1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
1:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
1:4 悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。
1:5 それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。
1:6 まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。
一、クリスチャンの幸い
詩篇の最初のことばは「幸いなことよ」です。"happy" と訳している英語の聖書もありますが、もとの言葉はヘブル語で「アシュレイ」、ギリシャ語で「マカリオス」ですから、"blessed" (祝福された)と訳すのが良いと思います。
"happy" と "blessed" は少し意味が違います。"happy" は "happen" から来たことばで、何か良いことが起こったからうれしい、いやなことがあったから悲しいなどと、自分の身の回りの出来事から来る感情をさしています。しかし、"blessed" は神の祝福を受けて満ち足りた状態をさしています。私たちの身の回りに起こるうれしい出来事の多くは神の祝福によるもので、私たちは、そうした祝福を、毎日毎日、数多く受けています。健康がそうですし、おいしくいただく食事、いっしょに暮らす家族、やりがいのある仕事、自分のために祈ってくれる信仰の仲間たちなどは、みな神の祝福によって与えられているものです。「数えてみよ、主の恵み」("Count Your Blessings")という聖歌のように、神の祝福を数えていくなら、自ずと感謝が湧いてきて、ハッピーな気持ちになってきます。
けれども、私たちはいつも健康であるとは限りません。病気になり、なかなかいやされないこともあります。家族の間に問題が生じて、すぐに解決が見えてこないこともあります。収入の道が閉ざされて、毎日食べていくだけで精一杯ということもあるでしょう。では、そんなとき、「幸い」を失ってしまったのでしょうか。いいえ、そんなときこそ、神を信じる者は直接神から来る「幸い」を受けるのです。
主イエスも、弟子たちに「幸いなことよ」と呼びかけられました。マタイ5:3-12に「心の貧しい者は幸いです。…悲しむ者は幸いです。…柔和な者は幸いです。…義に飢え渇いている者は幸いです。…あわれみ深い者は幸いです。…心のきよい者は幸いです。…平和をつくる者は幸いです。…義のために迫害されている者は幸いです。…」と、八つの「幸い」、「祝福」があります。これは、自ら進んでへりくだって心を開く人、自分の罪に悲しむ人、柔らかい心で教えを受ける人、正義やあわれみ、また、きよさや平和を追求する人の幸いを教えています。けれども、それと同時に、不可抗力で、貧しくされ、悲しみに落とされた人たちのことをも指しています。主イエスが「貧しい者は幸いです」と言われたのは、信仰のゆえに財産を奪われ一文なしになったとしても、あなたには神の祝福がある。この幸いは誰も奪い取ることはできない、という意味でもあるのです。また、「悲しむ者は幸いです」と言われたのは、愛する者を亡くして悲しみに明け暮れたり、人々から疎外され、傷つけられ、つらい思いをさせられたとしても、あなたには決して離れることのない神の臨在がある。だから、あなたは幸いなのだということなのです。
「柔和な者は幸いです」と言われている幸いには、自ら進んで自分を低くするだけでなく、他の人々から卑しめられ、低められることの幸いも意味しています。時代が悪くなると、高潔な人、誠実な人が低められ、自分を売り込むことがうまい人や、上手に立ち回われる人が幅を効かすようになります。詩篇12:8に「人の子の間で、卑しいことがあがめられているときには、悪者が、至る所で横行します」とある通りです。けれども、そんなふうにして名誉を傷つけられ、不利益を被ったとしても、あなたは幸いだ。あなたは神の祝福を相続するのだと、主は言われるのです。
「義に飢え渇いている者は幸いです」というのも、同じように、正義を主張しても、一向に受け入れられず、それが踏みにじられ、苦しめられている人たちのことを指しています。実際、初代のクリスチャンは、主イエスが暴虐な裁きによって十字架に追いやられたように、いわれのないことで犯罪者にさせられ、財産を奪われ、追放され、死に追いやられました。そうした人々は切実に神の正しい裁きを求めて祈りました。主イエスは、その祈りは必ず聞かれる。主イエスが世界を裁かれるとき、主イエスを信じる者はその正義に満ち足りるようになると約束されました。
