19:7 主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。
19:8 主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。
19:9 主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。
19:10 それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。
19:11 また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。
詩篇19篇は三つの部分に分けることができます。1-6節、7-11節、12-14節です。1-6節では自然界に表われている神の栄光が歌われ、7-11節には神の律法の素晴らしさが歌われ、12-14節は罪から救ってくださいとの祈りがあります。一見してまとまりのない詩のようです。それで学者たちの中には、三つの違った詩がひとつになったのだという人もあります。しかし、良く読んでいくと、ここには共通した主題があり、しかも、それが順序を踏んで深まっているのがわかります。その共通したテーマとは何でしょうか。それはどのように深まっているでしょうか。詩篇19篇を読みながら考えてみましょう。
一、自然の中の神のことば
最初に1-6節です。
天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。
昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。
話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。
しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。
太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。
その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。
ここには神の造られた広大な大空と、そこを東から西へと行き巡る太陽の雄大な姿が描かれています。しかし、これはたんに自然の大きさやその恵みを描いたものではありません。自然を賛美するだけであれば、そこに自然を造られた「神」は登場しません。自然自体を「神」として描くでしょう。しかし、詩篇では「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」また、「神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた」と言って、大空も、太陽も、神が造られ、神の知恵や力、また、人間に対する慈しみを示すものだと言っています。詩篇は自然賛歌ではなく、神への賛歌です。そして、ここには、神が、その自然を「ことば」によって造られたと言われています。自然界における神のことばは人の耳には、英語や日本語で聞こえて来るわけではありません。しかし、そこには、この世界を生み出し、それに秩序を与えておられる神のことばがあるのです。
科学者たちは、自然界のさまざまな法則を発見し、それを数式や化学式で表現してきました。そうした数式は、自然を造り支えている神のことばの翻訳だと言って良いと思います。Francis Collins というヒトの遺伝子研究の第一人者は、"The Language of God" という本の中で、"BioLogos” という言葉を使って、遺伝子の仕組みの中に神のことばが語られてていると言っています。科学者たちは、天体や物理の法則、生物の法則ばかりでなく、「マクロの宇宙」と言われる人体の遺伝子のらせん構造に神のことばを聞いたのです。メンデルは修道士で、修道院の庭でえんどう豆を使って実験をし、遺伝の法則を発見しました。パスカルやニュートンなど、著名な科学者の多くは神を信じる人々で、自然の中に神のことばを数式で翻訳しただけでなく、聖書や信仰に関する本を書いて、それを証ししました。
私が日本でお会いした黒住一昌先生も、そのような科学者のひとりでした。黒住先生は、群馬大学の内分泌研究所の所長で、日本での電子顕微鏡によるホルモン研究の第一人者でした。黒住先生を講演にお招きした時、私は先生のお供をして、普通の人は入れない、赤十字病院の電子顕微鏡の部屋に入れていただきました。電子顕微鏡を見たのははじめてのことでしたが、その電子顕微鏡のそばに先生の著書がありました。「私の本は、日本中のどの電子顕微鏡のそばにもあるんですよ」と言って、その本の最初のページを開いて、私に見せてくれました。そこには、「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた被造物によって知られ、はっきりと認められる」(ローマ1:20)という聖書の言葉が書かれていました。黒住先生は、ホルモンの研究を通して、神のすばらしい知恵と力を発見し、神を信じる者、クリスチャンとなり、その信仰をご自分の著書の中に、聖書のことばをもって表したのです。
多くの科学者が、自然を探究すればするほど、神が存在されることと、聖書が確かな真理であることをますます確信するようになったと言っています。科学者や何かの専門家でなくても、私たちは、世界を造られた神を信じる者として、自然に触れる時には、造り主である神を想い、そこにある神からのメッセージを聞き取ることができると思います。
二、律法の中の神のことば
次は7-11節です。
主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。
主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。
主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。
それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。
また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。
ここでは「律法の中の神のことば」が語られています。詩篇19篇は「神のことば」という主題で統一されており、1-6節は「自然の中の神のことば」が、7-11節には「律法の中の神のことば」について歌われているのです。「律法」というは、神がイスラエルに与えてくださった神のことばのことで、それは書物となって、イスラエルの人々ばかりでなく、多くの人々に読まれました。自然の中に聞く神のことばには制限があります。それは神の存在を示し、「神の永遠の力と神性」を語ることはできても、神の救いのご計画を語ることはできません。人はどこから来てどこへ行くのか。人は何のために生きるのか。どのようにして神は人をお救いになるのかを教えてはくれないのです。ましてや、神の人間に対する細やかなお心を知らせることも、ひとりびとりの人生に導きを与えることもできません。
