27:4 わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。
一、三つの願い
「三つの願い事」という昔話があります。むかしむかし、ある町はずれに、働き者の夫婦がいました。この夫婦はお金持ちではありませんが、毎日の食べる物には不自由せず、健康にも恵まれて暮らしていました。ある日のこと、ふたりの家の前を伯爵と伯爵夫人が馬車に乗って通って行きました。それを見て、おかみさんが言いました。「あの人たちみたいに、わたしも、すてきなボウシをかぶり、耳かざりをして馬車に乗ってみたいものだわ。」すると、主人も言いました。「そうだな。何をするのにも召使いに手伝ってもらえば、言う事はないね。」
二人はそんな事を言っているうちに、自分たちの生活が急にみすぼらしく思えてきました。おかみさんは、ため息をつきながらつぶやきました。「こういう時に、仙女がいてくれたらねえ。仙女が魔法のつえをひとふりすれば、どんな願いでもかなうと言うじゃないか。」そう言ったとたん、家の中にサッと光が差し込んで仙女が現れたのです。仙女はふたりに言いました。「あなたたちの話は、みんな聞きました。今からあなたたちに、三つの願い事をかなえるチャンスをあげます。願い事を口でとなえれば、それだけでかないます。ただし、願い事の取り消しは出来ませんよ。」仙女はそう言うとスーッと消えました。
「おい、お前。聞いたかい?!」「ええ、確かに聞きましたよ。願い事が、それも三つもかなうんですって。お前さん、願い事は何にする?」「そうだな、やっぱり一番の願いは、長生きする事だな。」「でもお前さん、長生きしたって、働く毎日ではつまらないよ。願い事は何と言っても、お金持ちになる事だよ。」「それもそうだ。大金持ちになりゃ、たいていの願い事はかなうからな。」二人はあれこれ考えましたが、なかなか良い願い事が思いつきません。仕事が終わってからゆっくり願い事を考えることにしました。
夜になり、二人はだんろのそばに腰をおろしました。おかみさんはだんろの赤い火を見ながら、思わずつぶやきました。「この火でソーセージを焼いたら、きっとおいしいだろうね。今夜は願い事のかなう前祝いに、一メートルもあるソーセージでも食べてみたいね。」おかみさんがそう言ったとたん、天井から大きなソーセージが落ちてきたのです。「えっ、うそ! 今のはなしよ!」おかみさんはあわてて言いましたが、願い事は取り消せません。
すると主人が、おかみさんに怒鳴りました。「このまぬけ! お前の食いしん坊のおかげで、大事な願い事が一つへってしまったぞ! 何てもったいない! こんなソーセージなんか、お前の鼻にでもぶらさげておけ!」主人がそう言ったとたん、ソーセージがおかみさんの鼻にくっついてしまいました。「しっ、しまった!」主人はあわててソーセージを引っ張りましたが、ソーセージはどうしてもとれません。
鼻にソーセージをくっつけたおかみさんは、大声で泣き出しました。「あーん、こんなみっともない姿じゃ、どこにも行けないわ! どうぞ、このソーセージが鼻から取れますように!」そのとたん、ソーセージは鼻から取れて床に転がりました。ふたりは、三つの願い事を無駄にしていまいましたが、それからは、二度と不満を言わず、今の暮らしを大切にしたということです。
この昔話では大きなことを願わず、慎ましく生きるほうが幸いだということを教えています。人の幸せは、他の人から幸せに見えることにではなく、いつでも、心が満ち足りていることにあります。しかし、聖書では、利己的なことでなければ、どんな大きな願いでも、神はそれを喜んで叶えてくださると教えています。詩篇81:10に「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう」とあるとおりです。親鳥が、口を大きくあけている雛鳥に餌を与えるように、神もまた熱心に願う人に必要なものを与えてくださるのです。皆さんは、いつも何を神に願っていますか。もし、神が三つの願い事を叶えてあげようと言われたら、皆さんは何を願うでしょうか。自分の願いを具体的に神に申し上げられる人は幸いです。そうした人は、自分の人生にはっきりした目標を持ち、いつもそれを意識しているからです。しかも、その願いが神に向けられたものであるなら、それは、なんと素晴らしいことでしょう。
