労働をささえるもの

詩篇127:1-2

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127:1 【ソロモンがよんだ都もうでの歌】主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。
127:2 あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。

 一、レイバーデー

 明日、9月の第一月曜日は「レイバー・デー」です。レイバー・デーは1894年に連邦の祝日として定められました。そのころのアメリカは鉄道の最盛期で、鉄道の客車を作っていたプルマン客車会社は大きな収益を得ていました。社長のプルマンは、シカゴ郊外に自分の名前をつけた区域をつくり、そこに社員たちを住ませていました。プルマンの会社に働く者は、会社が管理するプルマンの町に住み、その町の商店で買い物をし、そこの学校に子どもを通わせなければなりませんでした。プルマンで働く人たちは、仕事が終わってからの生活までも、会社に管理されていたのです。

 アメリカが不景気になり、プルマンの業績が悪くなると、プルマンは労働者を解雇し、給料を下げ、労働時間を長くしました。それでいてプルマンの町の家賃や物価は高いままでした。こうしたことから労働者の不満が高まり、プルマンの労働者4千人がストライキを起こしました。プルマンは、客車の製造だけでなく、車掌やポーターなどを雇って、列車の運行業務も行なっていましたので、米国鉄道組合がこのストライキを支持し、西部の27州にわたり、25万人が加わる大規模なストライキとなり、アメリカ中の鉄道がほとんど止まってしまいました。

 このストライキから暴動が発生しました。当時のクリーブランド大統領はイリノイ州知事の反対を押し切って、連邦軍を投入し、それを鎮圧しました。それによって30名が死亡、57名が負傷するという結末で、ストライキは終わりました。クリーブランドは労働者との和解を進めるため、ストライキのすぐあとに「レイバー・デー」を連邦の祝日とする法案を提出し、ストライキのわずか6日後に、この祝日が作られました。この時から、アメリカは、労働法を充実させ、労働者が保護されるようになりました。

 そんなわけで「レイバー・デー」は、ほんらいは、労働者の社会や経済への貢献を祝う日なのですが、今では夏の終わりの休日、学生にとっては新学期の前の息抜き、主婦にはショッピングの日になっています。けれども、教会では、この日を前に、労働について考える時を持ち、私たちの労働を支えてくださる神をあがめたいと思います。

 二、労働は祝福かのろいか

 人類の歴史の中で、長い間議論されてきたのは、労働は祝福かのろいかということでした。今日のように便利な生活ができなかった古代では、労働は大変厳しいものでした。今なら、トラクターを使って数時間で耕すことができる土地を、人々は、何日もかけて耕さなければなりませんでした。道路や水路を作るのに何年もかかりました。厳しい労働のため、怪我や病気をすることも多かったのです。それで、「労働はのろいである」という考え方が生まれました。ギリシャやローマでは、労働は奴隷にまかせ、自由人は学問や芸術に励むというのが建前となっていました。

 聖書には、アダムが罪を犯したとき、神がアダムに言われた言葉が、次のように書かれています。

あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、
地はあなたのためにのろわれ、
あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、
あなたは野の草を食べるであろう。
あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、
あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る。
(創世記3:17-19)
この言葉から、労働は神からの刑罰であり、のろいであると感じたのも無理はないと思います。

 しかし、神は、アダムを造られたとき、アダムが罪を犯す以前に、すでに、アダムに労働を与えておられました。聖書に「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた」(創世記2:15)とあります。

 また、「勤勉な人の計画は、ついにその人を豊かにする、すべて怠るものは貧しくなる」(箴言21:5)など、箴言には労働を称える言葉が数多くあります。

 イエスは「大工の子」としてその技能を身につけ、ヨセフと共に働き、ヨセフの亡きあとはその働きによって一家を支えたと思われます。イエスの宣教の働きは、休む暇もないほど多忙でした。イエスは「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」(ヨハネ5:17)と言われ、弟子たちにも「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」(ヨハネ6:27)と言われました。イエスは自ら働き、私たちにも働くことを教えられたのです。

