22:1 わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
22:2 わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません。
22:3 しかしイスラエルのさんびの上に座しておられる/あなたは聖なるおかたです。
22:4 われらの先祖たちはあなたに信頼しました。彼らが信頼したので、あなたは彼らを助けられました。
22:5 彼らはあなたに呼ばわって救われ、あなたに信頼して恥をうけなかったのです。
一、弟子訓練
わたしはこの教会に招かれるとき、招聘委員の方から「弟子訓練をよろしく」と言われました。そして、そのことをずっと心にかけてきました。「弟子訓練」は、そのためのクラスがあって、それに出て学べば、それで終わるものではありません。それは、実際の信仰生活の中で学ぶものです。イエスの弟子たちは、いつもイエスといっしょにいて、イエスのなさること、語ることを身近で見聞きして、そこから学びました。パウロの弟子であったテモテも、パウロといっしょに働き、パウロから学び、パウロのこころざしを理解し、それを引き継ぎました。
知識は必要ですが、知識さえあれば伝道できるものではありません。知識に加えて「力と権威」が必要です。イエスは弟子たちを派遣するとき、「悪霊を制し、病気をいやす力と権威」を授けました(ルカ9:1)。また、宣教の大命令を与えるとき、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた」(マタイ28:18)と言われ、宣教の命令を果たすことができるのは、このイエスの権威によってであることを示されました。宣教の大命令では「すべての国民を弟子とせよ」と命じられていますが、キリストの弟子を生み出すことは人間の力でできるものではありません。それで、「上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)と、弟子たちに、伝道の力である聖霊を約束されたのです。
使徒3章と4章に、ペテロとヨハネが神殿で教えていたとき捕まえられ、ユダヤの指導者から尋問を受けたことが書かれています。ユダヤの指導者たちが「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」と問い詰めたとき、ペテロは、答えました。「あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。」(使徒4:10)なんと大胆な答えでしょう。ユダヤの指導者たちは、「ふたりが無学な、ただの人たち」であるのに、こうも大胆に語ることができたのを不思議に思いました。しかし、「彼らがイエスと共にいた」ことに思いあたったのです(使徒4:13)。「イエスと共にいた。」ここに「弟子訓練」の秘密があります。イエスと共にいて、イエスに学び、イエスから権威を受けたこと、それが弟子たちの大胆さの秘密だったのです。
それで、こんにちでは、「弟子訓練」といっても、単なる「ハウツー」ではなく、霊的な訓練の大切さが見直され、健全な成長をとげている教会は、どこでも、メンバーの霊的訓練に力を入れています。ダラス神学校には“Spiritual Formation”というコースがあり、どうしたら、わたしたちも「イエスとともにいた者」となることができるのか、主イエスの権威と聖霊の力がわたしたちの生活と証しにどう働くのかを学びます。それは、すべての学生がとらなければいけない必須コースとなっていると聞いています。
わたしたちも、そうした霊的訓練の幾分かでも受けたいと願い、ダラス神学校の校長であったチャック・スゥインドール先生があげている「八つの霊的訓練」からはじめることにしました。その八つは、「神との親密さを増すこと」(intimacy)、「シンプルな生活をすること」(simplicity)、「沈黙とひとりになること」(silence and solitude)、「明け渡すこと」(surrender)、「祈ること」(prayer)、「謙虚になること」(humility)、「自分を制すること」(self-control)、「犠牲をいとわないこと」(sacrifice)です。霊的訓練の分野での指導者のひとり、リチャード・フォスターはこの他に、「断食」(fasting)、「学び」(study)、「奉仕」(service)、「告白」(confession)、「礼拝」(worship)、「導き」(guidance)、「祝典」(celebration)などを挙げています。
