生き返るたましい

詩篇23:1-6

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23:1 【ダビデの賛歌】主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

 今年は詩篇23篇を「年間聖句」に選びました。詩篇23篇からすでに何度かお話ししましたが、きょうは3節の「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます」を取り上げます。

 一、たましい

 「主は私のたましいを生き返らせ…」の「たましい」は、もとの言葉で「ネフェシュ」と言います。聖書でこの言葉が最初に出てくるのは創世記1:20です。生きているという言葉「ハヤー」と組み合わせて「ネフェシュ・ハヤー」といって、「生き物」と訳されています。「ついで神は、『水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ』と仰せられた」とある通りで、同じ言葉は21節、24節でも使われています。創世記1:30には「また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える」とあって、「ネフェシュ・ハヤー」が「いのちの息」と訳されています。このことから、「ネフェシュ」には神に造られた物(creature)、しかも植物以外の命を持つ物(living creature)という意味があることが分かります。神はすべての「生き物」に命をお与えになったお方です。

 人間に命をお与えになったのも神です。創世記2:9にこうあります。「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」どの生き物も神から命を与えられていますが、人間の場合は特別です。もっと密接な神と人と関係の中でその命が与えられています。人の命は、呼吸をし、食べ物を消化し、子孫を増やすといった生物の営みだけではありません。人は、自分の意志を持ち、感情を持ち、知性を持ち、人生の意味を尋ね、目的を見出して生きるものです。人の「ネフェシュ」は、意志や感情、知性が働く場、つまり、「たましい」と訳され、その人の存在や人格を指すのに使われます。

 ですから、詩篇23:3の「主は私のたましいを生き返らせ…」というのは、「主は、私に生きる意味と目的を教え、私を人格として生かしてくださる」ということになります。

 詩篇23篇は、神が「羊飼い」、私たちが「羊」だと言っているのですが、普通、羊飼いは生まれた羊を育て、世話することはあっても、羊を生み出し、羊に命を与えることはできません。しかし、天の羊飼いは、羊である人間を造られたお方、人に命を与え、生かしておられるお方です。詩篇100篇にこう書かれています。「知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。」私たちの羊飼いは私たちを造ったお方、私たちに命を与えたお方、私たちを生かしておられるお方です。だからこそ、主は私たちのたましいを生き返らせることがおできになるのです。

 二、生きる力

 この詩篇でダビデが「主は私のたましいを生き返らせ…」と言っているのは、ダビデが「たましいが死ぬ」ほどの体験をしたことを物語っています。ダビデは、イスラエルの初代の王、サウルに認められ、サウルの娘と結婚し、サウルの義理の息子になったのですが、猜疑心の強いサウルから命を狙われました。サウルが戦死したのち、ダビデはイスラエルの第二代の王となりましたが、それまでの間、「もはやこれまで」と覚悟したことが何度もあったでしょう。絶えず命の危険にさらされ、たましいがすりきれるような思いをしました。「たましいの死」を体験したのです。しかし、ダビデはそのつど神に信頼し、命を救われ、たましいが生かされ、より一層力づけられる体験をしてきました。ダビデがここで言っているのは、そのような体験のことだと思われます。

 ダビデのように命の危険にさらされることがなくても、「たましい」がしおれてしまい、生きる意欲を失ってしまうことがあります。災害など、大変なことが起こったときは、かえってたましいをふるいたたせることができるのですが、毎日の生活に不満しか感じられないとき、「たましい」から喜びが消え去って、まるで真綿で締め付けられるように、徐々にたましいが萎えてしまうものです。そんなとき、感動的なドラマや映画を見て、「そうだ、私も頑張ってみよう」と思い直すことがあるでしょう。親しい友だちが訪ねてくれて、楽しい語らいの時を持って、気分が晴れやかになるということもあるでしょう。毎日忙しく過ごしている主婦が、旅行に出て、仕事や家事のことを忘れ、新しいものに触れ、「ああ、生き返った気持ちがする」と感じることもあるでしょう。しかし、そうしたことは、一時的な「リフレッシュメント」で、二、三日のうちには消えてなくなるようなものです。しばらくの間、気を紛らわせるだけで、それが終わると、また砂漠のような生活に戻っていく場合も多いのです。

 けれども、主が私たちのたましいを生き返らせてくださるのは、そのような、表面的、一時的なものではありません。それは羊が牧草のたくさんあるところ、きれいな水が豊かにあるところにいるときのような、安らかで、満ち足りた状態を指しています。詩篇23:5に「私の杯は、あふれています」とあるように、主が私たちに備えてくださる食卓では、ほんのちょっぴりしかない入っていない杯をなめるようにして飲むというのでなく、大きな杯にあふれるほどのものを心ゆくまで飲むことができるのです。そこでは、私たちのたましいの渇きは癒やされ、私たちのたましいは、喜びで満たされるのです。

