27:10 私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。
27:11 主よ。あなたの道を私に教えてください。私を待ち伏せている者どもがおりますから、私を平らな小道に導いてください。
27:12 私を、私の仇の意のままに、させないでください。偽りの証人どもが私に立ち向かい、暴言を吐いているのです。
27:13 ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら。
27:14 待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。
クリスチャンは、イスラエルの信仰者と同じように、神の民とされた者たち、天国の国民です。しかし、地上では寄留者です。私たちは、礼拝で、神の偉大なみわざをほめたたえ、神への信仰を告白します。礼拝は小さな天国です。私たちは礼拝で神を心から賛美しますが、礼拝が終わるとそれぞれの場所に出て行かなければなりません。私たちは、もういちど、世に遣わされていくのです。しかし、いったん礼拝に呼び出された者は、今までと同じ歩みをするのではありません。たとえ、礼拝に来るまでの一週間が失敗だらけで、いやなことに見舞われ、気落ちすることの多かった一週間であったとしても、礼拝から出ていく次の一週間は、そうではありませんし、そうであってはなりません。礼拝は私たち自身を変えます。そして、変えられた私たちが、それぞれの場所に出かけていくとき、その場が変えられていくのです。その変化は人の目には見えず、自分でも感じないことが多いかもしれませんが、礼拝で、「主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。」という確信を与えられ、その確信にもとづいて、「聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。私をあわれみ、私に答えてください。…あなたは私の助けです。私を見放さないでください。見捨てないでください。」と熱心に祈って、一週間をはじめるなら、その一週間は必ず変わるのです。神が祈りに答えて、変えてくださるのです。
三、祈りと願い
では、ここでは、何を神に祈り求めているでしょうか。ダビデはふたつのことを願い求めています。「神の御顔」と「平らな小道」です。
まず、ダビデは「主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。」(8節)と祈っています。「神の御顔」とは、何を指しているのでしょうか。聖書には「神の目」ということばがあって、それは神の知識を意味しています。「神の目」は、神がすべてのものをお見通しであるということを表わしています。「神の手」や「神の腕」ということばは、神の力を表わしています。そのように、「神の御顔」という表現は、神の恵みやあわれみを意味します。また、神のご人格そのもの、神ご自身を表わしています。
祈りは、単に何かを願うことではありません。「願い」は祈りの一部ですが、祈りのすべてではありません。私たちは神を知らないときには、自分の「願いごと」を並べ立てていました。「病気が直りますように。」「宝くじが当たりますように。」「交通事故に遭いませんように。」中には「スピードを出しすぎてもポリスに見つかりませんように。」などといった身勝手などものもありました。そうした「願いごと」は、必ずしも神に向かうものではありませんでした。ですから、それば厳密な意味では祈りではありませんでした。神がすべてのものを造り、すべての良いものは神によって与えられると信じ、神に求め、神から必要なものを受け取ることが祈りだからです。祈りでいちばん大切なことは、「何」を「どう」願うかではなく、「誰に」願うかということです。神は、ベンダーマシーンのようなお方ではありません。「祈り」というコインを入れると、自分の願ったものが出てきて、それを手にしたなら、そこから去っていくというのは、聖書の教える祈りではありません。神が私たちの祈りに答えて必要なものを与えてくださるのは、神が私たちとの関係を保とうとしておられるからです。私たちが求め、神が与え、私たちが受ける。その関係の中で私たちは、神の愛を学びます。神の恵みを知ります。神のあわれみを感じ取るのです。祈りは、究極的には神とのまじわりです。
ですから、祈りとは神に「何か」を求めることではなく、神ご自身を求めることなのです。「神」ご自身を求めることに祈りの本質があると言ってよいでしょう。そんな意味で「主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。」という祈りは、神ご自身を求める祈り、祈りの本質に最も近い祈りだということができます。みなさんは、そのような祈りをしていますか。そのような祈りに導かれたいと思いませんか。8月は、教会では特別な行事のない月です。このような時こそ、祈りを深めるのに良い時です。おひとりびとりが、「御顔」を求める祈りに導かれるよう、心から願っています。
さて、もうひとつの願いは、「私を平らな小道に導いてください。」(11節)というものです。若い人たちは、わざと危ない道を歩いてスリルを楽しみますが、信仰の歩みでは、スリルを楽しむようなことをしてはいけませんし、神もそれを望んではおられません。神は私たちの信仰の足の強さ、弱さをよくご存知です。神は、私たちの歩くことができない岩場や沼地を歩かせはなさいません。ですから、主の道をまっすぐに歩いていくことができるよう、私たちは謙虚に「平らな小道」を祈り求めるべきです。新改訳聖書はここにを「小道」と訳しています。「大通り」とは言われていません。これはイエスが「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)と言われたのを思い起こさせます。多くの人々は、皆の注目を引き、脚光を浴びる「大通り」を歩きたがります。そこは華やかな道かもしれませんが、誘惑が一杯の道です。「小道」を歩く信仰者は脚光を浴びることはないかもしれません。しかし、それは、いのちに至る道、天の大通りにつながる道です。この道に導かれ、この道を歩み続けましょう。
(祈り)
神さま、あなたは私たちの光です。救いです。私たちのいのちのとりでです。私たちは、あなたをそのようなお方として、今、礼拝しています。この礼拝ののち、私たちは、再びこの世に遣わされていきます。光であるあなたに導きを求めないまま、救いであるあなたなに助けを求めないまま、いのちのとりでであるあなたに守りを求めないまま、この礼拝から去ることがないように助けてください。このあとに続く、聖餐のとき、あなたの御顔を、平らな小道を真剣に願い求めることができますように。多くの聖徒たちが「祝福してくださるまではここを去りません。」と、祈り求めたように、私たちのうちにも同じ切実な願いを起こしてください。私たちの祈りをとりなしてくださる、主イエスのお名前で祈ります。
7/27/2008