22:9 まことに あなたは私を母の胎から取り出した方。/母の乳房に拠り頼ませた方。
22:10 生まれる前から 私はあなたにゆだねられました。/母の胎内にいたときから あなたは私の神です。
1647年、英国で「ウェストミンスター小教理問答」が作られました。107の短い問答から成り立っていますが、その4つ目にこうあります。「問 神とは、どんなかたですか。答 神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです。」この問答については、短い文章にまとめるのにとても時間がかかったそうです。神がどんなお方か、それはどんなに言葉を尽くしても語りきれないのに、たった一文章で表そうとしたのですから。それで、ウェストミンスター・アッセンブリーに集まった人々は、しばらく、議論をやめ、祈りのときを持つことになりました。その祈りののち、生まれたのが、この「答」だったと伝えられています。
一、無限の神
「小教理問答」問4の答は、まず、「神は霊である」と言い、それから「存在、知恵、力、聖、義、善、真実」という7つのご性質をあげています。この7つは、神が、人を創造されたとき「神のかたち」として人間に分け与えてくださったものです。人は神の息吹によって「生きたもの」となり、存在(being)を与えられました。人間は、他の動物にはない「知恵」を持ち、それによって他を支配する「力」を与えられました。さらに神は「聖さ(holiness)」、「義しさ」、「善」、「真実」も人間に分け与えてくださいました。それによって、人は神とまじわることができるようにされたのです。この、神と人とに共通した性質、これは神学の言葉で「流通属性」(communicable attributes)と言います。
これに対して、「無限」、「永遠」、「不変」は、神だけが持っておられるもので、これらは「非流通属性」(uncommunicable attributes)と呼ばれます。「流通属性」は神と人を結びつけるのですが、「無限」、「永遠」、「不変」などの非流通属性は、神と人とを区別するものとなっています。
「無限」というのは、神にはどんな制限もないことを言っています。神は「全能」ですが、それは、神の力には制限がないことを言っています。子どもは、朝から晩まで活発に動き回ります。よくそんなにエネルギーがあるかと思うほどです。けれども、そのエネルギーも無限ではありません。ベッドに就くころには、疲れ果ててぐっすり眠りこんでしまいます。しかし、神は違います。神の力には限りがなく、聖書は、神は、疲れることも、まどろむこともないと言っています。
また、神は「全知」です。その道の専門家といわれる人は、じつに豊富な知識を持っています。また、古代に巨大な建造物を寸分の狂いもなく組み立てた知恵や、コンピュータもない時代に、精密な機械を作り出した人々の技術には、まったく敬服します。しかし、それも神の目には、小さい子どもが積み木で遊んでいるようなものに見えるでしょう。神の知恵・知識に制限はありません。そのお力も限りがありません。まさに、神は、「全知全能」の神です。聖書は、このことを次のように言っています。「あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。」(イザヤ40:28)
人間の存在には制限があります。ある宇宙飛行士が宇宙服を来て宇宙船の外に出、その写真を SNS に投稿しました。そしてその写真にこうコメントをつけました。「私は天まで来たが神はいなかった。」すると、つかさつかず別の人がこうコメントしました。「ヘルメットを取ってからそう言いなさい。」人間は宇宙にまで行くことができるようになりましたが、重力以外は地球環境と同じように調整された宇宙船の中や、宇宙服に身を包まれてしか生存できないのです。人が神から逃れようとして天空のかなたに飛んで行っても、神はそこにおられます。海中深く潜っても、神から逃れることはできません。聖書はこう言っています。「私はどこへ行けるでしょう。/あなたの御霊から離れて。/どこへ逃れられるでしょう。/あなたの御前を離れて。たとえ 私が天に上っても/そこにあなたはおられ/私がよみに床を設けても/そこにあなたはおられます。私が暁の翼を駆って/海の果てに住んでも/そこでも あなたの御手が私を導き/あなたの右の手が私を捕らえます。」(詩篇139:7-10)人は限られた環境でしか生きていけません。しかし、神は、どこにでもおられます。神の存在には制限がありません。神は環境に制限されないどころか、空間にも制限されません。空間を造られたのは神だからです。神が空間の中に存在されるのではなく、神のうちに空間が存在するからです。
今でもそうかもしれませんが、かつて、日本では、クリスチャンに対して、「日本にはたくさんの神々があるのに、なぜ、アメリカの神など信じるのか」と言われたことがありました。日本の人々は、太陽の神、山の神、海の神など、神々がさまざまな領域にいて、それぞれ自分の領域をつかさどっていると信じています。言い換えれば、それぞれの神は、自分の領域でしか存在できず、そこでしか力を発揮できないということです。しかし、そうした制限を持ったものは神ではありません。神は、「アメリカの神」や「白人の神」ではありません。かつては、ご自身を「イスラエルの神」として現されましたが、そのときでも、神は、すべての人の神としてご自分を示し、ただお一人のまことの神として、イスラエル以外の人々にも恐れられていました。お一人の神が、一人の人からすべての民族を造り出してくださいました。ですから、神は、どれかの民族の神、どこかの国の神ではなく、すべての人の神なのです。パウロはこう言っています。「確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。」(使徒17:27-28)神は民族にも、国境にも制限されない、すべての人のただ一人の神です。
