116:1 私は主を愛する。主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。
116:2 主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり主を呼び求めよう。
116:3 死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。
116:4 そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」
116:5 主は情け深く、正しい。まことに、私たちの神はあわれみ深い。
116:6 主はわきまえのない者を守られる。私がおとしめられたとき、私をお救いになった。
116:7 私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。
116:8 まことに、あなたは私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。
116:9 私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう。
116:10 「私は大いに悩んだ。」と言ったときも、私は信じた。
116:11 私はあわてて「すべての人は偽りを言う者だ。」と言った。
116:12 主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。
116:13 私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。
116:14 私は、自分誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。
116:15 主の聖徒たちの死は主の目に尊い。
116:16 ああ、主よ。私はまことにあなたのしもべです。私は、あなたのしもべ、あなたのはしための子です。あなたは私のかせを解かれました。
116:17 私はあなたに感謝のいけにえをささげ、主の御名を呼び求めます。
116:18 私は自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。
116:19 主の家の大庭で。エルサレムよ。あなたの真中で。ハレルヤ。
一、一番の感謝
今年のサンクスギィングを、みなさんはどう過ごしましたか。サンクスギヴィング・デーに何を一番感謝しましたか。健康で過ごすことができたこと、必要なものが与えられたこと、家族が守られたことなど、神に感謝すべきことは数多くあるでしょうが、クリスチャンにとって、なによりも感謝すべきことは、神がイエス・キリストによって与えてくださった救いです。この一年、どんなに素晴らしいことがあったとしても、地上のどんなことで祝福を受けたとしても、どんなにエキサイティングな体験をしたとしても、クリスチャンにとっては、イエス・キリストによって罪と死と滅びから救われたことにまさるものはないはずです。
主イエスが、七十人の弟子たちに、病人をいやし、悪霊を従わせる権威をさずけて、イスラエルの町々に遣わされたことがありました。伝道を終えて帰ってきた弟子たちは、興奮してイエスに報告しました。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」今まで、そのような体験のなかった弟子たちには、それは興奮せずにはおれないことでした。しかし、主は、こう言われました。「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)たましいの救い以上に素晴らしいものがはないと、主イエスは教えられたのです。
私たちの多くは、神のことばが力強く語られ、悪霊が追い出され、奇蹟が行われるのを見たら、興奮するでしょうし、また、そうしたことが出来る人たちをあがめるかもしれません。そして、主イエスの時代のユダヤの人々がしたように、しるしだけ、現象だけを追い求めて、一番大切なたましいの救いのことを忘れてしまうかもしれません。確かに、主はみこころのままにいやしをなさり、奇蹟を行われます。しかし、同時に、主は、私たちに、いやしや奇蹟以上のものがあると言っておられます。罪が赦され、きよめられ、死と滅びから解放されるというのは、最高のいやしであり、聖霊によって生まれ変わって神の子とされ、天国の国民、神の民となるいうのは、最大の奇蹟です。
主イエスは、こうも言われました。「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ7:22-23)数多くの奇蹟を行ったり、体験したりしたとしても、主イエスを信じる信仰によってたましいの救いを得ていなければ、決して神の国を見ることはできないと、主は言われるのです。どんなに有名な伝道者であっても、多くの著書を著した学者であっても、長年教会で指導的な立場にあった人でも、その人気によって、業績によって、経歴によって救われるわけではないからです。主の名によって力ある業をしたとしても、その人の内面がきよめられ、神を愛するという正しい動機から出たのでなければ、人には受け入れられても、神には受け入れられないと、主は言われるのです。
