主の良くしてくださったこと

詩篇103

103:1 わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名
103:2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れる
103:3 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
103:4 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
103:5 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくな
103:6 主はすべてしいたげられている人々のために、正義とさばきを行なわれる。
103:7 主は、ご自身の道をモーセに、そのみわざをイスラエルの子らに知らされた。
103:8 主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。
103:9 主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。
103:10 私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。
103:11 天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
103:12 東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。
103:13 父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。
103:14 主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておら
103:15 人の目は、草のよう。野の花のように咲く。
103:16 風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。
103:17 しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。主の義はその子らの子に及び、
103:18 主の契約を守る者、その戒めを心に留めて、行なう者に及ぶ。
103:19 主は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを統べ治める。
103:20 主をほめたたえよ。御使いたちよ。みことばの声に聞き従い、みことばを行なう力ある勇士たちよ。
103:21 主をほめたたえよ。主のすべての軍勢よ。みこころを行ない、主に仕える者たちよ。
103:22 主をほめたたえよ。すべて造られたものたちよ。主の治められるすべての所で。

 9月11日のことがありましたので、今年のサンクスギヴイングデーはどうなることかと、心配していましたが、何事もなく、平穏のうちに迎えることができました。今まで、平穏無事であることがあたりまえのようにして過し、そのことをことさら感謝するということもありませんでしたが、今年は、平穏も安全も、決して当然のことではなく、神の恵みであって、改めて感謝すべきことなのだということを身にしみて感じました。

 今日、この礼拝に来ることが出来たということひとつをとってみても、決してあたりまえのことでなく、そこに数多くの神の恵みがあります。まず、朝、元気で起きることができたという健康の恵み、朝の食事をおいしく食べることができた日毎の糧の恵み、ここに教会があって、多くの兄弟姉妹に迎えられた交わりの恵み、賛美を歌うことのできる唇、みことばを聞くことのできる耳、そして献金をささげることのできた手があることも、恵みです。さきほど『かぞえよ、主のめぐみ、かぞえよ主のめぐみ、かぞえよ、ひとつずつ、かぞえてみよ主のめぐみ』と賛美しましたように、神の恵みをひとつ、ひとつ、数えあげていくと、感謝すべきことがなんと多いことかが分かってきます。

 一、罪のゆるしの大切さ

 詩篇103篇は「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」と言ってから「主の良くしてくださったこと」つまり、神の恵みを数えあげています。「主は、あなたのすべての咎を赦しゝあなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から敗い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。」(103:3−5)「あなたのすべての病をいやし」とは病気のいやし、健康の恵みのことです。今年、大きな病気をされた方、手術をなさった方も大勢いらっしゃいますが、神がいやしてくださり、こうして元気で共に礼拝を守れることを感謝します。中には「私はかぜひとつひかず、神のいやしを体験できず、残念だった」などと言う人もいますが、それは贅沢なことで、病気にならなかったこと自体が、神のいやしの恵みをいただいたしるしなのですから、健康の恵みをもっと感謝しなければなりませんね。

 次の「あなたのいのちを穴から贖い」というのは、大きな危険から救い出されたことを言います。もう少しで大きな事故に巻き込まれるところだったけれど、守られたといったことが、今年なかったでしょうか。また、命の危険までいかなくても、仕事をなくしたり、商売がうまく行かなくなったり、家庭にトラブルがあったり、そうした危機的なところから救い出された方もあるのではないでしょうか。神が私たちに平安と安全を与えていてくださることを感謝しましょう。

 その次の「あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ」というのは麗しい表現ですね。これは、私たちが神の愛とあわれみでとりかこまれていることを意味します。日々の生活の中では、思いわずらうことも、悩むこともあるでしょう。試練や誘惑にあい、罪を犯してしまうこともあります。しかし、そんな時でも、神の愛とあわれみが私たちを取り囲んで、私たちの心と思いを守ってくれるのです。今年も、神は、私たちの霊的必要を満たしてくださいました。そのことに感謝しましょう。

 最後の「あなたの一生を良いもので満たされる」というのは、日ごとの必要が満たされることを言っています。毎日、毎日、神が必要を満たしてくださらなかった時はありませんでしたね。私たちの「必要」という場合、私たちが「欲しい」と思っているもの("wants")はすぐには手に入らなかったかもしれません。私たが「欲しい」と思っているもの("wants")が、必ずしも、私たちに必要なもの("needs")とは限りませんし、もし、願いどおりに与えられたら、かえって、私たちを駄目にしてしまう場合もあるのです。神は、私たちにほんとうに「必要なもの」("needs")を良くご存知で、私たちの「必要」は必ず満たされてきたはずです。

 今年も、健康を、安全を、霊的、物質的祝福を目毎に味わってきました。ほんとうに感謝です。しかし、これらすべてにまさって大きな恵み、祝福があるのです。神の恵みは数えきれないほどありますが、その中でも特に覚えなければならないもの、最高の恵みは何でしょうか。それは、恵みのリストの最初に「主は、あなたのすべての咎を赦し」と言われていた「罪のゆるし」の恵みです。クリスチャンとは、罪のゆるしを体験した人のことで、誰も、救われた時、その恵みを感謝し、喜こんだはずです。しかし、年月が経つにつれ、罪のゆるしが、あたりまえのようになってしまい、病気のいやしや、特別な能力、不思議な導きなどに目が移ってしまい、罪のゆるしの恵みが私たちにとってどんなに大切なものかを忘れてしまうことがあります。イエスの弟子たちも、そのような失敗をしています。弟子たちはイエスから悪霊を追い出す権威を授けられ、伝道に行きました。弟子たちは、イエスの御名によって力あるわざをし、エキサイトして帰ってきて、言いました。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」しかし、イエスは弟子たちにこう言われました。「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んでばなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(ルカ10:17−2 0)私たちにとっての最大の恵みは、悪霊を追い出したり、奇蹟を行ったりという、目に見えるセンセーショナルなことよりも、罪がゆるされ、神のものとされたということにあるということを、イエスは弟子たちに教えられたのです。