二、永遠の神
「無限」は、空間や領域において制限がないことを言いますが、「永遠」や「不変」は、神が、時間に制約されないことを言っています。WHO がようやく COVID-19 のパンデミック宣言を取り下げましたが、この3年3ヶ月、コロナ・ウィルスは多くの人命を奪い、健康を損ねただけでなく、世界の政治に混乱をもたらし、経済に打撃を与え、平和を壊しました。そして、私たちはみな、その影響を受けました。もういちどコロナ以前に戻りたいと思っても、私たちは過去を変えることはできません。未来を決定することもできません。私たちがある程度マネージできるのは、「過去」と「未来」の間にある「現在」というほんの一瞬だけなのです。
時は、人を変え、世界を変えます。若い人は老いていき、町の様子も変わります。しかし、神は時に縛られることはありません。時間が経つにつれて変化なさることありません。何万年前も、何万年あとも、神は同じ神です。時もまた神が造られたもので、神は時を超えて存在しておられる永遠の神です。
ですから神は、私たちを生まれる前から知っておられます。詩篇139:13-16はこう言っています。「あなたこそ 私の内臓を造り/母の胎の内で私を組み立てられた方です。私は感謝します。/あなたは私に奇しいことをなさって/恐ろしいほどです。/私のたましいは それをよく知っています。私が隠れた所で造られ/地の深い所で織り上げられたとき/私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ/あなたの書物にすべてが記されました。/私のために作られた日々が/しかも その一日もないうちに。」神は、私たちの人生のすべての時を把握しておられるのです。詩篇31:15に「私の時は御手の中にあります」とある通りです。
私たちは限りある世界、移り変わっていく時の流れの中に生きています。ですから、神が全知、全能、無限のお方であり、永遠、不変であることが、分かるようで、分からないのです。しかし、現実の世界に無限や不変を見ることがなくても、論理の世界には「無限」や「不変」があります。世の中には完全なものなど一つもないのに数学の世界には完全な直線や完全な円、正三角形などが存在します。こうしたものは、みな無限で永遠で、完全な神から与えられた概念だと思います。科学者や技術者はそうした概念や論理を使って日常に役立つものを作り出しているのです。私たちの信仰もそれと似ています。聖書が教える信仰の論理、つまり「教理」に基づいて、神を確信し、無限で、永遠、不変の神に信頼するなら、移り変わる世界にあっても、私たちは永遠につながる確かな歩みができるようになるのです。
三、私の神
世には誰一人、母親によらないで生まれ、育った人はいません。自分が子どもを持つようになって、父親であれ、母親であれ、親というものは、子どものために犠牲を払うものだということがよく分かり、「母」の愛に感謝することができるようになりました。母の愛に感謝し、それに倣うことは、誰にも大切なことだと思います。
けれども、神を信じる者は、そのような母を与えてくださった神の愛に目を向けなければならないと思います。すべての人の母はエバですが、エバを造ってくださったのは神です。詩篇139:13に「あなたこそ 私の内臓を造り/母の胎の内で私を組み立てられた方です」とあるように、私たちを母のからだの中で育ててくださったのは神です。詩篇22:9に「まことに あなたは私を母の胎から取り出した方。/母の乳房に拠り頼ませた方」とあり、出産とその後の発育を守ってくださったのは神であると言われています。神は、すべてのものを造り、すべてを治めておられるので「父なる神」と呼ばれていますが、こうした箇所を読むと、神が、母親のような愛をもって、私たちをいつくしみ、育んでおられることが分かります。そうした神の愛を知るとき、私たちの心に、おのずと、神への信頼が生まれます。詩篇22:10は、そうした神への信頼を「生まれる前から 私はあなたにゆだねられました。/母の胎内にいたときから あなたは私の神です」という言葉で言い表しています。
戦争のとき、若い兵士たちが傷を受け、亡くなる前には、「お母さん」と母親を呼ぶのだそうです。それはどこの国の若者でも同じだそうです。人が苦しみのときに、おのずと、自分を愛してくれた者の名を呼ぶように、詩篇の作者は、苦しみのまっただ中で、自分が生まれたときから、いや、時を遡って、生まれる前から、変わることなくいつくしみ、守り、支えてくださった神の御名を呼んでいるのです。
詩篇22:1の「わが神 わが神/どうして私をお見捨てになったのですか」は、イエスが十字架の上で祈られた言葉ですが、そこには、たんに「神よ」ではなく、「わが神」、「私の神」という呼びかけがあります。神を「私の神」と呼んで、神にしがみついていく信仰がそこにあります。神は、人間をはるかに超えた「無限」、「永遠」のお方です。しかし、それは、神が私たちから遠く離れておられることを意味しません。キリストは永遠の神の御子であられたのに、私たちと同じように母から生まれた者となってくださいました。永遠の神の御子が時間と空間の中に入ってこられたのです。それは、イエス・キリストが「私の神」となってくださるためでした。私たちも、この主を「私の神」と呼んで、信頼しましょう。私たちの人生の日々を委ねましょう。そのとき、私たちも苦しみを乗り越えて、人生を力強く歩むことができるようになるのです。
(祈り)
永遠の主なる神さま、あなたは、御子イエスによって、私たちの世界に入り、私たちの人生のはじめから終わりまで、いいえ、永遠から永遠まで、私たちとともにいてくださることを感謝します。きょう、母の愛を覚えるとともに、私たちに母を与えてくださった、あなたの愛を覚えます。「あなたは私の神です」と信じ、告白します。「わが神」と、あなたを呼び求めます。私たちの祈りに聞き、私たちを導いてください。主イエスのお名前で祈ります。
5/14/2023