救いはイエス・キリストを信じる信仰によってだけ、与えられます。私たちに何ができるか、何をしたかは問題ではないのです。「私はこんなことができます。」「私はこれだけのことをしてきました。」「私はこれほど信仰深いのです。」と自分を誇る者ではなく、へりくだって、「私は全く無力です。」「神さま。こんな罪びとを救ってください。」「主よ。不信仰な私をお救いください。」と、主のもとに来る時、私たちは救われます。その時、神のことばと聖霊によって、救いの確信と平安がたましいの中に注ぎ込まれるのです。この救いこそが、私たちの神への感謝の中で第一のものです。健康が支えられ、必要なものが与えられ、家族が守られるなどの祝福は、みなこの救いの泉から流れ出たものなのです。どんなに健康でも、ありあまるほどの富を持っていても、家族に何の問題がなくても、たましいの救いを得ていなければ、そうしたものはすべてむなしいのです。永遠をどこで過ごすかということについて確信がなければ、健康も、富も、地上での成功もいったい何になるというのでしょうか。主は言われました。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)口語訳聖書では「これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」となっていましたね。健康も、富も、成功も、それは「添え物」にすぎないのです。本体は、イエス・キリストの救いです。私たちが求めるべきものは「神の国」であり「神の義」です。したがって、私たちが第一に感謝すべきことは、私たちがすでに神の国を頂いていること、私たちの名が天にしるされていること、私たちが神の義によって、罪を赦され、救われていることです。
詩篇116:8に「まことに、あなたは私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。」とあります。私たちも、このことばのとおり、まず何よりも神の神の救いをしっかりとにぎりしめましょう。17節に「私はあなたに感謝のいけにえをささげ、主の御名を呼び求めます。」とのことばのとおり、神の救いのゆえに、感謝のささげものを神にささげようではありませんか。
二、感謝の方法
クリスチャンの生活は、神の救いに感謝する生活です。神の救いが先にあって、それに応答していくのが、クリスチャンの歩みです。では、どのようにして、私たちは、神への感謝を表わすことができるのでしょうか。詩篇116篇は、神に感謝する方法について、三つのことを教えています。
第一に、神の平安に憩うことです。7節に「私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。」とあります。神の愛を知り、信じ、確信することが、神への感謝の第一歩です。神を疑いながら、神に感謝することはできません。主イエスは、12年間病気で苦しんできた女性をいやし、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」(マルコ5:34)と言われました。また、弟子たちにも、十字架を前にして、「わたしは、あなたがたに平安を残す。」と約束されました(ヨハネ14:27、16:33)。復活の後、恐れ、疑い、力をなくしていた弟子たちに、主は、何度も、「平安があなたがたにあるように。」と呼びかけてくださいました(ヨハネ20:19、21、26)。平安は、主がくださるものです。それは、無理矢理自分の心を静めたり、自分勝手に「安心」したりすることではありません。ヨハネ第一3:19-20に「それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。たとい自分の心が責めてもです。」ということばがあります。「たとえ自分の心が責めてもです。」とは理解しにくいことばですが、私たちに本当の平安とは何かを教えてくれる大切なことばです。どんな罪も犯さない人、どんな点でも良心の責めを感じない人、あらゆることについて何の疑いも持たない人は、おそらく地上にはいないでしょう。心に責められることがあれば、どんな平安も持つことができないとしたら、誰ひとり、平安を持つことはできません。ヨハネ第一3:20の「たとい自分の心が責めてもです。」ということばは、自分の力では決して平安を得ることのできない私たちのために、私たちの小さな心を受け取ってくださる神の大きなこころがあると言っているのです。ヨハネ第一3:20は、続けて「なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。」と言っています。平安を得る唯一の方法は、責めたり、疑ったり、思い煩ったりしている自分のちっぽけな心を神の大きな心に任せてしまうことです。主は、救いを求めるたましいに「平安あれ。」と語りかけてくださいます。主のことばに聴き、主の平安に憩いましょう。
