23:1 【ダビデの賛歌】主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
今年の年間聖句は詩篇23篇です。全員が1節から6節までの全部を覚えて、暗誦できるようになりました。せっかく覚えましたから、いろんな時に、この詩篇で主を賛美し、また、自らに語りかけるようにしてみましょう。
一、人生の導き
詩篇23篇には人生の情景が書かれています。そこには「緑の牧場」があり、「いこいの水のほとり」があります。そこで私たちのたましいは「生き返り」、「満ち足り」ます。しかし、同時に、「死の陰の谷」があり、「わざわい」が待ち構えています。私たちを食い尽くそうとする「敵」に取り囲まれることもあります。良いこともあれば悪いこともあり、幸いなこともあれば辛いこともあります。
昔の人はそのことを「禍福はあざなえる縄のごとし」と言いました。これは、中国の最初の歴史書『史記』(紀元前90年頃)からとられたと言われています。「禍福」というのは中国の言葉から来ているのでしょう。縄を作るときには、束ねた稲藁を水で湿らせ、木の棒などで叩いて柔らかくします。それから、3本くらいの藁を両手に持ち、左右の束を交差させ、ひとひねりして結び目を作ります。この結び目を足の指の間にはさんで手をすり合わせながら、二つの藁束を重ね合わせていきます。藁の先の方まで、縄にしたら新しいワラを接ぎ足して、また手をすり合わせて縄をなっていくのです。縄が二つの藁束をからみあわせて作られるように、人生には、「禍」(わざわい)と「福」(さいわい)の両方がある。人生はそのようなものだから、良いことがあっても、悪いことがあっても、あまり喜んだり、悲しんだりしないで冷静に受け取りなさいという意味で、このことわざは使われます。
詩篇23篇にも幸いと災いが描かれていますが、この詩篇は、たんに人生の幸・不幸を説くものではありません。幸いの中にも、不幸の中にも、主がおられ、それぞれを導いておられると教えています。幸いの中に神を覚えるのは、難しいことではありませんが、不幸の中に主がおられることを認めるのは、容易いことではありません。苦しみの時には、「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」(4節)とあるところを何度も唱えて、主が共にいてくださることを確認するとよいでしょう。主が「死の陰の谷」から「緑の牧場」と「いこいの水のほとり」へと導いてくださることを信じましょう。最終的には「主の家」に導いてくださると確信しましょう。そのとき、私たちの心に感謝と喜びが湧いてくるのです。
昔のことわざは、人生が「禍福」の二本の束でできていると言いますが、聖書は、人生には、幸いと災いの他に、もう一本の束、「神の導き」があると教えています。この三本目の「導き」の束は、信仰がなければ見えませんが、信仰の目で見るとき、私たちの人生の最初から最後まで途切れることなく存在していることが分かります。詩篇23:3は「主は…私を…導かれます」と言って、人生を貫いている神の導きを歌っています。信仰者の人生は、この「神の導き」を見出しながら一歩一歩を歩んでいくものなのです。
二、神の導き
神の導きには、「大」・「中」・「小」があります。「大きな導き」というのは、信じる者が罪と滅びから救われて天に行くことです。また、天に向かう歩みの中で、人格が聖められ、キリストに似た者へと変えられていくことです。さらに、神の愛を知り、キリストの恵みを受けた者が、それを証しすることです。神の導きはみな、この人生のゴールを目指しています。神は、これらのゴールに反して私たちを導くことはありません。これらのゴールにしっかり目を向けるとき、神の導きが分かるようになります。
「中くらいの導き」というのは、神が一人ひとりにお与えになった「ミッション」(使命)と、求める者に示される「ビジョン」(展望)のことです。神は、すべての人に、この世にあってなすべき使命を与えておられます。福音を外国に伝える人は、そうしたミッションを受けた人なので「ミッショナリー」(宣教師)と呼ばれますが、宣教師だけが使命を受けた人ではありません。実業家になって経済を盛んにする、政治家になって世界の平和のために働く、また、医者になって病気で苦しむ人を助けるなどといったことも「ミッション」(使命)です。そればかりでなく、よい父親、母親、また、隣人、友人となって子どもを育て、人々を助けることも立派な使命です。
しかし、自分の使命が分かっても、それに具体的に取り組まなければ、使命を果たすことができません。医者になるにはよく勉強してメディカル・スクールを卒業し、医師免許を得なければなりません。事業を始めるには人材を集め、資金を調達するなど、プランが必要です。こうした「中・長期のプラン」は一般には「ビジョン」と呼ばれます。さまざまな会社・団体には「ミッション・ステートメント」とともに「私たちのビジョンはこうこうです」という「ビジョン・ステートメント」があります。ところが、「ミッション」にしろ「ビション」にしろ、もとは聖書の言葉なのです。神を知らない人は、それが神から来ていることを分からないで「ミッション」や「ビジョン」という言葉を使い、それを掲げているのですが、私たち、信仰者は、それ以上に、自分に与えられた「ミッション」をはっきりと知り、「ビジョン」を求めたいと思います。
