27:11 主よ。あなたの道を私に教えてください。私を待ち伏せている者どもがおりますから、私を平らな小道に導いてください。
27:12 私を、私の仇の意のままに、させないでください。偽りの証人どもが私に立ち向かい、暴言を吐いているのです。
27:13 ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら。—
27:14 待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。
一、キリスト者の姿
若い方はご存知ないかもしれませんが、女性の立ち居振る舞いを描いたことばに、「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿が百合の花」というのがあります。江戸時代のことわざ辞典『譬喩尽』(たとえづくし)に載っているくらいですから、随分古くからのことばです。牡丹の花が散った後、芍薬が5月中旬から、そして百合が梅雨時の6月から花を咲かせるので、こういうことばが生まれたのでしょう。これは人の立ち居振る舞いを「立つ」、「座る」、「歩く」の三つの動作で表わしていますが、じつは、聖書にも同じ表現があるのです。詩篇1:1です。
幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。詩篇1:1では「歩かない」、「立たない」、「座らない」と、否定の形で書かれてはいますが、信仰者の姿を「立つ」、「座る」、「歩く」の三つの動作で表わしています。
新約でも「立つ」、「座る」、「歩く」という言葉で、キリスト者の姿が描かれています。エペソ5:26-27に
キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。とあるように、キリストを信じる者たちが、やがてきよめられて、キリストの前に「立つ」ことが語られています。結婚式では、花嫁は父親に手を引かれて、花婿のもとへと向かい、花婿といっしょに司式者の前に立ちます。キリスト者は、今は、キリストの婚約者です。しかし、やがて時が来て、花婿であるキリストの前に立つときがやってきます。キリストの救いを受けた者たちは、審判者であるキリストの前に恐れながら立たされるのではなく、花婿であるキリストの前に、花嫁として立つのです。それはなんという喜びの時でしょうか。私は結婚式の前に、結婚するカップルのために準備をクラスを持つのですが、その時は、何を話しても、ふたりはニコニコして聞いてくれます。人生の中で一番うれしい時というのは、もうすぐ結婚式という、その時かもしれません。じつは、すべてのキリスト者にとって、今がそんなうれしい時なのです。花婿であるキリストがもうすぐ来られる、そんな希望の時に生きているのです。結婚前のカップルのように、私たちもその時を待ち望んで喜びたいと思います。
次に、エペソ人への手紙には「座る」ということばが2:4-6に使われています。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、—あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。—キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。これは、イエス・キリストによる救いを要約した、とても大切なことばです。イエス・キリストは、全人類の罪を背負って十字架の上でその命を捧げられました。イエスの死は、人々の救いのための大きな犠牲でしたが、イエスは、罪の身代わりとなって死んでいかれただけでなく、その死によって、死に打ち勝ち、死そのものを滅ぼして、死者の中から復活されました。そして、天に帰り、父なる神の右の座に座られました。イエスは私たちの罪のために死なれ、私たちを救うために復活され、そして、天から私たちを導き、守るために昇天されました。それは、イエス・キリストの十字架と復活、昇天を信じる者が、それによって、イエスと共に十字架に死に、イエスと共に復活し、イエスと共に天に座わるためでした。イエスの十字架によって罪に対して死に、復活によって永遠の命に生き、昇天によって神の子という天の身分を保証されているのです。私たちに天の座が予約されている、それは何という安心、保証でしょうか。
イエスは弟子たちに約束されました。
あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。ヨハネ14:1-3のみことばです。地上の生涯を終えるとき、私たちの霊魂は神のもとに帰り、イエス・キリストによって備えられたところに行きます。イエスは父なる神の右の座におられますから、私たちの行くところも、神の右の座かもしれません。この座は、本来は神の御子のための座です。ですから、人は、そこをどんな努力によっても、自分のものとすることはできません。けれども、私たちの主イエスがそこにおられることによって、私たちもそこに迎えられるのです。
父なる神の右の座は、ほんとうは、「審判の座」です。イエス・キリストはそこに座って、すべての人を裁き、その人の永遠の運命を定めます。しかし、イエス・キリストは、キリストを信じる者のために、そこを「恵みの座」に変えてくださいました。私たちは、そこでキリストが私たちのためにとりなしておられる恵みの座を仰ぎながら礼拝をささげていますが、それは、私たちにとって手の届かない、はるかかなたのものではなく、すぐそこにあるもの、いや、私たちがすでにそこに座っているのだと聖書は教えています。「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」と言われている通りです。世を去った聖徒たちがキリストとともに天にいるのは分かるのですが、地上にいる信徒たちもまたすでに天にいると言われているのは、どういうことでしょうか。それは、「キリスト・イエスにおいて」と言われているように、キリストが天の座におられることによって、キリストに結ばれた者もそこに座っているということです。今月の賛美にあるように、私たちは恵みの座ですでに恵みを受けているのです。私たちの国籍はすでに天にあります。すべてのキリスト者はデュアル・シチズンシップ、天と地上の二つの国籍を持っています。この地上にありながら、天国の国民、神の民として、生きる。それがキリスト者の歩みです。
それで、エペソ人の手紙は「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」(エペソ4:1)、「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」(エペソ5:8)「賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し」なさい(エペソ5:15)と勧められています。聖書で「歩く」というのは、日常生活を意味します。キリスト者は、キリストの前に「立つ」こと、キリストとともに天に「座る」ことを許されているのですから、この地上でもそれにふさわしく、キリストに導かれて「歩く」ことが求められているのです。
「光の子どもらしく歩みなさい。」この光は、正しさやきよさ、また、命を表わします。闇の中では、何も見えず、どこに進んでいいか分かりません。それと同じように、光である神を知らずにいたとき、私たちは罪の闇の中にいて、何を目指して生きるのかが分からず、真実に生きるための力もありませんでした。しかし、今は、神の子どもとされ、光の中にあります。詩篇27:1に「主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう」とあるように、たとえ、この世がどんなに暗くなっても、光の子は光の中を歩くことができるのです。そればかりか、暗い世に、神の真理の光を届けることができるのです。