 使徒パウロは、クリスチャンに「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」(テサロニケ第二3:10)と言っています。私は「働かざる者、食うべからず」というのは共産主義のスローガンだと思っていましたが、聖書を読んではじめて、これが聖書の言葉なのだということを知りました。

 労働は神が与えてくださった祝福です。好きな仕事をして、たくさんの報酬が得られれば、労働を祝福だと感じることでしょうが、好きな仕事をして、たくさんの報酬を手にしている人など、ほんのひとにぎりです。給料は良くないのに仕事ばかりがきつく、職場の人間関係も難しいということの方が多いでしょう。そんなとき、労働を祝福と感じるのは難しいことです。世の中に楽な仕事はありません。働けばからだが疲れます。からだを使わなくてよい仕事では頭を使わなければなりませんし、気も使わなくてはなりません。しかし、それでも、労働は祝福です。私たちは、それぞれ自分の仕事を通して、神からの使命を果たし、また、それによって自分自身を形作っていくのです。

 三、労働を祝福とするために

 働く人が労働を神からの祝福として感じることができたら、どんなに素晴らしいことでしょうか。そのためには、まず、祝福の意味を正しくとらえていることが大切です。自分にとってうれしいことや楽しいこと、また、人の目に「成功」と見えるものだけが、祝福ではありません。神からの祝福は、一時的に私たちを喜ばせるだけのものではなく、わたしたちの人生全体にとって最善なこと、永遠の幸いにつながるものなのです。

 明治時代のクリスチヤンに徳永規矩(とくなが・もとのり)という人がいました。この人はビジネスに失敗し、全財産を失い、その上、結核に胸をおかされ、五人の子供を抱えて貧しさのきわみにありましたが、信仰に生きて「逆境の恩寵」という本を書き、多くの人々に慰めをもたらしました。ある時、米屋に1斗(18リットル)の米を注文したところ、米屋は1斗でなく4斗入った俵を運んできました。徳永氏は「そんなにたくさんの米代を払えないから、1斗だけ置いてあとは持って帰ってください」と言いましたが、米屋は「代金はいつになってもいいから」と言って、それを置いて帰りました。ところが翌朝起きてみると、その4斗の米俵は盗まれていました。この時、彼は悲しみと失望の中にいる家族を励まし、次の五つのことを神に感謝しました。

第一、 自分たちは盗まれる立場で、盗む立場でなかったこと。
第二、 米屋が自分たちに十分なお金がなくても、自分たちを信用して、四斗俵を置いて行ってくれたこと。
第三、 盗難にあったものは人から預かったものでなく、自分のものであったこと。
第四、 肉体の糧は盗まれても、霊の糧は盗まれなかったこと。
第五、 それは、霊の糧を盗まれないように注意せよ、との戒めであったこと。
このような感謝は簡単にはできない感謝です。自分は神に生かされており、神は神に信頼する者を決して裏切ることなく、守り、助け、最善をしてくださるとの信仰なしにはできない感謝です。私たちは多くの場合、見逃しがちですが、神の恵み、祝福は、人の目には試練や逆境と見えるようなところにもあるのです。

 労働を神からの祝福として受け取るには、次に、労働を支えておられるのは神であることを知ることです。今朝の聖書箇所に「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである」とあります。私たちの労働を支え、完成させてくださるのは神です。そのことを忘れ、自分の力だけでやり遂げようとしても、そこには限界があり、必ず能力の限界や自分をとりまく厳しい環境の壁にぶつかります。そうした限界や壁を乗り越えさせてくださるのは神です。