神に感謝をささげる第二の方法は、礼拝を守り、聖餐を守ることによってです。詩篇116:13に「私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。」とあります。「主の御名を呼ぶ」というのは、礼拝を表わしています。礼拝にまさって神に感謝する場はありません。「救いの杯」とあるのは、聖餐を暗示しています。礼拝の中でも、聖餐は、キリストの救いを目で見、手で触れ、からだで味わう時ですから、神の救いを心に刻み、それに感謝するのに、最もふさわしい時です。
「杯」は、さまざまなものを象徴しますが、それは「運命」を表わす時に用いられました。古代の人々が、大きな杯に水を満たし、そこに夜空の星影を映して、自分の運命を占ったことから来たようです。神を信じる者は、この世界が不可解な「運命」によってではなく、神によって支配され、神の「摂理」によって導かれていることを知っていますから、「運命」という言葉を使いません。「杯」という言葉を神の「定め」や「使命」という意味で使います。主イエスがゲツセマネの園で「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈られた時の「杯」は、主イエスが、私たちの罪のための身代わりとなってご自身をささげられるという、神の定めを表わしています。私たちは、聖餐で「杯」を受け取る時、キリストに与えられた神からの使命を思い見ます。キリストが通られた苦難を深く覚えます。そして、キリストが、その苦しみの「杯」をひとしずくも残さず飲み干してくださったことに感謝するのです。キリストは父なる神からの「苦難の杯」を飲み干してくださり、私たちに「救いの杯」を与えてくださいました。
「救いの杯」という言葉には、「喜び」や「勝利」が意味されています。結婚式などのお祝いではかならず、みんなが杯をとって「乾杯」します。いろんな競技で優勝した人には「優勝カップ」が贈られます。あのカップには、後には、ブドウ酒ではなく、お金を入れてもらうようになったそうですが、相撲では「優勝杯」というものが贈られ、そこにはお酒が注がれます。私たちが聖餐でいただく杯は、喜びの杯であり勝利の杯です。私たちは、聖餐で杯をいただく時、キリストの救いを喜び、キリストが罪と死に勝利されたことを祝うのです。地上では、まだ罪との戦い、サタンとの戦いが残っていますが、キリストが再び、この世に来てくださる時、キリストは私たちに最終的な勝利をもたらしてくださり、天で勝利の祝宴が開かれます。聖餐は、この最終的な勝利の日を先取りしての祝いなのです。聖餐のたびごとに「救いの杯」をかかげ、礼拝のたびごとに救いをなしとげてくださった「主の御名」を呼び求め、神への感謝をささげたいと思います。
感謝をささげる第三の方法は、誓いを果たすことです。14節に「私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。」とあり、同じことばが18節にも繰り返されています。聖書は「みだりに誓ってはならない。」と教えていますから、ここでいう「誓い」とは自分勝手に立てる誓願のことでないことは明らかです。ここでの「誓い」は、主を愛し、主に信頼し、主に仕え、主に従っていくという、基本的な信仰姿勢のことを意味しています。ローマ12:2に「この世と調子を合わせてはいけません。…むしろ、…心の一新によって自分を変えなさい。Do not be conformed to this world, but be transformed by the renewing of your mind.」と言われているように、礼拝とは、この世によって形づくられてしまった自分を、心の一新によって造り変えていただく場です。みことばに聴き、悔い改め、聖霊のお働きに従順になることによって、私たちは献身の「誓い」を神に果たしていくのです。
礼拝は、受けることだけではありません。受けることと、ささげることから成り立っています。私たちは神の招きを受けたので、こうしてともに集まり、神に賛美をささげています。神の恵みを受けたので、感謝をささげています。神のことばを受けたので、悔い改めと信仰をささげています。聖餐ではキリストのからだを受け、私たちのからだをささげます。あふれるばかりに神の恵みを受け、感謝にあふれて豊かに神にささげていく、そのような礼拝を守り続けてまいりましょう。
(祈り)
父なる神さま、この一年、私たちはあなたから数多くの恵みと祝福をいただきました。そのひとつひとつを感謝いたします。その中でも一番の恵みであるキリストの救いをなによりも感謝いたします。私たちのこの感謝を、あなたのくださる救いの確信と平安に憩うことによって、礼拝と聖餐を正しく守ることによって、また、献身の誓いを新しくしていくことによって、ささげていく私たちとしてください。主イエスのお名前で祈ります。
11/26/2006