二、信仰の道
さて、詩篇27篇には「立つ」、「座る」、「歩く」という言葉はありませんが、詩篇27篇全体は「立つ」、「座る」、「歩く」の三部に分けることができます。最初の1〜3節は「立つ」です。
主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。ダビデは、神を恐れず、悪を行う者が「倒れ」ても、私はしっかりと「立って」、「動じない」と言っています。自分は神に頼らなくても、自分でしっかり立っていられるなどと強がっている人ほど、ちょっとした困難で簡単に倒れてしまいます。信仰者は、自分がどんなに弱くても、主が立たせてくださるので、どんな苦しみの中でも、しっかり立っていることができるのです。
悪を行なう者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。
たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。
次の4〜10節には「座る」ことが描かれています。
私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。ここには、ダビデが神殿に座り神を想い、そこにひざまづいて神を求め、神に願いをささげている姿を見ることができます。さきに見たように「座る」という言葉は「身分」を表わしています。ここでダビデは「私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる」と言って、自分が神のこどもにされ、神の愛を受けていることを強く確信しています。父や母がその子どもを捨てることは滅多にありません。父や母は、自分を犠牲にしても子どもを守ろうとし、子どもが何歳になっても、あれこれと心配し、世話をします。きょうも、お孫さんの世話を頼まれて遠くに出かけていて、ここでいっしょに礼拝を守れない人が何人かあります。ほんとうは子どもに世話してもらって当然の年齢になっていても、親は子どもを心配します。父や母の愛はそれほど強いのです。しかし、人間の愛には限界がありますから、親が子を見捨てる、子が親を見捨てることがあるかもしれません。親子の間でさえ、その関係が壊れるのなら、一般の人間関係が壊れてしまうのはなおのことでしょう。そのようなことを体験すると、自分が見捨てられ、一人ぼっちにされたように感じてしまうことでしょう。しかし、そんなときでも、神は、神に信頼する者をお見捨てにはなりません。だから、神に頼る者は、たとえ、一時的に、混乱したり、落ち込んだりしても、決して絶望することがないのです。安心して、神のもとに座っていられるのです。
それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。
今、私のかしらは、私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。
聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。私をあわれみ、私に答えてください。
あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。
どうか、御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。あなたは私の助けです。私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神。
私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。
そして、11〜14節には「歩く」ことが書かれています。
主よ。あなたの道を私に教えてください。私を待ち伏せている者どもがおりますから、私を平らな小道に導いてください。「主よ。あなたの道を私に教えてください。…私を平らな小道に導いてください」とは、じつに謙虚な祈りです。私たちはしばしば、自分が歩きたい道を主張し、突っ走ります。「神さま、この道で良いのでしょうか」「みこころなら道を開いてください」「あなたが備えておられる道に導いてください」と祈るより、「私の道」だけを追求してしまいます。また、私たちは「小道」よりも、「大通り」を歩きたがります。世の人の誰もが行く道です。富と繁栄の道です。それは、人々から「素晴らしい」「立派だ」と誉められて満足する道です。しかし、ダビデは、神のみこころの道を求めました。たとえ人目には隠れてはいても、神がいつも目をとめていてくださる道、神とともに歩む道を求めました。その道こそ、「平らな道」、つまり平安の道です。
私を、私の仇の意のままに、させないでください。偽りの証人どもが私に立ち向かい、暴言を吐いているのです。
ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら。—
待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。
ヘブル12:13に「また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。足なえの人も関節をはずすことのないため、いやむしろ、いやされるためです」と教えられています。若い人はわざと危ない道を歩いてスリルを楽しみますが、信仰の歩みはそうであってはいけません。信仰の鍛錬は必要ですが、それは、誘惑が一杯の危険な道に飛び込むこととは違います。イエス・キリストを信じる者は救われ、いやされているとはいえ、まだまだ回復の途上にあり、完成には至っていません。アメリカの病院では、大きな手術をしたあとでも、肺炎を防ぎ、回復を早めるために患者を歩かせますが、まずは、病院の廊下を手すりをつかってのことで、病気の人をいきなり庭に連れ出して走らせるようなことはしません。神は、私たちの信仰の度合いに従って、平らな道を用意してくださっています。ですから、私たちもより堅実に神と共に歩くことのできる道を求めていきたいと思います。
イエスが「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」(マタイ7:13-14)と言われたように、信仰の道は、たとえ、人の目には隠れてはいても、それはいのちに至る道、天の大通りにつながる道です。それこそが平らな道、平安と平和の道です。私たちは、礼拝で、神の前に座ってみことばを聞きました。礼拝の最後に立ち上がって頌栄をささげ、祝福を受けます。そこから、私たちの一週間の歩みが始まります。「主よ。あなたの道を私に教えてください。…私を平らな小道に導いてください」との祈りとともに歩み出しましょう。
(祈り)
父なる神さま、あなたは、私たちを、あなたの前に立たせてくださり、あなたの側に座らせてくださいました。そればかりか、私たちのために「平らな小道」を備えて、あなたの道を歩ませてくださいます。あなたへの賛美と祈り、あなたからのみことばと祝福によって始まったこの一週の歩みを導いてください。私たちがあなたの道を歩むことができますように。とりわけ、来週の聖餐に向かって備える良い歩みをさせてください。主イエスのお名前で祈ります。
9/23/2012