創造の神(二)

詩篇139:13-18

オーディオファイルを再生できません
139:13 あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。
139:14 わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです。あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよくわたしを知っておられます。
139:15 わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされたとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。
139:16 あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日の/まだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた。
139:17 神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう。
139:18 わたしがこれを数えようとすれば、その数は砂よりも多い。わたしが目ざめるとき、わたしはなおあなたと共にいます。

 一、人体の不思議

 ある姉妹がバプテスマを受けるとき、次のような証しをしました。「わたしが神様を初めて意識したのは、妊娠した時でした。受精卵がどうして『一人の完全な人間』になるのか、それ以前にどうしてわたしと夫との間に子供が授かったのか、もっとそれ以前にどうして夫とわたしが出会ったのか。

 人は、理屈で説明できない時によく『神業』といいますが、これらの出来事はまさにわたしにとっては『神業』以外の何ものでもありませんでした。でもその時は、どの神様がこんな偉大なことをなさったのか知りませんでした。ただ、無事に子どもが生まれたことを感謝していました。

 そして、ある時、『あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました』というところを読んだ時、『これだ!』と思いました。聖書の神様がわたしや子どもを造ってくださったことが分かりました。」

 この人と同じように妊娠や出産を通して「神がおられる」と感じた人は多いと思います。それは母親となった女性だけでなく、父親となった男性も同じだと思います。かわいい赤ちゃんを見て、「これは偶然の産物だ」「進化の結果だ」などと言う人は誰もいないでしょう。小さな赤ちゃんの中に備わったみごとな秩序を見れば、誰もが、「偶然は秩序を生み出すことはない」という道理が分かり、その背後に知性と愛を持った人格がおられることを感じることだろうと思います。

 大きな宇宙にも、小さな原子にも、神の知恵と力とが示されていますが、わたしたち人間はそれに劣らず、神の知恵と力、その栄光を示すものとして神に造られました。ジャン・カルヴァンは、このことを次のように言いました。「人間は小宇宙である。」「母の乳房にすがっているみどりごですら、他の弁論家たちをただのひとりも必要とせずに、神の栄光を告げ知らせて余りある。」「人間は自らのうちにいわば神のけだかくも数えがたい御業の工場をもち、また同様に、神のはかりがたい御業をぎっしりたくわえた店舗を持っている。」

 カルヴァンがこのように書いたのは1536年のことでしたが、科学が発達し、人体の仕組みがさらに詳しく解明されるようになった現代では、カルヴァンの言ったことに、もっと納得がいくかと思います。

 最初に引用した証しにあったように、生命の誕生はとても不思議なものです。動物も植物も細胞から出来ており、人間の場合、およそ60兆個の細胞で身体がつくられています。たった一個の受精卵から60兆個の細胞から成り立つ、複雑な人体がつくられるというのはとても不思議なことですが、DNA がそのことにかかわっていることが分かるようになりました。

 細胞の中に「核」があり、「核」の中に「染色体」があり、この「染色体」は DNA(デオキシリボ核酸)を持っており、この DNA が、遺伝情報を伝達します。DNA には4種類(A, T, G, C)の「ヌクレオチド」と呼ばれるものがあって、その組み合わせで情報が伝えられるのです。たった10個のヌクレオチドでも、その組み合わせは4の10乗、つまり105万通りになります。一本のDNA には30億個のヌクレオチドがありますから、DNA が伝達できる情報量がどんなに大きなものかがわかります。

 DNA は二重の螺旋構造になっていて、この螺旋が「ほどけて」その「ほどけた」部分から mRNA(メッセンジャーRNA)が転写され、コピーを作ります。この作業が人体の60兆の細胞のひとつひとつで、日夜休みなく行われています。神は人体を設計し、その設計図を DNA という形で人体に仕組んでおられるのです。聖書にある「あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました」という驚きは、現代のわたしたちのほうがもっと強く持つことができるのではないでしょうか。

 二、神のかたちとしての人間

 わたしたちのからだがどんなに見事に出来上がっているかは、誰もが認めることです。けれども、この人体の秩序がどこから来たのかについては、意見はふたつに分かれます。ひとつは、創造の神によって造られたとするもの、もうひとつは偶然によってできたとするものです。

 しかし、「偶然が秩序を生み出す」という論理には無理があります。世界を観察してわかるのは、無秩序から秩序が生まれたというよりは、秩序が壊され、無秩序に向かっているという現実です。「秩序は崩壊していき、その逆はない。」これは、熱力学の第二法則で認められている科学上の原則でもあるのです。新車はやがて中古車になります。中古車が新車になることはありません。地球も環境汚染によって傷めつけられ、オゾンホールがどんどん大きくなっており、人体に対する影響が心配されています。自然の秩序は、いったん壊れたらどんどんと壊れていくのです。それを食い止めるためには、偶然を期待するのでなく、特別な努力が必要です。わたしたちのからだも、病気になったり、老化したりして、ついには死を迎えます。これは、完全な形で造られた世界が罪によって壊されていったという聖書の教えに合っています。

