139:1 主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
139:2 あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
139:3 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
139:4 ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。
139:5 あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。
139:6 そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。
一、知らないことを知る
パスカルは、「人間は考える葦である。」と言いました。「葦」(reed)は湿地帯に生える植物で、エジプトやパレスチナでは、10フィート以上も背が高くなります。それで、葦の棒は、ものさしがわりに使われました。もっとも、葦は、痛みやすく、折れやすいものなので、他にはさして用途がなかったようです。黙示録11:1や21:15で「はかりざお」と訳されているもとの言葉は、「葦」です。主イエスは、十字架にかけられる前、ローマの兵士たちに王冠のかわりに茨の冠をかぶせられ、王の杖のかわりに葦の棒を持たせられました。十字架の上で「わたしは渇く」と言われた時、兵士たちは、スポンジに酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけてイエスに差し出しています。(マタイ27:29,48)聖書では、葦は、こんなふうに使われているのですが、それが傷みやすく、折れやすいことから、葦は、人間の弱さ、もろさを表わすものとして使われています。嵐が吹けばたちまちなぎ倒されてしまう葦のように、人間は、自然や宇宙の前に小さく無力な存在であるが、人間には考える力がある、その考える力によって、自然を知り、宇宙を捕らえることができるということを、「人間は考える葦である。」ということばで、パスカルは言いたかったのでしょう。
パスカルの時代から現代にいたるまで、人間は、その考える力によって、科学技術を発展させてきました。遺伝子の情報を解読し、月や火星はもとより、木星や土星、天王星、海王星、冥王星にいたるまで、調べ尽くそうとしています。そして、現代では、人間の知恵、知識によって知られないものは何もないかのように、思われるようになりました。かつての時代には、人々は血筋や家柄を誇り、王室や貴族たちが権力を持っていました。今の時代は、お金を持っているものが力を持つようになりましたが、それと共に、人間の価値がその人の IQ で量られる時代にもなりました。現代は、どれだけたくさんのことを知っているか、どれだけ頭の回転が速いかで、人間の優劣が決められているように思います。それで、人々は、頭脳の訓練だけに没頭し、多くの知識があることを誇るようになったのですが、実は、ほんとうに知らなければならないことを知らないでいるように思います。
最近は、なにもかもが機械化されてしまって、日本などでは、電車の切符を買う機械や改札の機械がどんどん新しいものに変わっています。カリフォルニアから久しぶりに日本に里帰りした人が、切符の買い方が分からなくてまごまごしていると、後ろから、「何やってんだ。早くしろ。」と怒鳴られたと言っていました。また、「一億総携帯」などと言われ、携帯電話の使い方を知らないなどと言おうものなら、まるで人間でないかのように扱われてしまうそうです。電車の中などでは、携帯電話を使ってはいけないことになっているので、若い人たちは、テキスト・メールで会話を楽しんでいます。親指だけで上手にキーを打っていくのを見て感心しましたが、どんなに機械を上手に操ったからといって、それで、人との会話が豊かなものとなり、友情が深まるというわけではないと思います。人としてどうあるべきか、どう生きるべきかは、もっと内面的なもの、人間の深い部分にかかわることなのですが、そのような本質的なことを考える人が少なくなってきました。それで、インターネットで自殺を呼びかけたり、携帯電話を犯罪のために使ったりするのです。機械によって人生を傷つけ、社会を破壊しているのです。機械を使っているのではなく、機械に使われていると言ってよいでしょう。神を知ることがなければ、その人の人生には基準となるものがないので、自分のしていることが間違っていたとしても、その間違いに気がつかないのです。みんながしていることだったら何をしても良いと思っているのでしょうね。もっと、自分の人生を大切に考えてほしいと訴えたい気持ちになります。人間はさまざまな機械を作り、それを使いこなす知識を持つようになりました。しかし、その知識が人をしあわせにするのではあません。人間は、たんなる生物でも、動物でもなく、霊的な存在ですから、「神を知る」必要があるのですが、そのことを、多くの人は、気付いていないのです。多くの知識を持つようになって、自分には知らないものはないと考え思う人は、実は、ほんとうに知らなければならないことを知らない人なのかも知れません。