このように、神のくださる「幸い」は、状況にかかわらずに与えられる「幸い」であり、いつかは消えていくものではなく、いつまでも残るものなのです。詩篇は、その最初に「幸いなことよ」としるし、聖書を読む者に「祝福」の宣言をしています。それは、詩篇だけでなく、どの聖書も同じです。私たちは、毎日聖書を開くとき、また、礼拝で神の言葉を聴くとき、この神からの「祝福宣言」を聴き逃さないようにしましょう。これを聴くこと無しに、私たちは、一日を生きる力、一週間を乗り切っていく支えを得ることができないからです。
どちらかと言えば、日本の教育は、欠点や短所を矯正しようとすることに力を入れてきたように思います。数学の点数が悪いからドリルを沢山こなすように、英語の成績が悪いからどこかで英語を習ってくるように、などと指導します。欠点を取り除き、短所をカバーするのは間違ったことではありませんが、それだけですと、何でも人並みにできる平均的な大人になることはできても、いつも、「自分はこのことができない。あのこともできない」という思いがついて回り、健全なセルフ・エスティームを持つことができないでしまいます。
それに比べ、アメリカの教育は、子どもの長所を伸ばそうとします。数学が出来なくても、英語が良くできるじゃないかと、できることを褒めます。論理的なことが得意でなくても、芸術のセンスがあれば、それを生かしてやろうとします。学科の成績が悪くても、スポーツが出来れば、そのことを励まします。神が、ひとりびとりに与えてくださった良いものを見つけ出して、それを伸ばそうとするのです。ですから、「ぼくはこのことが得意なんだ」、「私はこれが良くできる」という、健全なセルフ・エスティームを持ち、それが、欠点をカバーし、長所を伸ばしていく力になっていきます。
同じように、神も、私たちの欠点を取り除き、短所を補おうとなさる前に、「幸いなことよ」と呼びかけて、私たちが、神からの祝福を受けている存在であることを知らせてくださっています。神のことばは、「教えと戒めと矯正と義の訓練」(テモテ第二3:16)のために書かれました。私たちは「神なしの生活」、「自分が主である生活」を長年してきましたから、神を信じ、イエス・キリストを主とする生活に導き入れられた後、「教えと戒めと矯正と義の訓練」が必要です。しかし、その訓練は、神がその愛する子どもたちを育てようとする愛の訓練です。それを見逃すと、神の「訓練」はただ厳しく、辛いもの、神に従うことは難行苦行で終わってしまいます。信仰の道、神に従う道は、いつでも、「あなたは幸いだ」と語ってくださる、神の祝福宣言を聞くことから出発するのです。
二、クリスチャンの歩み
詩篇1:1は、神の祝福を受け、それに目を注いで生きる人を「悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人」と呼んでいます。聖書で「歩く」というのは、日常の生活を表わす言葉です。内面の信仰は、必ず外側の行動に表われます。神からの幸いを求める人が、「悪者のはかりごとに歩き、罪人の道に立ち、あざける者の座にすわる」ことはありえないのです。
ここに、「歩く」、「立つ」、「座る」とありますが、この三つには順序があるように思います。「悪者のはかりごとに歩く」と言う場合、それは悪いことではあっても、まだ、回れ右をして、正しい道に立ち返る可能性が残っていまが、「罪人の道に立つ」となると、自分の立場を明確にしてしまうことになります。聖書はすべての人が、きよい神の目から見れば、神のみこころにかなわない罪人であると教えていますが、詩篇1:1で言われている「罪人」は、「神には従わない」という明確な立場をとる人をさしています。こうなると、そこから神に立ち返るのは難しくなります。「あざける者の座にすわる」というのは、もっと悪く、神に従わないばかりか、真理に逆らい、神の栄光を卑しめ、聖なる方を罵ることを意味しています。「あざける者の座」にどっかと腰を下ろしてしまうなら、そこから立ち上がり、神に向かって歩み出すことは、神の特別な恵みが無い限り、きわめて困難になります。
