主の家に住む

詩篇23:1-6

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23:1 【ダビデの賛歌】主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

 詩篇23篇は2節づつ。3つに区分することができます。最初の2節は羊飼いである主に養われる満ち足りた様子が描かれ、次の2節は主に導かれる人生の幸いが歌われています。

 ここまでは、主が羊飼い、主を信じ、主に従う者たちが羊にたとえられています。しかし、最後の2節は、主が客人を迎える主人として描かれ、主を信じ、主に従う者たちがその賓客、大切なゲストであると言われています。主は、私たちをどんなふうにその家に迎えてくださるのでしょうか。きょうは、そのことを学びます。

 一、祝宴への招待

 最初に5節ですが、「あなたは私のために食事をととのえ」とあって、主が私たちを祝宴に招いておられることが言われています。この「祝宴」は、神の国や、神の国に迎え入れらる救いの喜びを表しています。イエスの弟子となったレビやザアカイはイエスを招いて祝宴を開きました。けれども、霊的な観点で見るなら、レビやザアカイがイエスを招いたのではなく、イエスがレビやザアカイたち、また、悔い改めて神に立ち返った人々を天の祝宴に招いておられたのです。祝宴の主人はイエスであり、イエスはご自分のところに返ってくる人々を、その身分や立場、過去がどうであったかはまったく問うことなく、大切な客人として迎えてくださるのです。

 「あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます」というのは、大切なお客様を迎えるとき、その人の頭に香油を注いで歓迎したという当時の慣わしに基づいた言葉です。今もそうですが、当時、香油はもっと高価なものでした。それを客人に惜しみなく注いでくださるというのは、主がどんなにか私たちを歓迎してくださっているかを表しているのです。この香油は主の祝福を表します。主は、私たちに地上の祝福だけでなく、天の祝福を惜しみなく注いでくださるのです。

 「私の杯は、あふれています」というのは、主が与えてくださる喜びがどんなに大きいかを表しています。この世が与える喜びは、いうならば、大きな杯の中に落とされたほんのひとしずくにすぎません。すこしは心の渇きを和らげてくれますが、すぐにまた渇いてしまうのです。しかし、主が注いてくださる喜びは、私たちのたましいを満たしてあふれるほどのものです。それは、私たちのたましいに注ぎつづけられて途絶えることがありません。じつに、「主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」(詩篇118:1口語訳)のです。

 しかも、この喜びの祝宴は、「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ」とあるように、「敵の前で」開かれるのです。主が開いてくださる祝宴は、勝利を先取りした祝宴です。私たちの人生には、必ず困難や妨げがあります。がっかりすることや、「ムッ」となること、また「イライラ」することは、数限りなくあります。もし、私たちがそのたびごとに、そうした「敵」に負けていたら、主からいただく喜びを失っているなら、主が悲しまれるでしょう。

 詩篇116篇は苦しみと悲しみの中で歌われました。こう言っています。「死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。」(詩篇116:2)けれども、この人は祈りました。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」(同3節)すると、主はこの人を救ってくださいました。この人は、「まことに、あなたは私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました」と言い(同8節)、「私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう」(同13節)と言って、主を賛美しています。主は、このように、さまざまな困難や課題の中でも、私たちに救いの喜びを与えてくださるのです。

 主は私たちを、この祝宴に招いてくださっています。主は、いつも、私たちを歓迎してくださいます。私たちもその招きに応えましょう。そのとき私たちも「私の杯は、あふれています」と言うことができるようになるのです。

 二、生きる日の限り

 6節は、こう言っています。「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」「いのちの日の限り」というのは、生涯を通してということです。じつに主は、私たちの生涯の初めから終わりまで共にいてくださいます。

 詩篇139篇には「私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに」(詩篇139:15-16)とあります。主は私たちの誕生以前から、母の胎にいたときから、共にいてくださったことが書かれています。

 スイスの精神科医パウル・トゥルニエが書いた『人生の四季』では、20歳までが人生の春、40歳までが人生の夏、その後は人生の秋といったふうに区分されています。トゥルニエによれば60歳からは冬の季節に入ります。確かに、この年齢になると、冬に落葉樹がその葉をすべて落としてしまうように、今までしてきた仕事や活動から徐々に手を引くようになります。若い時には出来たスポーツや趣味などが出来なくなります。友人たちが世を去り、人間関係が変化していきます。冷たい風が木の枝を揺さぶり、枝が氷つくようなこともあるでしょう。年老いてからの試練はとてもつらいものです。しかし、そのような時も、私たちの羊飼いイエス・キリストは私たちを支えてくださいます。イザヤ46:4は、こう言っています。「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」羊飼いが羊を肩にのせて運ぶように、主は、いつでも、私たちを背負って、救い出してくださいます。

