23:1 【ダビデの賛歌】主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
詩篇23篇ほど愛されている詩篇はないでしょう。6節しかない短い詩篇です。ヘブライ語ではわずか50の単語、英語でも113語、日本語では247文字で書き表すことができます。最初の1-2節を暗記している人は多いと思いますが、6節全部を暗記して、何も見なくても唱えることができるようになりたいと思います。
きょうは1節だけをとりあげます。他の部分は、数回に分けて別の機会にお話しする予定でいます。
一、羊飼いである主
ヘブライ語では神は「エル」あるいは「エロヒーム」で表されますが、それには「力ある者」という意味があって、神の全能が強調されています。この「エル」と組み合わさって、「エル・シャダイ」(全能の神、創世記17:1)、「エル・ギブホー」(力ある神、イザヤ9:6)、「エル・エリオン」(高くあげられた神、申命記26:19)などと呼ばれます。「エロヒーム」は、創世記1章の世界の創造のときに使われており、これらは神が、世界と人間の造り主であり、それらをはるかに超えたお方であることを表しています。
聖書では、「エル」の他に学者たちが「ヤーウェ」と呼ぶ、神の固有のお名前があります。ユダヤの人たちは、神のお名前を直接口にするのは畏れおおいと考え、「アドナイ」(わが主)と読み替えました。このお名前が出てくるところは、一般の「主」と区別するために、英語では全部大文字の “LORD” で表し、日本語では新改訳が太文字の「主」で表しています。「エル」という神のお名前が、神が人間を超えた力あるお方であることを表わすのに比べ、「アドナイ」は、神が人間との関わりを持たれるお方であることを表します。「アドナイ」はもともとは、「有ってある者」という意味なのですが、それは主が人のためにいてくださる、人と共にいてくださるということを言っています。
「アドナイ」と他の言葉が組み合わさって、「アドナイ・エレ」(主が備えてくださる、創世記22:14)、「アドナイ・ラファ」(あなたを癒やす、出エジプト15:26)、「アドナイ・ムカデシュ」(聖別する主、レビ20:8)、「アドナイ・シャローム」(主は平安、士師6:24)などのお名前が使われています。「アドナイ・エロヒム」(神である主、創世記2:4)、「アドナイ・サボアス」(万軍の主、イザヤ1:24)もよく使われますが、人と深く関わってくださる神が天と地のすべてを造り、治めておられるお方であることを言っています。
神のお名前は、それぞれ、神のご性質を表しています。数多くの神の御名を知ることによって、神がどのようなお方なのかを知り、神を賛美することができます。とくに、「アドナイ」と組み合わさっている神のお名前は、神が、私たちにとってどのようなお方なのかを教えてくれ、それによって、より神をあがめ、神に感謝することができるようになります。この年も、神のお名前をさらに知り、学びたいと思いますが、きょう、新しく覚えたい神のお名前があります。それが、詩篇23:1の「アドナイ・ローイ」です。
「主は私の羊飼い」は、ヘブライ語では「アドナイ・ロヒ」(羊飼いである主)です。これは、それ自体が神のお名前です。この部分は「主は私の羊飼いです」というステートメントであると共に、神に向かって、「羊飼いである主よ」と呼びかけている言葉ともとることができます。いずれにせよ、神が「羊飼い」と呼ばれています。これにはどういう意味があるのでしょうか。
昨年、クリスマスのメッセージで、御使いが羊飼いたちに現れ、救い主誕生の知らせを告げたことを話しました。そのとき、私は、当時、「羊飼い」が「賎しい職業」とされていたと言いました。それは、ダビデの時代でも同じでした。その家の羊を飼うのは、その家の最年少の子どもの仕事だったのです。ダビデは、エッサイの8番目の子で、羊を飼う仕事は、兄たちによってダビデに押し付けられていました。ダビデは詩篇23篇で、ダビデが神を「羊飼い」と呼んだのは、そのときの体験から来ていると思われます。
羊は自分の身を守るものを何も持たない弱い動物です。迷いやすく、決して賢くはありません。羊飼いなしには生きていけないのです。ですから、羊飼いは、羊の一匹、一匹に目を留め、見守り、羊と一緒に野宿するなど、いつも羊といっしょにいなければ、その勤めを果たすことができません。また、羊を狙う野獣と戦わなければなりません。ダビデは、神と人との関係もまた同じだということを、知りました。人は、神なしには、生きてはいけないのです。そして、いと高い神が、そんな人間のために、身を低くして、羊飼いのようになって、人と共におられ、人を養い、守り、導いてくださることを知って、神を「アドナイ・ローイ」(羊飼いなる主)と呼んだのです。
二、羊飼いであるキリスト
旧約で「アドナイ」と記されているところは、新約では、ほとんどがイエス・キリストを指すものとして引用されています。「アドナイ」、私たちのただ中に、私たちと共にいてくださる神、それは、まさに、人となられた子なる神イエス・キリストです。イエスはご自分を「アドナイ」と呼んでおられます(ヨハネ4:26、8:58)。そして、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」(ヨハネ10:11)。イエスははっきりと、「わたしこそ、〝アドナイ・ローイ〟である、羊飼いなるアドナイである」と言われたのです。
しかも、「良い牧者である」と言われました。これは、旧約で預言されていたことの成就を告げています。旧約の時代、イスラエルの指導者たちは「牧者」と呼ばれましたが、決して「良い牧者」ではありませんでした。神のお心にならい、へりくだって人々を導かなければならないのに、自分たちの利益になる政治をするだけで、羊である民衆を食い物にしていたのです。神は、この「悪い牧者」たちにこう言われました。「わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている。それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。…わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。牧者たちは二度と自分自身を養えなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らのえじきにさせない。」(エゼキエル34:8-10)そして、こう約束されました。「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしのべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。」(同34:23)