 どの仕事にも成功もあれば失敗もあります。エディソンは電球のフィラメントを見つけるのに、なんと1600もの材料を試して失敗しています。オスカー賞で有名なオスカー・ハマスタインが「オクラホマ」で成功するまで、6回のショウはすべて失敗でした。ベーブ・ルースは714本のホームランを打ちましたが、その倍以上の空振りをしています。その道の成功者と呼ばれる人ほど、多くの失敗を重ねています。しかし、失敗や成功といった結果は神にまかせて、自分に与えられた分に励むとき、道が開けます。そのとき、私たちは成功したからといって傲慢にならず、失敗したからといって落ち込まない、神の忠実な働き人になることができるのです。

 労働の祝福を味わうためには、また、神が自分に与えてくださった働きの意味と目的を知っていることが必要です。昔、囚人たちに与えられる刑罰で、一番残酷なのは、無意味な労働でした。北のほうに積んである石を、南のほうまで運んでそこに積む。それが済んだら、その石を崩して、もとの北のほうに積み重ねる。それが済んだら、またそれを崩して南のほうに持っていく。それを何十回と繰り返させると、そのうち囚人たちは疲れ果て、精神が混乱し、発狂してしまうのだそうです。人は、意味や目的が分かっていたなら、たいていの苦しみには耐えられます。しかし、無意味なことや目的のないことのために働くことには耐えることができないのです。

 自分のしていることの意味や目的が分からないために、そこにある祝福を見失っている人がなんと多いことでしょうか。本来、職業は、自分に与えられた目的を達成するためのものです。ところが、それが分からないために、自分の職場での地位を保つことだけが目的になってしまい、そのために自分を磨り減らしている人が、なんと多いことでしょうか。教育者が子どものことはそっちのけで、自分の地位を守るためだけに動く、政治家が社会を良くすることよりも次の選挙に受かることだけを考えて行動するとしたら、とても不幸なことです。学生なら何のために勉強しているのか、主婦なら何のために家事や育児をしているのか、それにどんな意味があるのか、それをはっきりと掴んでいないといつも心にフラストレーションがあり、それが様々なところで噴火して、家庭や学校、職場で問題を引き起こすのです。しかし、信仰を持ち、その信仰を育てていくとき、いままでぼんやりとしか見えなかった人生の意味、労働の目的がはっきりと見えるようになってきます。

 まだ建築用の機械などなかったずっと以前のことです。ある町の丘の上に山から切りだされた大きな建築用の石が、大勢の男たちによって運ばれていました。通りかかった旅人が、その男たちに聞きました。「ずいぶん大きな石を運んでいるが、あの丘の上にはいったい何が建つのかね。」男たちのひとりが、ぶあいそうに答えました。「何が建つかって?そんなこと知るもんか。俺たちはきょう一日雇われて、この石を引っ張りあげているだけさ。あーあ、こんなきつい仕事だとは思わなかったぜ。これじゃ、割りにあわねえや。」それを聞いていたもうひとりの男が、額の汗を手でぬぐってこう言いました。「旦那、あの丘の上には教会が建つんですよ。それも、千人は入れるという大聖堂なんです。この町の人ばかりか、このあたりの村の人たちもみんな集まって、それはきっと素晴らしい礼拝が行われるに違いないありませんよ。この石は、その教会の礎石に使われることになっているんです。」こう言った男の顔には喜びが溢れていました。この男は、自分が何のために、誰のために働いているか知っていたのです。私たちも、神への信頼によって、労働の意味と目的を知り、その祝福を味わうものとなりたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、レイバー・デーを前に、労働が祝福であることを学びました。それをあなたからの祝福として受けとる信仰を私たちにお与えください。ひとりびとりの職場を守り、その仕事を支えてください。とりわけ、職場や事業で行き詰まりを感じている人々に心をかけ、その祈りに答えてください。これから職業を選ぼうとしている学生たちを導き、労働の意味と目的を考え、良い選択ができますよう導いてください。働きたくても仕事の無い人に良い職場を与えてください。病気や怪我のため仕事を休まなければならない人々を慰め、励ましてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

9/1/2013