幼子のように

詩篇131:1-3

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131:1 主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。
131:2 まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。
131:3 イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て。

 ある時、こどもたちが主イエスのところにわーっとおしかけてきました。そのとき、弟子たちは、こどもたちを叱りました。「ここはこどもが来るようなところではない。おまえたちがイエスさまの話を聞いてもわかるはずがない。俺たちだってよくわからないのだから。さあ、あっちへ行って遊んできなさい。」と言ったかもしれません。しかし、主イエスは「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」(ルカ18:16)と言われ、こどもたちを呼び寄せて、祝福を与えました。

 主イエスはこのように弟子たちに、こどもを大切にするよう教えましたが、同時に、こどもに見習うようにも教えました。ふつうはおとながこどもの模範になり、こどもがおとなを見習うのですが、マタイ18章では、逆に、おとながこどもを見習うよう教えています。主イエスは、側にいたこどものひとりを弟子たちの真ん中に立たせ、「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」(マタイ18:3)と言われました。主は、小さいこどもを実物教材として使い、弟子たちにオブジェクト・レッスンを与えたのです。

 おとながこどもから学ぶもの、それは数多くあると思いますが、今朝は三つのことを心に留めたいと思います。

 一、悔い改め

 その第一は、「悔い改め」です。よく、「こどもには罪がない。」と言いますが、それは厳密には本当ではありません。すべての人は罪を持って生まれます。こどももまた罪人です。考えてみれば、世の中で赤ちゃんほどわがままなものはありません。赤ちゃんは朝早くだろうと、夜中だろうと、おなかが空いたといっては大声で泣き、おしめが濡れたといってはところかまわず泣き出します。おいしくないものは口から吐き出し、いやなものは手で払いのけます。それでいて、ニコッと笑って、おとなの機嫌をとるのですから、まったくの罪人です。主イエスは、こどもに罪はないとは言われませんでした。新改訳はマタイ18:3を「あなたがた<は>悔い改めて…」ではなく、「あなたがた<も>悔い改めて…」と訳していますが、これは、おとなもこどももともに悔い改めが必要であるということを強調して訳したものです。罪人である私たちは、悔い改めなしに神の国に入ることはできないのですから、おとなにも、こどもにも悔い改めが必要です。そして、おとなよりも、こどものほうがよほど素直に悔い改めることができるので、私たちはこどもから悔い改めを習うのです。

 「悔い改め」はまず、自分の罪を認めることからはじまります。自分が罪を犯したこと、また、罪人であることを認めることがなければ、悔い改めることはありません。罪のない人には悔い改めは必要ないのですが、地上には罪のない人など誰もいません。悔い改めは、すべての人に求められており、神の国に入る第一の条件は悔い改めなのです。ですから主イエスの福音は「悔い改めなさい。天の御国が近づいた。」(マタイ4:17)とのことばで始まったのです。

 人間の心理的発達段階にはいくつかの段階があって、赤ちゃんのときは、自分にとって何が気分のよいことか、悪いことかで行動します。赤ちゃんの場合、まだ「善・悪」が基準ではなく「快・不快」が基準です。ですから、赤ちゃんにはまだ罪の意識がなく、泣いたり、笑ったり、好き勝手にふるまうのです。しかし、人は成長するにつれて「善・悪」の基準を持つようになり、罪を罪として認めることができるようになります。それで、こどもに、「聖書は、私たちは罪人だと言っているけど、自分が罪人だと思う?」と聞くと、ほとんどのこどもが「ぼくは罪人だと思う。」と言って自分の罪を素直に認めます。ところがおとなに同じ質問をしても、ほとんどが「罪といっても、それは国によって、時代によって変わるもので、確かな基準などないのでしょう?」「みんながそうしていますよ。」などと言い訳けを始めます。こどもは叱られるとたいていの場合、「ごめんなさい。」と謝ります。ところがおとなは「私が悪いんじゃない。こどものころ親が私につらくあたったからこうなったのだ。」「世の中が悪い。」「社会が悪い。」と言って、人のせいにするのです。