ここで「律法」と言われているのは、「あれをしろ」、「これをしてはいけない」という、冷たい規則のことを言っているのではありません。「律法」は、本来は豊かで、温かい神のことばです。ですから、詩篇では、「律法」のことが、「みおしえ」、「あかし」、「戒め」、「仰せ」、「主への恐れ」、「さばき」などと、さまざまな言葉で言い換えられ、その豊かさが示されています。
「律法」のことばは「たましいを生き返らせ」、人を「賢く」します。それは、人を圧迫する重荷ではなく、「人の心を喜ばせる」ものです。それは「人の目を明るく」します。人の教えは時代とともに移り変わっていきますが、神のことばは「とこしえまでも変わら」ず、真実で正しいのです。神のことばに信頼して裏切られることはありません。
旧約の「律法」でさえそうなら、新約の「福音」は、もっと豊かな救いのことば、いのちのことばです。旧約と新約があわさったものが「聖書」で、聖書は神のことばです。神のことばである聖書がこれまで、どれほど多くの人々を生かし、導いてきたかは、数えきれないほどです。今、この瞬間も、世界のあらゆるところで、聖書のことばによってイエス・キリストを信じる信仰に導かれ、救われ、いのちを得ている人々がいることでしょう。
第16代大統領アブラハム・リンカーンは、イングランドからの貧しい移民の子として、たった一部屋しかない丸太小屋で生まれました。けれども、幼い時から信仰篤い母のひざで聖書を学んできました。聖書がリンカーンを育てたのです。リンカーンが根強い反対を押し切って奴隷解放という大事業を果たし、アメリカに民主主義を定着させたのは、聖書によってでした。リンカーンは深く聖書を愛し、「聖書は神が人類に与えられた最高の賜物である」と言っています。
また、ヘレン・ケラーも、聖書によって、見えない、聞こえない、話せないという三重苦を乗り越えました。ヘレン・ケラーはこう言っています。
私にとって、失われた世界を再び取り戻して、その恵みに浴させてくれたのは、書物の力です。中でも一番多く愛読するのは、聖書です。私は小さい娘の時から、いつも勇気と喜びを得るために、聖書を読みました。私は読んで読んで、あるところなどは、文字が消えてしまったくらいです。何度も指先でなぞるので、点字のポツポツがこすりとられたからです。聖書は私の全生涯の指針となり、力と慰めとになりました。三重苦を背負っている私に、不撓不屈の精神をもたらしてくれたのは、聖書です。私は毎日聖書を読むたびに、新たな元気を回復し、抱負を拡大させられました。ですから少しの時間でも見つけて、聖書を学び、これを用いて霊を新たにしなければならないのです。
昔の人ばかりではありません。今も、聖書は人々を造り変えています。ラスベガス教会から教会設立10周年記念の証し集をいただきました。そこに、ある青年のこんなあかしがありました。2010年2月に書かれたものです。
実は、僕は幼い頃から母に毎週教会に連れられ、昔から神様のことを知っていましたが、聖書をまともに読んだことはありませんでした。神様に対する感謝の気持を強めるために僕は聖書を読み始めました。聖書を読み始めてからは、僕は神様に対する感謝の気持や信仰がさらに強まったと感じています。また、他の青年はこう書いています。
その後も時々キリスト教に触れる機会がありましたが、マタイ13章の「種蒔き」の話にあるように、「見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしない」、そのような者でした。しかし、聖書の学びが進むにつれ、神の計画はなんと偉大で素晴らしいものかが身にしみて分かり、今までの中途半端で断片的な知識や記憶がすべて線でつながったように感じ、人生観がまったく変わりました。そして、神の手で造り変えられ、救いの恵みを授かることができたのです。
こうした体験は、皆さんも持っておられることでしょう。礼拝で神のことばを聞き、聖書クラスで学ぶことによって、皆さんが、神のことばの素晴らしさを、もっと豊かに味わうことができるようにと、心から願っています。神のことばは「金よりも…好ま」しく、「蜜よりも…甘い」のです。「金」は財産を、「蜜」は楽しみを象徴しています。いっぱいお金を儲けて、めずらしいところに行き、おいしいものを食べて楽しむ、世の人の誰もが追い求めていることをさします。しかし、この世のもの、この世の楽しみは過ぎ去ります。けれども神のことばは変わらず、永遠で、それはこの世が与えるどんなものよりも素晴らしいものなのです。金や蜜に代表される、この世のことを優先させることなく、神のことばを第一にする生活を目指したいと思います。
三、心の中の神のことば
最後は12-14節です。
だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。
あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。
私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。
ここには、「心の中にある神のことば」のことが書かれています。詩篇19篇を書いたダビデは、最初に大空を仰いで、そこに響きわたっている神のことばに思いを馳せました。それから、地上に目を向けて、「律法」として与えられた神のことばを想い見ました。さらに、自分の心の中に目を向け、神のことばを自分の心の中に迎え入れています。そして、そこから、神に赦しときよめを願う祈りに導かれています。
詩篇19篇の最後の部分については、来週、詳しくお話しいたしますが、詩篇19篇が「神のことば」というテーマで貫かれていること、また、この詩篇が、自然界から人間の世界へ、人間の世界から内面の世界へと進んでいることがお分かりいただけたと思います。これは、私たちが聖書を学ぶときの方向を教えています。聖書についてあれこれ議論して、外側のことを学んだとしても、それは、私たちの力にはなりません。聖書を書物として学ぶだけでは、神のことばを学んだことにはならないのです。神のことばが私たちの人生に働き、私たちの世界観を、人生観を、価値観を変えることが、私たちのゴールです。私たちの目指しているのは、そこから祈りが生まれてくる聖書の学びです。そしてその祈りが生活を変え、人生を変え、世界を変えていき、神の栄光を表わすものとなるのです。詩篇19篇は天から地へ、地から心へと降りてくる神のことばを描いていますが、神のことばを私たちの心に宿すなら、それはそこから地へ、そして天へと再び戻っていくのです。
この素晴らしい神のことばを金よりも、蜜よりも慕わしいものとして追い求めていく私たちでありたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、あなたは天にあなたのことばを響かせておられるだけでなく、聖書を通して、私たちの生活の中に、人生のうちに、そのことばを語り続けてくださっています。詩篇が教えるように、あなたのおことばを、金よりも好ましいものとして求め、蜜よりも甘いものとして味わうことができますよう助けてください。あなたのおことばが、私たちの心の中に留まり、それによって私たちが生かされ、導かれますように。主イエスのお名前で祈ります。
9/30/2012