二、祈りの訓練
さて、今年の礼拝では、スゥインドール先生が挙げた八つの「訓練」に従ってきました。きょうは「祈りの訓練」についてとりあげます。
「祈りの訓練」と聞くと、「祈りは心からおのずと湧き出るものなのだから、学ぶことも訓練を受けることもいらないのでは?」と考える人も多いことでしょう。しかし、祈りは「おのずと湧き出るもの」なのでしょうか。それは「学ぶ」必要のないものなのでしょうか。いいえ、そうではありません。
祈りは神との対話です。もう少し厳密に言えば、神への応答です。神がまず、わたしたちに語りかけてくださり、それからわたしたちが答えるのです。ですから、祈りは、神の言葉に聞くことによって生まれ、また、育つのです。旧約の詩篇は、人から神への祈りの言葉であるのに、「神の言葉」として聖書に遺されています。なぜでしょう。それは、詩篇作者の祈りの言葉が、神の言葉への応答であり、わたしたちは人々の祈りの言葉の中に神から人への語りかけを聞くことができるからなのです。
また、「主の祈り」は、弟子たちの「わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ11:1)とのリクエストにこたえて与えられたものです。祈りは、教えてもらうことができるのです。いや、教えてもらわなければならないものです。どんなによく祈ることができたとしても、さらに、みこころにかなう祈りをしたい、こころからの祈りをささげたいと願うものです。「祈りを教えてください」との願いは、真実なキリスト者に共通した願いです。主は、何事においても、「主よ、教えてください」と願い求めることをよろこんでくださり、それに豊かにこたえてくださいます。
祈りは、実際に祈ることによってしか学ぶことができません。「祈りのリトリート」などで、ひとりで祈ること、グループで祈ること、そして全体で祈る訓練を受けましょう。それを個人やグループの祈りに生かしましょう。祈るために集まりましょう。どこででも集まったら祈りましょう。そうするなら、祈りの力がどんなに大きなものかを身をもって体験でき、祈ることが大きな喜びとなるでしょう。
三、ほんとうの祈り
「祈りの訓練」ということで、きょう選んだのは詩篇22篇の祈りです。これは、主イエスが十字架の上で祈った祈りで、「祈りの訓練」と、どう関係があるのだろうと、思った人も多いと思います。また、詩篇22篇は、芥川龍之介が小説『おしの』の中で、しのに「臆病者の恨み、つらみのこもった言葉」と言わせたところで、誤解されやすい箇所です。そんな箇所ですが、あえて、ここをとりあげたのは、ここに、ほんとうの「祈り」の特徴を見ることができるからです。
第一に、ほんとうの祈りは、心からの祈りです。ロシアの民話だったと思いますが、こんな話を読んだことがあります。ある村に老女がいました。彼女は、朝に昼に、夜に、それはよく祈る人でした。そして、心の中で、「わたしはこんなに祈っているから、きっと神さまもお喜びだろう」と思っていました。ある夜、彼女が祈っていると、ゴトゴトと物音がしました。祈りを中断してふと目をあげると、そこに泥棒がいたのです。彼女はびっくりして、大きな声で「神さま、助けてください!」と叫びました。その声があまりに大きかったので、泥棒はびっくりして逃げ出し、何もとられないで済みました。彼女が落ち着きを取り戻すと、神は彼女に語りかけました。「あなたは、きょう、はじめて、本当の祈りをしましたね。」それまでの彼女の祈りは、ただ言葉を繰り返すだけのもので、切実なものではなかったのです。