神の導きには人生のゴール(目的)に導く「大きな」もの、ミッションやビジョンを与える「中くらい」のものとともに、日常の生活の小さな出来事や具体的なことがらを通しての細やかなものもあります。その時は気づかなくても、あとで、それが導きであったと分かることがたくさんあり、皆さんも、毎日、そうしたことを体験していることでしょう。それを、「小さな導き」と呼びますが、「小さい」からといって重要ではないということではありません。そうした導きは神の細やかな愛を私たちに示すものなのです。
太陽系には大きなものも、小さなものも合わせ5,000個の星があります。この太陽系は銀河系の一部で、銀河系には太陽系のようなものが2,000億あるとされています。すると、銀河系だけで1,000兆の星があることになります。大宇宙には銀河系のようなものが数千億あると言われています。1,000兆は1のあとにゼロが15個、1,000億はゼロが11個もつく数字ですから大宇宙にはゼロが26個もつくほどの数の星があることになります。そんなとてつもない大宇宙を造られた神が、その中のたったひとつの星を顧み、そこに住む80億人のうちのひとりでしかない「私」に心をかけ、導いてくださるというのです。日常生活の中での細やかな導きは、たとえそれを「小さい導き」と呼んだとして、神の偉大な導きの一つなのです。
三、義の道に
さて、きょうの詩篇に戻りましょう。詩篇23:3で「私を義の道に導かれます」とある「道」には、大通りでなく小さな道を表わす言葉が使われています。しかも、それは複数です。私はイスラエルに行ったとき、小さな丘にいくつもの筋が刻まれているのを見ました。それは獣が通る道でした。動物や家畜が通ったあとにできたものでした。羊は、草を求めて草原や丘を行ったり来たりします。そのためにいくつもの道ができます。季節によって草や水のあるところは変わりますので、羊飼いは、羊を導くのに、いつも同じ道を通りません。数多くのルートから、その時に応じて最善のものを選びます。
私たちの人生においても、様々な道があります。何百年か前には、多くの人は、生まれたところで育ち、そこで働き、そこで亡くなっていきました。人生に選択肢は多くはありませんでした。そんなに迷うことなく、決まった道を歩めばよかったのです。しかし、現代は違います。社会が複雑になりました。何をするにも数え切れない選択肢があって、迷ってしまいます。しかも、その中には私たちを生かすものもあれば、駄目にしてしまうものもあります。今日ほど、日々の生活の中で、仕事のことで、人間関係で正しい選択や判断が必要とされている時代はないでしょう。「主よ、導いてください」と祈りながら進んでいかなくてはなりません。
聖書は「主は…私を義の道に導かれます」と言っています。聖書で「義」というのは、たんに「正しい」というだけでなく、「成績」や「功績」を表します。創世記15:6に、アブラハムのことについて「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とありますが、そこでの「義」という言葉には、「クレディット」という意味があります。「クレディット」は銀行のアカウントでは「収入」のことです。私たちはみな「天国銀行」にアカウントがあるのですが、かつては、「クレディット」どころか、「デット」(借金)だらけでした。ところが、アブラハムの信仰を「クレディット」にしてくださった神は、イエス・キリストを信じる者に、イエス・キリストが持っておられる莫大な「クレディット」(義の財産)をその人のアカウントに「クレディット」として振り込んでくださったのです。神が導いてくださる「義の道」とは、神からの「クレディット」が増し加わっていく道なのです。
この「義」は、私たちが自分の力で稼いだものではありませんから、私たちはそれを自分のものとして誇ることはできません。恵みによって与えられたものですから、ただ、神を誇るのです。聖書は、「御名のために、私を義の道に導かれます」と言っています。「御名のために」は日本語では「御名にふさわしく」(新共同訳)とも、「御名のゆえに」(新改訳2017)とも訳されていますが、多くの英語訳では“for the sake of his name” と訳されます。New Living Translation では意味を取って“bringing honor to his name”(神の御名に栄誉をもたらすため)となっています。神は「義」なるお方であり、私たちにその「義」を分け与えようとして、「義の道」に導いてくださるのですが、それは恵みのゆえですから、私たちが神の導きを求め、その道に歩むのは決して自分を誇るためではありません。自分がひとりで判断していたなら、きっと間違った道に歩んでいったに違いないのです。そんな私たちが、神の御名のゆえに、その愛、恵み、あわれみのゆえに、正しい道に導かれています。私たちはこのことを喜び、感謝し、神の御名をほめたたえながら歩むのです。
「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」私たちの人生には神の導きがあります。神を信じて、そのことを知りましょう。それは私たちに人生の目的を与えます。地上での使命を教えます。ビジョンを示します。神に祈り求めて、それを示していただきましょう。主は私たちを「義の道」に導いてくださいます。主の導きに従い、あふれるばかりの祝福をいただきましょう。
(祈り)
私たちの羊飼いである主なる神さま、この週も「主は…私を…導いてくださる」と信じて歩む私たちとしてください。そして、あなたの導きに従うことによって、あなたの恵みを知り、あなたの御名をほめたたえる者としてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。
8/7/2022