イエス・キリストは、神が約束された「良い牧者」です。羊飼いがへりくだった仕事であるように、良い牧者であるイエスも、神の御子であるのに、へりくだって人に仕えました。イエスは、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」(マルコ10:45)と言われた通り、ほんとうに羊のためにいのちを捨てた「良い牧者」、「アドナイ・ローイ」(羊飼いなる主)です。イエス・キリストを信じる者は、この、まことの牧者のもとに、その牧場で守られ、養われ、導かれるのです。このお方以上の良い羊飼いは世にはありません。その牧場以上に安全な場所はありません。ですから私たちは、詩篇23篇を読むときに、「羊飼いであるイエスさま。私は、乏しいことがありません」と、イエス・キリストへの信仰を言い表し、イエス・キリストをほめたたえるのです。
三、羊飼いによる満足
「私は、乏しいことがありません。」これは、イエス・キリストを信じる信仰が与えてくれる大きな恵みです。聖書は、「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」(テモテ第一6:6)と教えています。毎日の生活で、不満ばかり持っている人と、小さなことでも感謝している人とではどちらが幸いか、言うまでもないことです。
しかし、人の心は何によって満たされるのでしょうか。もし「モノ」によって満たそうとしたら、誰も願ったものがすべて手に入るわけではありませんから、いつも不満を感じるようになるでしょう。たとえ、欲しいものを手に入れても、人の心は「モノ」では満たされませんから、満たされない心を満たそうとして「モノ」を求めるようになり、そして失望を味わうという悪循環に陥るのです。
また、人の関心や注目を求めて、それによって心を満たそうとしても、いつも他の人がふりむいてくれるとは限りません。 多くの人は、自分に関心をもってもらいたくて、人をコントロールしようとしますが、それによって、かえって人からコントロールされるようになります。心の不満度を「くれない度」と言います。「子どもが言うとおりにしてくれない」、「こんなに大変なのに誰も私を助けてくれない」などと、「…してくれない」という言葉が多くなるほど、「くれない度」が高くなり、心が「紅(くれない)」に、真っ赤に、染まっていくというのです。私たちは、何が私たちをほんとうに満たしてくれるのかを知る必要があります。
詩篇23篇はどう言っているでしょうか。羊には牧草が、水が必要です。しかし、詩篇は牧草や水が羊を満たしているとは言っていません。「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」(2節)と言って、牧草を与え、水を与えてくださるのは主である、私たちを満たしてくださるのは「羊飼いである主」なのだと言っています。「主は私の羊飼い」だから「私は、乏しいことがない」と言っているのです。
4節や5節で「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても…」(4節)、「私の敵の前で…」(5節)とあるように、私たちの人生の日々は、いつも「緑の牧場」や「いこいの水のほとり」にいるようなものとは限りません。難しい問題に直面して途方にくれたり、不安に襲われたり、思わぬ苦しみに遇ったりすることもあります。この詩篇を歌ったダビデの生涯は、若い日にはサウル王に命をつけ狙われ、壮年期には外国の侵略に手を焼き、晩年になってからは息子からクーデターを起こされ、まさに「死の陰の谷」を歩き、「敵」に取り囲まれるような日々でした。しかし、ダビデは「私は、乏しいことがありません」と言いました。ダビデは自分を取り囲むどんな状況の中にも、「主がともにおられる」こと認め、この主が私を守り、満たしてくださると信じたからでした。
さきほど、私は、「私たちは、何が私たちをほんとうに満たしてくれるのかを知る必要があります」と言いましたが、「何」ではなく「誰」と言ったほうがよいでしょう。「誰が、私たちを満たしてくださるのか」、それを知ってください。使徒パウロは、「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。…あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」(ピリピ4:11-12)と言いました。そして、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできる」(同13節)と、「どんな境遇にあても満ち足りる」秘訣を明かしています。それは、パウロが「私を強くしてくださる方」と呼んだイエス・キリストご自身です。パウロは、「自分ではできない。けれども、私と共におられるイエス・キリストが、それをさせてくださる。私を満たしてくださる」と言っているのです。どんな境遇の中でも、「私は、乏しいことがありません」と言って、感謝しながら歩むことができる秘訣、それはイエス・キリストご自身です。イエス・キリストへの信仰、信頼です。イエス・キリストを「アドナイ・ローイ」(羊飼いなる主)として人生にお迎えすることが、満たされた人生を歩む秘訣です。
「主は私の羊飼い」、だから「私は、乏しいことがない」のです。イエス・キリストが、私を満たしてくださる。この一年の歩みを、あらゆる良いもので満たしてくださることを信じ、願い、詩篇23:1を、心を込めて告白しましょう。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」
(祈り)
私たちの主であり、父である神さま、私たちの羊飼いとして、イエス・キリストを遣わしてくださったこと、イエスが、迷い、滅びるばかりになっていた私たちを、あなたの牧場に返してくださったことを感謝します。イエスに従う道には山もあり、谷もありますが、良き牧者である主が共におられる時、不安や恐れは、賛美と感謝に変わります。この年も、私たちは主により頼みます。私たちに、主にあて、満たされた信仰の歩みを与えてください。羊飼いである主、イエス・キリストのお名前で祈ります。
1/2/2022