 このように「たましいを生き返らせる」ことは人間にできるものではありません。それができるのは、人を「生きたたましい」として造り、私たちを生かしてくださる神だけです。イエスは「わたしは、良い牧者です」とおっしゃり、「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」と言われました(ヨハネ10:10-11)。私たちのたましいを生き返らせるもの、それは私たち自身でも、私たちをとりまく環境でも、また、人間関係でもありません。神は、そうしたものを用いてくださいますが、私たちのたましいを生き返らせる命そのものは、神が与え、キリストが差し出してくださる命です。そして、この命は、イエス・キリストを信じるとき私たちのものとなります。イエス・キリストに信頼して歩むとき、私たちのたましいは生き返るのです。

 三、義の道に

 「主は私のたましいを生き返らせ…」という言葉は、「御名のために、私を義の道に導かれます」という部分とつながっています。「たましいを生き返らせ…」というところで使われている「生き返る」という言葉は、神から離れていた人が神に立ち返るときに使われる言葉です。ルカ15章の放蕩息子は実際に死んで生き返ったわけではありませんでしたが、彼が父の家を飛び出して消息が絶えた時、父親にとって、息子は死んだも同然でした。また、息子自身も、神から離れた好き勝手な生活によって、霊的には死んだような状態になっていました。けれども、この息子は、どん底まで落ちたとき、悔い改め、父親のところに帰ってきました。息子を迎え入れた父親は、「そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」(ルカ15:23-24)と言って喜びました。このように、たましいが生き返るとは、神のもとに立ち返ることなのです。神から離れ、そこから迷い出ていた「義の道」に立ち返ることなのです。ですから、きょうの箇所では、「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます」と、たましいが「生き返る」ことと「義の道に導かれる」ことの二つを結びつけているのです。

 人の生き方には、三通りあるように思います。一つは「たくましく生きる」です。動物たちはじつに「たくましく」生きています。どの家のバックヤードでも、我が物顔で出没するリスなどは、じつに「たくましく」生きています。追っ払ってもやってきて、植えたばかりの草花を掘り返します。雪が積もる冬にも、太陽がカンカン照りつける夏でも元気そのものです。

 もう一つは「うまく生きる」という生き方です。動物には人間が持っているような知恵はありませんが、それでも、私たちがおどろくようなしかたで、動物たちは自分たちの住処をつくり、子育てをし、身を守ります。カリフォルニアにいたとき、ハミングバードがパテオルームからすぐ、手が届くようなところに巣を作りました。どこからあんな材料を見つけてくるのだろうと思うほど、さまざまな材料で見事な巣を作り上げていきました。しばらくして、卵を二つ生み、それを暖めていましたが、やがて卵が孵りました。親鳥は、せっせと二匹の雛鳥に餌を与えていましたが、そのうち飛び立って、巣をあとにしました。神はそれぞれの生き物に「生きる力」や「生きる知恵」をお与えになり、彼らは「たくましく」また「うまく」生きています。

 人間も同じです。失敗しても、そこから這い上がって、またやり直す。そんな「たくましさ」を持った人は、最後には成功した人生を手にすることでしょう。また、ずるく、悪賢く生きることはよくありませんが、知恵を働かせ、賢く生きることも、人にとって大切なことです。けれども、人間には、「たくましく」、「うまく」生きるという他に、もうひとつの生き方が求められます。それは動物には無いもので、「より良く生きる」ということです。より正しく生きる、よりきよく生きる、もっと他の人を愛して生きるということは神に立ち返り、神によってたましいを生かされてはじめてできることです。

 聖書に「悪者には心の痛みが多い」(詩篇32:10)とありますが、人は、どんなにたくましく生き、上手に世の中を渡り歩いたとしても、神の前に正しい生き方ができていないときには、平安も喜びもない、どんなにしても満ち足りることのない生涯しか送ることができないのです。けれども、私たちが悔い改めて罪から離れ、神に「立ち返る」とき、神もまた、私たちのたましいを「生き返らせて」くださるのです。

 私たちの立ち返るところ、そして、私たちが生かされるところ、それは私たちの羊飼いイエス・キリストです。「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(ペテロ第一2:23)私たちみなが、この言葉の通りに神に立ち返り、羊飼いイエス・キリストによって、「主は私のたましいは生き返えらせ…義の道に導かれた」という体験を与えられますよう、こころから願います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、私たちの良き牧者イエス・キリストによって、あなたに立ち返る道を備えてくださいました。私たちのたましいを生き返らせ、あなたの道に歩み、人生を「より良く」生きる者としてください。キリストのお名前で祈ります。

5/1/2022