聖書は、さまざまな箇所で「あなたがたは知らないのか。」ということばを使っていますが、特にコリント人への手紙第一には、繰り返し使われています。コリントの教会には、知識人が多く、その知識をひけらかす人が多かったからです。彼らは知識を誇っていましたが、実際は、クリスチャンとして知らなければならないごく基本的なことでさえ、理解しておらず、不道徳に手を染めていたのです。知識を誇りながら、ほんとうには、知るべきことすら知らない人々に、聖書は「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(コリント第一8:1-2)と厳しく戒めています。私たちも、まず、神の前に謙虚になって、自分の無知を認めたいと思います。そこから本当の知識、神を知る知識へと進むことができるからです。
二、知らされていることを知る
神学の命題のひとつに、「私たちは神を知り尽くすことはできない。」というものがあります。これを専門用語で、「神の不可把握性」と言います。英語では "incomprehensiveness" です。面倒な言葉ですが、言おうとしていることは、お分かりいただけると思います。このことは、詩篇のことばでは「そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。」(詩篇139:6)「神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。」(詩篇139:17)となります。神は私たちを超えてはるかに偉大なお方です。神の知恵、知識は人間の能力の限界を超えてはるかに高く、そのみこころは、人間が知り尽くすことができないほど深いのです。もし、人間が知り尽くすせるとしたら、それは神ではありません。
では、私たちは、神について何も知りえないのでしょうか。「不可知論者」(agnostic)と呼ばれる人々がいます。この人々は、「人間は神を知ることは出来ない。神とは知ることのできない存在である。」と言いますが、不可知論者には重大な弱点があります。それは、不可知論者が、神を知ることができないと言いながら、神について「神とは知ることのできない存在である。」ということを知っているということです。ちょっと理屈っぽい話になりましたが、言っていることがおわかりいただけたでしょうか。
聖書は、神が存在されること、しかも、ただ存在されるだけでなく、その存在を私たちに知らせておられる、「神は語っておられる。」と教えています。詩篇19:1に「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」とあるように、すべてのものの創造者である神は、ご自分の作品である自然を通して、私たちに語りかけておられます。かつて、ソビエトとアメリカとが、宇宙開発で競争していたころ、ソビエトの宇宙飛行士は、「私は天に行ったが、そこに神はいなかった。」と言いましたが、アメリカの飛行士は、宇宙船の中から「初めに、神が天と地とを創造した。…」と創世記を読みました。普段私たちは、国境によって色分けられた世界地図を見ていますが、宇宙船から、国境線などどこにもないありのままの地球、しかも、水で覆われ命にあふれている地球を見た飛行士たちは、それによって人生観、世界観が変わったと言っています。中には伝道者になった人もいます。私たちは宇宙旅行ができなくても、雄大な自然に触れたり、自然界の絶妙な法則を知る時、創造者の知恵や力を深く感じることができます。
神はまた、歴史を通して、人間の良心を通して、夢や幻、奇蹟を通して人々に語りかけてこられました。神は、神の民に対しては、預言者たちを通して語ってくださいましたが、最終的には、キリストによって私たちに語ってくださったのです。ヘブル1:1-2には「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」とあるとおりです。神は、また、聖霊によっても語り続けておられます。私たちが手にしている聖書は、「神の霊感によるもの」(テモテ第二3:16)、つまり、そこで聖霊が語っておられるものです。聖書では、神が語ることと、聖霊が語ることとは同じこととされていますす。たとえば、イザヤ6:10の「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』この民の心を肥え鈍らせ、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」ということばは、使徒28:25では、「聖霊が預言者イザヤを通して」語られたことばであると言われています。神は、聖霊により、聖書によって私たちに語りかけておられるのです。私たちは聖書を読み、学ぶことによって、神の語りかけを聞き、神のことばによって、神を知るのです。