 言い訳をする人にはまだ少しは罪の意識があるのですが、おとなになってもまだ「快・不快」の原則だけで生きている人は、罪の意識すら持たないので、やっかいです。世の中にはものごとの基準があり、ルールがあります。ところが、自分の感情という基準にならないもので行動している人は、社会のルールを平気で破っていながら、自分でそれに気付かないでいるのです。「したいからする。したくないからしない。」というのは、おとなには許されないことなのですが、平気でそうするおとながいます。こどものほうが「あのおじさんは規則を守っていないよ。」「あのおばさんはわがままだよ。」と気が付いていることが多いのです。おとなもこどもも罪人です。しかし、こどもはは素直に、自分の間違いを認めます。こどもはおとなよりも素直な罪人です。私たちもこどもにならって素直に罪を認め、悔い改めるものになりたいと思います。

 二、謙遜

 こどもから学ぶ第二のことは、謙遜です。おとなには「あの人は謙遜な人だ。」と言いますが、誰もこどもに「謙遜なこどもだ。」という人はいません。「謙遜」という言葉を使う必要がないほど、こどもは、あるがままで、もとから謙遜です。こどももまた罪人であり、わがままで、自己中心ですが、おとなのように、互いに差別しあうことはありません。肌の色が違ったこどもでも、障害を持ったこどもでも、こどもは差別しないで仲良く遊びます。もし、差別がこどもの世界に見られるとしたら、それは、おとながこどもに差別の心を植え付けたからです。差別というのは、自分が人よりも優れていなければならないという間違った信念から生まれたものです。自分を成長させようとする努力のかわりに、他の人を卑しめることによって、あたかも自分が人より優れているかのように思い込む、人間の罪の最たるものです。こどももけんかをしたり、競争したりしますが、それは正面切って優劣を決めるもので、けんかに負け、競争に負けたら、いさぎよくそれを認め、勝った人に従います。おとなのように負けを認めないで、裏に回って人をおとしめるようなことをしません。

 主イエスの弟子たちは、お互いの間で優劣を競い、序列をつけようとしていました。主イエスがエルサレムに向かわれるときが近づき、主イエスがエルサレムで王座に着いたなら、誰がイエスの右と左に座らせてもらえるのだろうか、どの順で並ぶのだろうかと弟子たちは考え、「誰が一番偉いか」という議論が起こったのです。弟子たちのほとんどはガリラヤの湖で魚をとっていた漁師たちでした。また、ローマ政府の手先になり、同国人から高い税金をまきあげていた取税人と呼ばれる人もいました。そういった人たちが主イエスに選ばれ、福音を宣ベ伝える使徒とされ、悪霊を追い出し、病人をいやす権威を授けられたのです。これ以上の地位、身分、特権があるでしょうか。なのに、人間的なものを求めて、お互いの間で優劣をつけようとしていたのです。弟子たちは、ほんとうは「私たちの中で誰が一番偉いのでしょうか。」とイエスに質問したかったのですが、それではあまりにも露骨なので、「天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」という質問に切替えました。一般的な質問をよそおっていますが、主イエスにほんとうの意図を隠そうとしても無駄です。主イエスは、弟子たちの意図を見破って、「この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」と言って、弟子たちの間違いや昂ぶりを諭されたのです。

 高ぶる人の心には神の光が入っていきません。高ぶりを続けていると霊的に盲目になり自分の姿が見えなくなります。自分の姿が見えなければ、決して自分を変えることも、成長させることもできないのです。神の前にへりくだることなしには、罪が赦されることも、罪からきよめられることもないのですから、それは恐ろしいことです。こどもが自分の力のなさを認め、自分の姿をあるがままで認めるように、私たちも神の前にへりくだりたいと思います。

 世の中では自分を低くしたら、もっといやしめられます。決して弱さを見せないで、絶えず背伸びをして自分を高くしておかなければ、押し潰されてしまいます。しかし、神の国では違います。神の前に自分を高くしてはいけないし、そうする必要もないのです。聖書は「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(ペテロ第一5:6)と教えています。自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。これはいつの時代も変わらない真理です。