ダビデは、神に対して、はっきりとした三つの願いを持っていました。それは詩篇27:4に書かれています。第一の願いは「主の家に住む」こと、第二は「主のうるわしきを見る」こと、第三は、それを「尋ねきわめること」です。しかし、この節に「わたしは一つの事を主に願った」とあるように、ダビデの願いは、つきつめると「一つ」になります。そして、その一つのこととは、神の「臨在」(presence)でした。
二、神の臨在
ダビデは「生きるかぎり、主の家に住みたい」と願いました。「主の家」というのは、「その宮で尋ねきわめる」という言葉があるように、それは、神の宮、神殿のことです。ダビデの時代の神殿はテント作りで、「幕屋」と呼ばれていました。幕屋には、祭壇はあってもベッドはありません。洗盤はあってもバスルームはありません。備えのパンはあっても豪華な食事はありません。燭台はあっても、エンターテーメントはありません。王宮にはそれらすべてが揃っているのに、なぜダビデは、立派な王宮に住むよりはテント作りの主の家に住みたいと言ったのでしょう。それは、そこに主がおられるからです。神が人とともにおられることを、「臨在」(presence)といいます。ダビデは、この「臨在」を求めたのです。
「臨在」(presence)は「存在」(existence)とは違います。「臨在」は、神が、ただ単に存在されるだけでなく、神が、人を祝福し、力づけ、苦しみから救い出し、いやし、また、慰めるために、人の側近くにいてくださることを言います。モーセが神にその名を問うたとき、神は「わたしはヤーウェ」と言われました。「ヤーウェ」というのは「あってある者」という意味です。この神の御名は、神が、誰によっても支えられず、自ら存在しておられるお方であり、他のすべてのものに存在を与えておられるお方であることを示すものですが、それだけではなく、神が、人とともにおられるお方であることをも表わしています。「ヤーウェ」というお名前は神が「臨在」の神であることを語っています。神の名は「臨在」であると言ってもよいほどです。
神は、「わたしは必ずあなたと共にいる」(出エジプト3:12)と約束して、モーセを力づけました。また、モーセの後継者ヨシュアにも「わたしはあなたと共にいる」と言って励ましてくださいました。バビロンに滅ぼされたイエスラエルに対しても、「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」(イザヤ41:10)と言ってイスラエルを慰め、その回復を約束されました。預言者エレミヤも「わたしのしもべヤコブよ、恐れることはない、わたしが共にいるからだ」(エレミヤ46:28)との神の言葉を伝えています。預言者ハガイは、「この地のすべての民よ、勇気を出せ。働け。わたしはあなたがたと共にいると、万軍の主は言われる」(ハガイ2:4)と言って、神殿の再建に取り組む人々を励ましています。
このように、神は、旧約の時代、神の民にご自分の「臨在」を示してこられましたが、新約の時代には、イエス・キリストを通して、実際に、人々の真ん中に住み、人々と共にいてくださいました。マタイの福音書は、イエス・キリストを描くのに、「その名はインマヌエルと呼ばれるであろう。これは、神われらと共にいますという意味である」(マタイ1:23)という天使の言葉ではじめ、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)という、主イエスの言葉でしめくくっています。神はまさに、人と共におられる神、「臨在」の神です。そして、神は、その「臨在」によってわたしたちを救ってくださるのです。神の「臨在」のあるところにわたしたちの救いがあります。神の「臨在」から、恵み、力、慰めなど、わたしたちに必要なすべてのものが湧き出てくるのです。わたしたちのあらゆる願いは、神の「臨在」によって満たされるのです。究極の救いは、神が人と共にある、「臨在」にあるからです。黙示録はこのことを次のように描いています。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3-4)