 それは、何も私たちが年老いてからとはかぎりません。「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れ」ます(イザヤ40:30)。主は、そんな時も、いや、そんな時こそ私たちを支えてくださるのです。Margaret F. Powers は、“Footsteps”(あしあと)というタイトルのこんな詩を書きました。

ある夜ある人が夢を見た
夢の中で主と共に海辺を歩いていた
そこには、彼の人生の光景が写し出されていた
どの人生の光景にも砂の上には二組の足跡があった
彼の足跡と主の足跡
最後の光景が写しだされ
その足跡を見ると
あるところはだだ一組だけの足跡しかなかった
それは人生の最も暗く悲しい時だった
彼は主に尋ねた
「私があなたに従い始めた時
あなたは私と共に歩んでくださると言ったではありませんか
でも私が最も困難な時には一組の足跡しかありません
主よあなたを最も必要としていた時
なぜあなたは私から去っていかれたのですか」
すると主は答えられた
「わが子よ いとしい子よ
私がどうしておまえを忘れることがあろうか
あなたの試練の時苦しみの日に
一組の足跡しか見なかったのは
私があなたを背負って歩いていたからだったのだ」

この詩のように、主は私たちの人生の初めから終わりまで、喜びの日も涙の夜も、順境の日々も逆境の日々も、いつも共にいてくださり、私たちの生涯を支え、守り、満たしてくださるのです。

 三、永遠までも

 では、地上の生涯が終わるとき、私たちはどうなるのでしょうか。6節は「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう」と言っています。この「あとを追う」という言葉は、犬などがどんなに追い払ってもしつこく人のあとをつけ回すようなときに使う言葉です。普通は人が神の「いつくしみと恵み」を追い求めるものです。ところが、ここでは神の「いつくしみと恵み」のほうが人を追い求めると言われています。神の「いつくしみと恵み」を追い払うような人はいないでしょうが、もし、それを追い払おうとしても、そこから逃げ出そうとしても、それらは、私たちを追いかけ、私たちから離れないというのです。こんな恵みは、聖書以外、どこにも教えられていません。こんな恵みをくださるのはただ主おひとりです。

 しかも、ここでの「恵み」はヘブライ語で「ヘセド」という言葉が使われています。これは「契約の愛」とも呼ばれ、神が堅い約束、契約をもって私たちに誓ってくださった恵みや愛を指します。英語では “steadfast love” と訳されます。人間の愛のように時間が経てば冷めていき、場所が離れればうすらいでいき、その日そのときの気分で変わるようなものではありません。どんなことがあっても変わることのない永遠の愛を指します。ある牧師の説教に「神はあなたに夢中です」というタイトルがつけられていました。神が私たちを慕い求めるほどに愛してくださり、今も愛しておられ、永遠までも愛してくださるというのは、ほんとうのことです。エレミヤ31:3で、主は「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた」と言っておられます。

 主の愛は永遠の愛です。ですから、それが私たちの80年や90年の地上の生涯だけで終わるはずがありません。私たちが今体験している神のいつくしみと恵みは、私たちの地上の生涯を超えて続くのです。いや、天では地上のどんな制限も受けませんから、天ではその恵みを最大限に味わうことができるのです。

 詩篇23篇は「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」という言葉で終っています。「主の家」とは旧約では神殿を指す言葉ですが、ここでは天の神殿のことです。今、私たちは、地上で、礼拝という「天の窓」を通して、天を覗きみていますが、やがての時、私たちは天に迎え入れられ、そのすべてを見ることになります。天の神殿で、白い衣を来て、しゅろの葉を持って、御座におられる主を礼拝するのです。

 また、「主の家」には、「神の民」、「神の家族」という意味もあります。私たちが世を去って行くところは、見知らぬところではありません。そこは私たちの信じるイエスがおられるところ、主を信じる人々のいるところ、私たちの天の家族がいるところです。そこは私たちのふるさとです。私たちはみな、イエスを信じて天で生まれた者たちです。イエスは天の住まいを「マンション」と呼びましたが、私たちはみな、天では同じ「主の家」という大マンションの住人になるのです。同じ故郷を持ち、やがて共に住む者たちが今、ここで出会い、共に天への旅を励まし合う。それがキリスト者の交わりです。

 「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」生きる日々も、世を去るときも、世を去ってからも、主が共にいてくださる。この恵みのうちに、日々を歩むことができる。この幸いを心から感謝します。

 (祈り)

 私たちの主なる神さま、羊飼いである主イエスが私たちの人生の四季に共にいてくださることを感謝します。だれしも冬の季節を迎えるようになりますが、冬の次は春です。私たちは天で永遠の春を喜び楽しみます。主よ、私たちにこの希望を豊かに与え、主イエスが十字架と復活によって切り開いてくださった天への道を歩み続ける私たちとしてください。そして、この天への旅に、さらに多くの人々を加えてください。主イエスのお名前で祈ります。

3/6/2022