 三、信頼

 こどもから学ぶ第三のことは、信頼です。こどもは、高いところに手が届かないと「お母さん、取って!」と言い、飲み物のふたを開けられないときは「お父さん、開けて!」と言って、おとなに頼ります。分からないことがあったら、「あれは何?」「どうしてなの?」と質問します。おとなのように、ほんとうはできないのに、あたかもそれが得意なことであるように言ったり、ほんとうは知らないことなのに、分かったふりをするようなこともありません。こどもは自分ができないことを恥ずかしがらずに表わします。そして、自分のできないことをしてもらうために、おとなに頼るのです。

 神のこどもであるクリスチャンも、神に対して同じようにします。私たちは、天の父の前に、あるがままの姿で出ます。全能の神の前で自分の能力をひけらかしても意味がなく、すべてを知っておられるお方の前でいい子ぶっても、無駄だからです。神は、私たちが素直に、自分の無力や無知を認めて、知恵を求めるとき、助けを願うとき、父親の愛、母親の優しさをもって私たちに手をさしのばしてくださるのです。

 謙遜は悔い改めから始まります。自分の罪を認め、自分の本当の姿を認めることによって人ははじめて謙遜になれるからです。そして、その人の謙遜さは、神への信頼となって現れます。謙遜な人は、自分の足らなさを素直に認めますから、神のあわれみを熱心に求めます。また「私のために祈ってください。」と人にも助けを求めます。そして、神に助けていただいたこと、他の人に助けてもらったことに、こころから感謝するのです。

 みなさんがこどもに自転車乗りや水泳などを教えるとき、こどもがとても不安で、父親や母親の顔をじっと見つめるのを体験したことがあると思います。そんなとき、「大丈夫だよ。ちゃんと見ててやるから。」と言うと、こどもは安心して練習し、自分でできるようになっていきますね。こどもはおとなのことばをそのまま信じ、おとなに頼ります。こどもは信頼の名人です。私たちもこどものように神を信頼することを学びたいものです。私のこどもがまだ小さかったころ、押入れの上の段に乗せてほしいというので、乗せてやりました。でもひとりでそこから降りられなくなったのです。「お父さんが受けとめてやるから、そこからジャンプしてごらん。」というと、娘は私をめがけてジャンプしてきました。こどもは親を信頼して親の胸に飛び込んでくるのです。私たちも、主と主のことばに信頼して、その胸に飛び込んでいきたいものです。神は、私たちが神に頼ることを待っていてくださるのです。

 ダビデは、詩篇131で、「主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。」と言って、神への信頼を言い表しました。ダビデは自分をこどもにたとえています。しかも、「乳離れした子」にたとえています。「乳飲み子」は、おなかがすくと泣き叫びますが、「乳離れした子」は母親のそばにいて、機嫌よく遊びます。こどもはもう少し大きくなると、好奇心が芽生えていろんなことを知りたがりますが、「乳離れした子」にはまだそうした好奇心や探究心、また疑いの心はありません。ダビデは「私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。」と言って、地位や名誉、権力や財産を求めないで、ただ神の臨在の中で神を仰ぎ見て満足しています。

 この詩篇ほど、神への信頼から来る平安を描いている詩篇はありません。また、「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」との主イエスの教えに応答するのにふさわしいことばは、この詩篇のほかにはないと思います。私たちも、自分を繕ったり、背伸びをしたりしないで、「乳離れした子」のように、神に信頼して心を静めようではありませんか。母親が「乳離れたした子」を見守るように、神は、悔い改める者、へりくだる者、信頼する者をその愛で取り囲んでくださるのです。今朝は、詩篇のみことばをそのまま私たちの祈りとして祈りましょう。詩篇131篇の1節と2節を声を出して一緒に祈ってください。その後私が短く祈って、説教を終わります。

 (祈り)

 「主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。」

 恵みとあわれみに満ちた主よ、私たちを常に悔い改める者、へりくだる者、信頼する者としてください。主イエスのお名前で祈ります。アーメン。

8/12/2007