1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
1:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
1:4 悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。
1:5 それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。
1:6 まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。
旧約聖書の詩篇は、祈りと賛美の書です。旧約時代や初代教会の時代には、人々は詩篇の言葉で祈り、詩篇の言葉で賛美をしていました。現代でも「交読文」と言って詩篇の各節を、司会者と会衆とで交互に朗読したり、「詩篇歌」と言って、詩篇をその言葉のまま、メロディをつけて歌ったりします。詩篇の言葉からとられた賛美は、「飼い主わが主よ」、「谷川の流れを慕う」、「わたしは高い山を」など数多くあります。詩篇第1篇に基づいた賛美に「主の教えを喜びとし」という軽快な歌があります。
詩篇はじつに豊かな内容を持っており、詩篇に親しむことによって、もっと神を知ることができ、神に信頼することを学ぶことができます。個人の祈りのときも、詩篇の言葉で賛美し、詩篇の言葉で祈ってみると良いと思います。どう祈ったら良いか分からないときは、詩篇を開いてみてください。きっと、心にある祈りを表現してくれる言葉に出会うことでしょう。
一、悪者の道
詩篇第1篇は、ふたつの部分に分けることができます。前半の1-3節は「正しい者の道」が、後半の4-6節は「悪者の道」が描かれ、両者が比較されています。順序は逆になりますが、後半の「悪者の道」から見ていきましょう。そのほうが理解しやすいと思います。
聖書で「悪者」と言うとき、それは、乱暴で、とんでもない生活をし、犯罪に手を染めている人たちだけを指してはいません。神は私たちの外側だけでなく、内面もご覧になりますので、人の目から見て問題のない人であっても、神の目には問題のある人もあるのです。自分の才能を生かして努力し、社会的に成功していれば、人の目には立派な人に見えても、もし、そのすべてが自己実現のためだけで、他の人のことを心にかけることもなく、ましてや、神のことを考えることもないなら、それは神が受け入れてくださる生き方ではありません。自己実現だけを求めて生きる人の中には、極端な場合、他の人を、たとえそれが家族であっても、自分の願望を達成するための手段にしてしまうことさえあるのです。
人には、たとえ、イエス・キリストを知らなかったときでも、この世界と人間を造られたお方、自然や人間を超えた偉大な存在を感じ、そのお方を敬うという思いがあります。それは人間を造られた神が、人の心に植え付けられた思いです。ですから、小さい子どもは、大人にするように、神の存在や神の性質などといったことを事細かに話さなくても、神がおられることと、神が世界中のすべてのものをご自分の宝もののように大切にしておられることを素直に受け入れることができるのです。子どもはいろんなことを親から教えてもらい、親にしてもらわなければなりませんので、神に頼り、神に導いてもらうということが、そのまま理解できるのですが、大人になっていろんなことができるようになると、それを自分の力でやり遂げたと思うようになってくるのです。そのうち、神に聞くことも、神に祈ることもしなくなり、「神を信じるなどというのは、人間として十分に成長しておらず、幼児性を残しているからだ」などと言って、神を否定するようになります。たとえ、神がおられても、自分には関係ないと言って、実際には神のない生活をしてしまうのです。
そしてそこからさらに進むと、人は自分を神の立場に置くようになります。世界は自分を中心に回っていなければならないと考えるのです。過去の独裁者たちは、そのように考え、自分たちの野望を達成するために手段を選びませんでした。しかし、そんな独裁者でなくても、私たちも、自分のいる小さな世界で、すべてのことが自分の思い通りに、自分のためになされなければ気が済まないといった生き方をしてしまうことがあります。しかし、そういう生き方、そういった人生には、何の祝福も実りもないのです。自分のためにだけ生きる人生や、自己中心な生活は、決して長くは続きません。やがては崩れていくのです。
詩篇1:4に「悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ」とあります。聖書の時代には、脱穀して、もみがらと混じった穀物は、風の吹く日にシャベルのようなもので、空中に撒き散らされました。すると、実は重いので足もとに落ちますが、もみがらは軽いので、遠くに吹き飛ばされます。そうやってもみがらと実を区別しました。穀物の実は蔵に入れられますが、もみがらは火で焼かれます。自分のためにだけ生き、神のためにも、社会のためにも生きることのない人生には実りも重みもなく、それは風に吹き飛ばされるほどに軽いのです。たとえ、財産を蓄え、名声を得、権力を振ったとしても、それがみな自分のためで、神のためでも他の人のためでもないなら、そうしたものは、その人の人生の実に数えられないのです。
私たちの人生の結末が、もみがらのように吹き飛ばされて焼かれるだけだとしたら、何とむなしいことでしょうか。どんなに自分が中心の世界を築き上げ、自分の思い通りのことが出来たとしても、それが一時的なものに過ぎないなら、その人は本当の意味では、自分の人生の目的を達成していないのです。私たちが送りたいと願っている人生はそんな人生ではなく、私たちが歩もうとしてみる道ははそのような道ではありません。
二、正しい者の道
神が私たちに歩むようにと願っておられる道は、正しい者の道です。次に正しい者の道を見てみましょう。
1節には、正しい者の道が消極面から書かれています。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人」とあります。正しい者は「悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かない」のです。「赤信号、みんなで渡れば、こわくない」という戯れ言葉がありますが、多くの人は、それが間違ったことだと分かっていても、ついそれに同調してしまいます。物事を自分で考えて判断しなかったり、自分が仲間はずれになるのを恐れたりするからでしょう。「みんがしているから」というのを判断基準にしてしまうと、物事を間違えてしまいます。そのようなときこそ、神を恐れて、神の喜ばれる道を歩みたいと思います。
「悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった」とある、「歩く」、「立つ」、「座る」という三つの動詞には、だんだんと神から離れていく順序が示されています。「悪者のはかりごとに歩く」と言う場合、それが間違っていると気づけば、回れ右をして、正しい道に立ち返る可能性が残っています。ところが、「罪人の道に立つ」となると、自分の立場を明確にしてしまうことになります。聖書はすべての人が、きよい神の目から見れば、神のみこころにかなわない罪人であると教えていますが、詩篇1:1で言われている「罪人」は、「神には従わない」という明確な立場をとる人をさしています。こうなると、そこから神に立ち返るのは難しくなります。さらに、「あざける者の座にすわる」というのは、もっと悪く、神に従わないばかりか、真理に逆らい、神に対して不遜な思いを持ち、神を侮辱するような言葉を語るようになることを指しています。「歩き」、「立つ」だけでなく、「あざける者の座」にどっかと腰を下ろしてしまうなら、そこから立ち上がり、神に向かって歩み出すことは、神の特別な恵みが無い限り、きわめて困難になります。「毎日の生活が習慣になり、習慣がその人の人格を形作る」と言われます。何かのことで良くない生き方を続けていたり、信仰による歩みから外れた生活を長く続けていると、それがいつしかその人の生き方になり、その生き方がその人そのものになってしいますから、ちいさなことをおろそかにせず、日常のことを大切にしたいと思います。
しかし、こういうことばを聞くと、「はたして私は正しい者なんだろうか」という心配が起こってきます。どんな面でも失敗のない人はありません。どの人も、心の中に汚い思いや憎しみ、また、なげやりな思いを持つことがあるのです。聖書が言う「正しい者」とは過去に何の過ちもなく、決して道を踏み外すことのない、欠けのない人ということではありません。聖書が言う「正しい者」とは、何の落ち度も、罪もない人のことではなく、逆に自分の罪に気づき、その罪を認め、悔い改めた人のことを指しています。自分の罪を悔い改め、イエス・キリストによって罪を赦された人が「正しい者」、もっと正確に言えば「正しい者として認められた人」のことです。
聖書は、そういう人が一番幸いな人だと教えています。詩篇第1篇は「幸いなことよ」で始まっている詩篇ですが、次に「幸いなことよ」で始まっている詩篇は32篇です。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は」(詩篇32:1)とあります。世の中で一番幸いな人は、自分の心を欺かず、素直に自分の罪を認め、神に赦しを願い、その赦しを確信して喜んでいる人です。この罪赦された喜びが、信じる者を悪者のはかりごとに歩ませず、罪人の道に立たせず、あざける者の座に着かせない力となるのです。そして、信じる者は、「正しい者」と認められるだけでなく、神の助けによって、正しい道を正しく歩むことができる恵みもいただくのです。あなたは、この幸いをいただき、この幸いの道を歩いているでしょうか。
三、道を歩む力
最後に、正しい道を歩む力がどこから来るのかを見ておきましょう。
先々週、私たちはカリフォルニアを出て、アリゾナ、ニューメキシコを通ってテキサスにやってきました。アリゾナやニューメキシコのレストエリアは小さくて設備も十分ではありませんでしたが、テキサスに入ったとたん、レストエリアがすごく大きくきれいになったので、驚きました。また、アリゾナやニューメキシコの道沿いには背丈の短い木がポツリ、ポツリと生えているだけでしたが、テキサスに入ると、木の背丈が高くなり、急に緑が豊かになりました。アリゾナやニューメキシコでは雨があまり降りませんが、テキサスには木が育つだけの雨が降り、水があるからです。詩篇1:3に「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」とある聖書のことばを思い起こしました。
「水路のそばに植わった木」とは、キリストを信じて、キリストに根ざすようになった人、キリストからいのちの水を受けている人のことです。そして、水路の水は神のことばです。木が地中深く根を張り、地中から水を吸収するように、キリストに根ざすようになった人は、神のことばを吸収して、枝を伸ばし、実を実らせるのです。
2節の「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」というのは、神のことばを吸収している人の姿を描いています。「主のおしえを喜びとし」というのは、その心に神のことばを蓄えることを表わしています。聖書は生きた神のことばです。しかし、それを書棚にしまっておくだけでは、神のことばの力と命を自分のものにすることができません。コロサイ3:16に「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせなさい」とあるように、聖書はそれを良く読み、学び、私たちの心と生活の中に蓄えてこそ、命となり力となるのです。
木は根を広く張った分だけ枝を伸ばし、根を深くおろした分だけ高く伸びることができると言われています。みなさんは、今までもそうしてきたことでしょうが、これからも、もっと聖書に親しみ、木の根が水を求めて伸びていくように、神のことばに飢え渇き、木の根が水を吸収するように、神のことばを心に蓄え、神のことばによって生かされ、力づけられていきましょう。神のことばに養われ、神が「幸いなことよ」と語りかけてくださっている、正しい者の道を歩み、実を結ぶ人生を生きていく私たちでありたいと思います。
(祈り)
神さま、あなたが、あなたを信じる者に与えてくださっている「幸い」がどんなに豊かなものであるかを、さらに私たちに教えてください。その幸いに生きるために、みことばによって歩み、みことばに生きる私たちとしてください。今朝教えられたことを実行に移す力と恵みを与えてください。主イエスのお名前で祈ります。
6/9/2013