「目的の四十日」を終えたある人が、「リック・ウォレン先生の本を使ってデボーションを守り、多くの大切なことを教えられました。その後、以前のように、聖書だけを使ってのデボーションに戻ったのですが、リック・ウォレン先生の本を読んでいる時は、その本からリック・ウォレン先生の語りかけを感じましたが、聖書からは、神ご自身が直接語ってくださっているということを感じ、聖書の他には、神が語ってくださる本のないことが良く分かりました。」と話していました。神は、聖書によって、私たちにご自分を知らせてくださっているのです。
現代の福音主義を代表する、J.I.パッカー博士は、「英国教会の聖書日課では、旧約は年に一度、新約は年に二度通読するように定められているのに、英国でそれを守っている人はほとんどいないだろう。ウィリアム・ゴージは毎日15章づつ読み、T.C.ハモンドは三ヶ月に一度聖書全体を通読するのを慣わしにしたが、今、そのように神の言葉に親しむことがないのは、恐るべきことである。」と言っています。神は、みことばによって、私たちにご自分を知らせてくださっているのに、私たちがそれを知ろうとしないなら、それこそ、私たちも、イザヤ書が言っているように、耳があっても聞かず、目があっても見ず、神を知ることがない者となってしまうでしょう。
三、知られていることを知る
私たちが神を知るためには、「自分は神を知っている。」という「高慢」を砕かれるとともに、神が聖書によって語りかけておられるのに、みことばを探り求めようとしない「怠慢」を戒められなければなりません。そして、もうひとつ大事なことは、神に知られていることを喜ぶということです。(1)自分が知らないということを知る、(2)神が知らせてくださっていることを知る、そして、(3)神に知られていることを知る、この三つのことによって私たちは神を知っていくのです。
詩篇の作者は、神が、私たちの知恵、知識を超えてはるかに偉大な方であると言いました。では、彼は、「神を知ることは難しいことだから、何もしないでおこう、そのような神に信頼するのは止めよう」と考えたでしょうか。いいえ、むしろ、「神は、すべてを知り、私を知りつくしておられる。だから、このお方に信頼しよう。」と言っています。私たちは、もっと神を知りたいと願っています。聖書が言っているように、私たちは、「主を知ることを追い求める」のです。しかし、有限の人間が無限の神を知ろうとすることは、どこまで行っても到達できないことで、主を知ろうとすることは、もし、私たちが、神に知られていることを喜びとするのでなければ、私たちを疲労困憊させるものになってしまうでしょう。神を知るという努力が、神に知られていることを喜ぶ信仰に基づいていなければ、私たちは、恵みの世界から落ちてしまうことでしょう。
コリント人への手紙第一13章と言えば、「愛の賛歌」として知られているところです。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。…」という箇所は、多くの人に知られている箇所ですが、「神を知る」ということで目を留めたいのは、この章の12節です。「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」と書かれています。古代の鏡は銅を磨いて作ったもので、ぼんやりとしか映りませんでした。それで、誰でもきれいに見えたそうです。ぼんやりと映るのも悪いばかりではなかったようですが、ここで、鏡が持ち出されているのは、私たちの神を知る知識には限りがあるということを言うためです。聖書は、私たちの救いのため、また、神に従って生活するために必要なすべてのことを含んではいますが、私たちが地上で体験するすべての事に直接的な答えが書かれているわけではありません。「なぜ、ある人は健康で長生きするのに、ある人は、若くして病気で亡くなってしまうのか。」「善良な人がどうして災害に巻き込まれ命を落とすのか。」「神はなぜ、正しい人が苦しめられるままにしておかれるのか。」「なぜ、悪を見逃しておられるのか。」「どうして世の中は公平ではないのか。」など、私たちには分からないことが数多くあります。けれども、私たちは、そのことで神を否定したり、信仰から離れたりしません。