わたしたちの祈りも、健康が守られ、日々の生活が支えられていると、いつしか、心のこもらないものや決まり文句になってしまうことがあります。食前の感謝や、集会の感謝がたんなる食事の合図や集会の開始と終了の儀式のひとつに終わってしまうこともあるのです。しかし、苦しみにあったときは違います。自分で何もすることができなくなったとき、わたしたちの祈りは、本気になるのです。苦しみが去って、平穏無事なときも、苦しみにあったときと同じように、自分の罪深さや足らなさを覚えていましょう。そのような者にも注がれている神の恵みを深く思って、心からの感謝をささげていきたいと思います。
第二に、ほんとうの祈りは神を見上げる祈りです。自分の無力や苦しみだけを見つめて、くどくどと愚痴をこぼすだけのものであってはいけません。3節には「しかしイスラエルのさんびの上に座しておられるあなたは聖なるおかたです」とあって、詩人は、天にある神の御座を見上げています。また、神の恵みをふりかえって、こう言っています。「われらの先祖たちはあなたに信頼しました。彼らが信頼したので、あなたは彼らを助けられました。彼らはあなたに呼ばわって救われ、あなたに信頼して恥をうけなかったのです。」(4-5節)詩人は、決して、神のきよさや恵みを忘れませんでした。この祈りは、芥川の小説のしのが言ったように「かごとがましい」(恨みごとを言う)ものではありません。苦しみのどん底からでも、神の聖なることと、恵み深いことを確信して祈っている、神への信頼の祈りなのです。
第三に、ほんとうの祈りは、あきらめない祈りです。10節で詩人は「母の胎を出てからこのかた、あなたはわたしの神でいらせられました」と言っています。神を「わたしの神」と呼んでいます。これは、1節の「わが神」と同じ言葉、「エリ」です。「エリ、エリ、…」と聞くと、イエスが十字架の上からそう叫ばれたので、この言葉を苦しみの中からのうめきの言葉として受け取ってしまいがちです。しかし、実際は、「わが神」というのは、神を「わたしの」神と呼ぶ、神への信頼の言葉なのです。イエスは、十字架の、あの極限の苦しみの中でも、父なる神に信頼を寄せて祈られたのです。
わたしたちの祈りを支えるのは、神が「わたしの神」となってくださっているという確信です。わたしたちが神を選んで「わたしの神」としたのではなく、神がわたしを選んで「わたしの神」となってくださったという事実です。ですから、詩人は、苦しみのどん底でも、「わが神」と呼ぶことができたのです。祈っても聞かれないと思える時、神が見捨てられたように見える時、そのような時でも、なお、「しかし主よ、遠く離れないでください。わが力よ、速く来てわたしをお助けください」(19節)と祈り続けたのです。
父なる神は、あの十字架のとき、イエスをほんとうに見捨てられました。それは、わたしたちが決して見捨てられることのないためです。暗黒が十字架を包みました。しかし、イエスはそれでも、父なる神への祈りをやめませんでした。失敗したらあきらめ、行き詰まったら止める。それはほんとうの祈りではありません。ほんとうの祈りは失敗から始まります。行き詰まりからこそ、声を大きくして、神に向かって叫び求めるのです。
詩篇22篇の祈りは、22節から、賛美と感謝の祈りへと変わります。「わたしはあなたのみ名を兄弟たちに告げ、会衆の中であなたをほめたたえるでしょう。主を恐れる者よ、主をほめたたえよ。ヤコブのもろもろのすえよ、主をあがめよ。イスラエルのもろもろのすえよ、主をおじおそれよ。」(22-23節)この賛美はどこから出てきたのでしょう。24節にこうあります。「主が苦しむ者の苦しみをかろんじ、いとわれず、またこれにみ顔を隠すことなく、その叫ぶときに聞かれたからである。」主は聞いてくださるのです。その顔を向けてくださるのです。ですから、心から、聖なる神を見上げ、神を「わが神」と呼んで祈り続けましょう。そのようにして「祈りの訓練」を受け、「祈り」を学びましょう。
(祈り)
父なる神さま、あなたは、イエス・キリストによって、信じる者の神となり、父となってくださいました。あなたを「わが神」と呼び、「われらの父よ」と呼ぶことができる幸いを感謝します。どうぞ、わたしたちが、この幸いに込められた、あなたの大きな恵みを、しっかりと理解し、どんなときでも祈り続けることができるよう、導いてください。主よ、わたしたちに祈りを教えてください。主イエスの御名で祈ります。
9/9/2018