「毎日の生活が習慣になり、習慣がその人の人格を形作る」と言われます。何かのことで良くない生き方を続けていたり、信仰による歩みから外れた生活を長く続けていると、それがいつしかその人の生き方になり、その生き方がその人そのものになってしまいます。神からの幸いをいただいている私たちは、どのように神の祝福の道を歩くかに気をつけたいと思います。人の目にどう写るかというのでなく、すべてを見通しておられる神の前にどう歩いているかしっかり点検していたいと思います。そうでないと、神がくださった幸いを失ってしまい、自分自身が神のみこころにかなわない人間になってしまうからです。詩篇1:6は「まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる」と言っています。「悪者の道」ではなく「正しい者の道」を歩き続けたいと思います。信仰を与えられ、クリスチャンとなった日以来、その道を歩いてきたのですから、その道から遠く離れたところに立ち止まっていたり、そこに腰を下ろしてしまうことのないよう、いつも、自分の歩みを省み、祝福の道を歩き続ける力を求め続けたいと思います。
三、歩みの力
では、祝福の道を歩き続ける力はどうやって得られるのでしょうか。それは詩篇1:2に教えられています。「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」とあるように、神のことばに聴き、神のことばを心に蓄え、それを反芻すること、それが信仰の歩みの力の源です。
聖書を読み、そこから霊的な糧を得るためにはデボーショナルな書物が役立ちます。しかし、そうしたものを使うときには、注意が必要です。たいていのデボーションの本には、その日に読む聖書の箇所が書いてありますが、聖書の言葉は、その箇所の一部分しか引用していません。多くの人は、自分の聖書を開いて、その箇所全体を読むかわりに、その本に引用された部分だけを読んで終わっていますが、それは、デボーショナル・ガイドの正しい使い方ではありません。デボーションのガイドは、私たちを聖書に導くためのものであって、それを聖書のかわりにしてはなりません。聖書そのものを読み、神が自分に語っておられることに聴き、それを思い巡らしてみてください。聖書には、読んでもすぐ理解できないところや、すぐには受け入れにくいことばもあります。しかし、そのような箇所でも、何度も繰り返し読むうちに、徐々に理解できるようになってきます。最初から「分からない」と決め付けないようにしましょう。
デボーショナル・ガイドは、それを書いた人が、その人の置かれた状況の中で神のことばに耳を傾け、それを黙想したことを書いているのであって、それを読んだからといって、それが自分で黙想することのかわりにはならないことを知っていてください。
聖書の黙想を助けるもうひとつの方法は、ジャーナル(日記)をつけることです。その日に読んだ聖書から教えられたことを書き記すのです。最初は、何も書けないかもしれません。続けていくうちに、ぽつり、ぽつりと言葉が出てきて、だんだんと書ききれないほどのことが、心に与えられるようになります。
ジャーナルの最後には、神への祈りをしるし、実際にそのとおり祈るのが良いと思います。たとえば、詩篇1:1「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人」の箇所からは、「神さま、自分の計画や基準でものごとを判断して、あなたのみこころを取り違えることがありませんように。あなたをあがめる歩みができますように」といった祈りが生まれてくるでしょう。
ジャーナルを使う場合、それは、あなたと神との対話の記録であって、出版するためめの原稿ではありませんから、整った文章を書こうとすることに精力を使わないようにしてください。神のことばに聴き、それを黙想し、祈りによってみことばに応答した後は、目を閉じ、静かに、神の臨在の中に憩いましょう。それから、ゆっくりと目を開け、一日の仕事にとりかかりましょう。
日々のデボーションは普段の食事のようなものです。それはレストランで食べる特別な料理ではありません。しかし、毎日の食事が、私たちの健康を保ち、力のみなもととなっているように、日々のデボーションも、主の道を踏み外すことなく、神の祝福の中に生きる力となるのです。何も食べないで道を歩こうとすれば、途中で倒れてしまいます。神は、私たちに主の道を歩くように命じておられますが、同時に、そこを歩むための糧、神のことばを備えていてくださるのです。主の道は神のことばによって歩むのです。詩篇119:1-2は、こう言っています。「幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。」神からいただいている幸いを、さらに豊かなものとするため、みことばによって、主の道を歩み続ける、私たちでありたく思います。
(祈り)
神さま、あなたが、あなたを信じる者に与えてくださっている「幸い」がどんなに豊かなものであるかを私たちに教えてください。その幸いに生きるために、みことばによって歩み、みことばに生きる私たちにしてください。今朝教えられたことを実行に移す力と恵みを与えてください。主イエスのお名前で祈ります。
1/20/2013