なぜなら、その答えは、私には分からなくても、神は知っておられる、今は、知らされてはいないけれど、やがて知るようになると信じているからです。「その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。」とある「その時」とは、キリストがもう一度、地上に来られる時です。「顔と顔とを合わせて見る」とありますが、誰を見るのでしょう。キリストを見、キリストによって神を見るのです。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」という、キリストのことばが成就するのです。その時に、神が私を完全に知っておられるように、私たちが、神を完全に知るようになります。なんと素晴らしい約束であり、希望でしょうか。そして、この約束、この希望は、「神が私を完全に知っておられる」という事実に基づいているのです。
神を知っている人は、神に知られていることを喜びます。詩篇の作者が、神を知ることを追求した結果、「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」との祈りに導かれていったように、主を知ることを追い求める人は、やがて、自分を主に知っていただくことを求めるようになるのです。神はすでにすべてを知っておられるのだから、何も、今さら、「私を知ってください。」と祈る必要があるのだろうかという疑問を持つ人もあるかと思いますが、ここで「知る」ということばは、たんに知識として知るという意味でなく、相手を人格として知るという意味です。神に「私を知ってください。」と祈るのは、「私をあなたのものとして知ってください。あなたのしもべとして、あなたの子として知ってください。愛と恵みによって知ってください。」という意味なのです。
そして、「主を知る」というのは、主を、私の知るという行為の対象にするということではありません。神は主です。私たちは、神を知ることにおいても、主導権を神に明け渡していかなけばなりません。たとば、皆さんが、ある分野ですぐれた人と話をする時は、自分の意見も言い、質問もするでしょうが、たいていは、もっぱら相手の話を聞くようになるでしょう。自分が会話の主導権を取るより、相手に取ってもらったほうが、よほど実りのある会話ができるからです。同じように、私たちが主を知ることを追い求める時も、まず、自分を明け渡し、自分を主に知っていただくことから始めたいと思います。「人間は考える葦である。」と言ったパスカルは、科学者であり、哲学者でしたが、科学や哲学で神を追求しても神を知ることはできないと論じています。彼は、神を、人格の関係で知っていました。1654年11月23日の「覚え書き」にこう書かれています。すこし抜粋して読みます。
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。哲学者および識者の神ならず。…イエス・キリストの神。わが神、すなわち汝らの神。汝の神はわが神とならん。…神は福音に示されたる道によりてのみ見いだされる。…歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙。…イエス・キリスト。イエス・キリスト。われ彼より離れおりぬ。われ彼を避け、捨て、十字架につけぬ。願わくはわれ決して汝より離れざらんことを。…イエス・キリストおよびわが指導者への全き服従。地上の試練の一日に対して歓喜は永久に。われは汝のみことばを忘るることならからん。アーメン。パスカルは、この覚え書きをいつも肌身離さず持っていました。彼は、神を知っていた人であり、自分が神に知られていることを喜んだ人でした。「主が私を知っていてくださる。しかも、愛をもって知っていてくださる。」というのは、なんと大きな慰めであり、安らぎでしょうか。この土台の上に立ち、なおも主を、私の主として知っていこうではありませんか。
(祈り)
父なる神さま、私たちはキリストを知ることと、キリスト教について知ることとを混同し、神を知ることと、神について知ることとを取り違えてしまうことがあります。表面的な知識はあっても、ほんとうには、あなたを知らないでいるかもしれません。私たちを、ほんとうの意味で主を知る者としてください。そのために、自分の無知を認め、あなたのみことばに親しみ、そして、あなたが私たちひとりびとりを深く知っていてくださることに信頼する者としてください。やがて、私たちが完全に知られているのと同じように、私たちも完全に知ることになります。この希望に励まされて、ひとつひとつをあなたに委ねて歩ませてください。やがて、顔と顔とを合わせてまみえることのできる、私たちの主イエスのお名前で祈ります。
4/17/2005