三、臨在を求める
ダビデは、この「臨在」を求めました。主が共にいてくださることを知ったなら、こんどはわたしたちが「主と共にありたい」、「主の側に近づきたい」、「主の臨在を体験したい」と願うのは当然です。この願いはまごころから神を信じる者が欠いてはならない願いです。
詩篇84篇に「万軍の主よ、あなたのすまいはいかに麗しいことでしょう。わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、わが心とわが身は生ける神にむかって喜び歌います。…あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います」という言葉があります。これはダビデの詩ではありませんが、ダビデの気持ちも、この言葉の通りだったと思います。「神の家の門守」というのは、神殿を守る守衛のことです。それは夜中も目をさましていなければならないつらい仕事です。王宮にいるよりは、神の宮にいたいと願ったダビデもまた「王であるよりも、神の家の門守になりたい」と思ったことだろうと思います。
ダビデは王宮で、多くの家来たちにかしずかれていたことでしょう。そこには多くの人が出入りし、さまざまなパーティが繰り広げられていたかと思います。ダビデのように権力の頂点を極めた人はきっと、その心も満たされ、日々が充実していただろうと誰もが思うでしょう。しかし、ダビデのたましいには飢え渇きがありました。神の「臨在」を求める飢え渇きです。ダビデと同じ求め、飢え渇きは、わたしたちにもあるはずです。しかし、日常に埋没したり、日々の生活に追われたり、さまざまな楽しみに心が奪われることによって、このたましいの願いが、かき消されてしまうことがあります。
ある人が「孤独は山になく、街にある」と言いました。わたしはこの言葉をはじめて聞いたとき、ほんとうだと思いました。人は大勢の中で孤独を感じます。そこに足らないものを感じ取るのです。親しい人と一緒に食事をし、あれこれの話題を楽しく話していても、それが終わると、そうしたことが虚しく感じられる時があるものです。とくに信仰者は、たとえそれが教会の集まりで、大勢人があつまり、賑やかにしていても、「神の臨在が欲しい」と感じることがあります。何かの話題で、その場が盛り上がれば盛り上がるほど、「神の声を聞きたい」という気持ちになるものです。人々から離れ、人の言葉から遠ざかり、神の「臨在」に近づき、神と語らいたいという願いが湧き起こってきます。信仰者は、世にあってさまざまな目に見える祝福にあずかりますが、そのたましいには、それ以上のもの、神の「臨在」を慕い求める飢え渇きが常にあるのです。
ダビデの「主の家に住みたい」という言葉は、華やかで、絶えず人が出入りし、多忙な王宮から逃れ、「主の家」で神とともにありたいという願いを言い表したものです。いつの時代にも、信仰者は、共に集い、神を礼拝し、神の救いを喜び祝うことと共に、ひとり静かに神を想い、御言葉を味わう時を大切にしてきました。主イエスはひとりで寂しいところに行き、父なる神とのまじわりのうちに時を過ごされ、弟子たちにもそうするようにと教えられました。そして、そのように神とのまじわりの中に時を過ごした人々が教会に集まるときにはじめて、教会の集まりは神の「臨在」を示すことができるのです。
主は「臨在」の神です。信じる者にその「臨在」を約束しておられます。神の「臨在」に、人を満たすすべてがあります。そうであるなら、信仰者が「臨在」を求めないということがあってはなりません。わたしたちも、ダビデのように、「生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめること」を、わたしたちの第一の願いとし、神に近づきたいと思います。神は、かならず、このような願いを聞き届けてくださいます。
(祈り)
神さま、わたしたちをあなたの「臨在」へと導いてください。日々の生活の中で、あなたの「臨在」を味わい、そこでいやされ、慰められ、力づけられ、さらに、きよめられるものとしてください。主イエスのお名前で祈ります。
10/22/2017