 人間の身体は、それを造られた神がおられることを物語っていますが、人間の素晴らしさは、その身体だけではありません。人間は他の動物とは違って、「言葉」によるコミュニケーションが出来ます。また、その知恵や技術を使って、新しい品種を作ったり、機械を作ったりする力を持っています。また、文学や絵画、また音楽などのさまざまな芸術を生み出してきました。そして、限界はありますが、自然や社会を管理する力も与えられています。これは、神が「自分のかたちに人を創造され」、人に「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」(創世記1:27-28)と命じられたことの結果です。

 創世記によれば他の動植物は「種類にしたがって」造られましたが、人間は「神のかたち」に造られました。これは、さきほどあげた人間の能力を含みますが、それ以上のものです。人間は、たんなる物質ではなく、物質をこえた「霊」を持つ存在です。いや、人間とは身体を持った霊であると言ったほうが良いでしょう。霊である人間には、誰が教えなくても、幼い時から、神を想う思いが与えられています。わたしたちの霊は、たとえ自分では気づかなくても、神とのまじわりを求めています。ここに「神のかたち」があります。こうした「神のかたち」は、神以外の誰も与えることができません。「神のかたち」にこそ、人間が神に造られたものであることの証しがあるのです。

 フランスの画家、ゴーギャンは1897年にタヒチで描いた絵に「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか」と書き込みました。「我々はどこから来たのが、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか。」これは人類共通の問いです。自らの起源を問い、実存を問い、そして目的を問う、この問いは誰の心にもあるものです。こうした問いはいったいどこから生まれたのでしょうか。人間が神に造られたからというのが最善の答えだと思います。ジョン・テンプルトンはこう言いました。「もし宇宙が目的なしに偶然に、こんなにも目的にこだわる人間を造ったのなら、それはなんと不思議なことではないか。」人間は偶然の産物でなく、神が目的をもって造られた神の作品です。だから、わたしたちの霊は、生きる目的を求めてやまないのです。

 三、創造の神への信仰

 英語で「神を信じる」というとき“I believe in God.” と言います。「神を」ではなく、「神の中に」と言うのですが、これは、じつに信仰のあり方を良く教えています。わたしたちが「神を信じる」というのは、創造の証拠を並べたてられて、やむなく、神が存在することを認めるということではないからです。神は、わたしたちが「信じてあげる」対象ではありません。わたしたちは神によって造られ、神によって生かされているのですから、わたしたちは神の手の中にある存在なのです。そのことを信じて、「神の中に生きる」ことが信仰なのです。

 詩篇139は「わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます」(7, 8節)と言って、わたしたちはどこに行っても神から逃れることはできない、たとえ死後であっても、そうだと言っています。そして、18節では「わたしが目ざめるとき、わたしはなおあなたと共にいます」と言って、死をこえた世界でも、神と共にあることが語られています。

 神を信じるとは、宇宙のはじまり、人類のはじまり、わたしの命のはじまりから、ずっとこの世界とともにあり、人間と共に、わたしと共にいてくださった神が、わたしたちの人生と共にいてくださることを信じることです。神の「存在」(existence)を信じるだけでなく、神がいつくしみと恵みをもってわたしたちと共にいてくださる「臨在」(presence)の中に生きるということなのです。

 最初に、紹介した証しには続きがあります。彼女はその証しの中で続けてこう語りました。「それと同時に、『子どもは神様からの預かりもの』と聞いて、はっとしました。今まで自分の子どもなんだから、怒鳴ろうが、叩こうが自分の勝手だ、と思っていたのです。なんということをしてしまったのでしょうか……、後悔でいっぱいです。

 今まで犯してきた罪は数え切れません。神様に赦していただけるのならぜひそうしたいです。しかし、わたしの罪は赦されるとして、今まで子どもたち、夫、わたしの周りの人々が受けてきた『心の傷』は癒されるのでしょうか。そうでなければわたし一人が赦されるはずがないと思い、なかなかクリスチャンになる決心がつきませんでした。

 この気持ちは、バプテスマ準備のクラスを始めていても、わたしの心に重くのしかかっていました。しかし、ある時この御言葉に出会いました。『主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます。』(使徒16:31)この力強い約束の御言葉に押し出されるようにはっきりと自分の罪のためにイエス様が十字架にかかって死んでくださったこと、そして三日後に復活され、今もわたしを守っていてくださることを実感しました。そしてイエス様を自分の『救い主』として受け入れ、これから先、何があろうともイエス様と一緒に人生を歩いていければ、もう安心、すべてをゆだねて助けていただこうと思いました。」

 この姉妹は、創造の神の知恵や力だけでなく、彼女と家族を救ってくださる神の愛と恵みを受け入れたのです。神は創造の神です。世界とわたしたちを造ってくださったからこそ、わたしたちを救うことがおできになるのです。神に造られ、神の中に生かされているものとして、わたしたちも神のうちに生きる信仰へと導かれたいと思います。

 (祈り)

 創造の神、あなたは、わたしたちを見事に造ってくださいました。それを思うとき、あなたの知恵、力、そしていつしみをほめたたえずにはおれません。また、あなたのうちに、あなたと共に生きることを願わずにはおれません。どうぞ、わたしたちをあなたのうちに、あなたと共に生きる喜びへと導いてください。主イエスのお名前で祈ります。

1/29/2017