 私たちは、罪のゆるしによってはじめて、神に受け入れられ、神とのまじわりを持つことができます。罪のゆるしがなければ、他にどんな恵みを受けていても、その恵みは私たちの喜びとなり、力となりません。罪のゆるしがなければ、どんなに健康であってもその人には命がなく、どんなに財産があっても、そのひとには平安がないからです。イエスが

 二、罪のゆるしの偉大さ

 「罪のゆるし」、この恵みがどんなに大きいものかを次に考えてみましょう。詩篇103篇には、罪のゆるしが次のように描かれています。

 最初は10節と11節です。「私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。」神が私たちの罪や咎にしたがって私たちを扱われたら、私たちはどうなるでしょうね。厳しい罰を受けて当然でしょうね。神は、きよく、正しい神であって「私たちの罪にしたがって私たちを扱い、私たちの咎にしたがって私たちに報いる」お方のはずです。ところが、神は、私たちを私たちを正しい者とみなして、私たちに罪の罰、咎の報いを要求なさらない、これが罪のゆるしです。

 「天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。」神はきよいお方で天におられ、私たちは罪を持って地にいます。「天と地」は、しばしば、かけ離れたふたつのものを表わす時に使う表現です。「天と地とほど離れている」と言いますね。ところが、ここでは、神の愛の大きさを表わすのに、この言葉が使われています。罪のゆるしば、天よりも高く、大きな神の愛を私たちのものにするのです。きよい神と罪ある私たちが、たとえ天と地とほど離れていたとしても、罪のゆるしは、このギャップを埋め、神と私たちとをひとつにするのです。

 次に12節では「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」と言われています。神は、私たちから罪を引き離し、その罪を永久に私たちから引き離されるのです。たとえ誰が私たちを責めたとしても、神は「この者は、この罪と何の関係もない」と宣言してくださるのです。ミカ書7:19に「私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。」とあります。「咎を踏みつけて」というのは、神が憎しみをこめて罪を打ち砕き、それを力のないものにされるという意味です。「海の深みに投げ入れる」というのは、それが二度と姿をあらわすことがない、完全に葬り去られるということを意味しています。神はその大きな愛によって、罪人を愛してくださいましたが、罪を憎んでくださったのです。「東が西から遠く離れているように」また「海の深みに投げ入れる」といった言葉は、神の罪のゆるしが徹底していることを表わしています。

 罪のゆるしが徹底していることを表わす聖書のことばを、もうひとつ見ておきましょう。それはイザヤ43:25です。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」よく"Forgiving is forgeting."(ゆるすことは忘れること)と言われます。私たちの場合は、人の罪をゆるしても、なかなかそれを忘れることはできないものです。ゆるしたはずなのに過去のことが心によみがってくることがあります。しかし、主のゆるしば違います。主が私たちの罪をゆるすと言われる時、私たちの罪をも忘れてくださるのです。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」(イザヤ43:25)神が私たちにくださった罪のゆるしば完全で、徹底した罪のゆるしです。

 目に見えるさまざまな祝福の多くは、一般恩寵に属します。「一般恩寵」というのは、創造者である神が被造物にくださる恵みのことです。それは、神を信じるか信じないかにかかわらず、すべての人に分け与えられるものです。イエスが『天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。』(マタイ5:45)と言われような恵みです。

 しかし、罪のゆるしは、キリストを信じる者に与えられるスペッシャルな恵み、特別恩寵です。富や健康、能力や善良さ、そうしたものは誰の目にも見えるもので、私たちも、そうした恵みはすぐ見え、それを感謝することができるのですが、「罪のゆるし」という恵みは、人の目には隠れており、それを見逃したり、感謝を忘れてしまいがちです。一般恩寵は神の創造の力によって私たちに与えられますが、罪のゆるしという特別恩寵は、イエス・キリストの十字架を通して私たちに与えられ、信仰によってしか受け取ることのできないものです。罪のゆるしは、神の御子が、その命をもって勝ち取ってくださったもので、それほどに価値のある、まさにスペッシャルな恵みです。今朝は、イエス・キリストの十字架を覚える聖餐式を行いますが、これを通して、もう一度「罪のゆるし」という最大の恵みをしっかりと心に覚えましょう。この最高の恵みに最大の感謝をささげましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、「あなたが良くしてくださったこと」の中で罪のゆるしにまさって偉大なもの、価値あるものはありません。主イエスは、最後の晩餐で「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」と言われました。また主は復活されてから、弟子たちに「罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」とお教えになりました。今年の感謝祭礼拝で、聖書の主題とも言える「罪のゆるし」、あなたからの最高の恵みに目を留めさせていただいたことを感謝します。これから、守り行います、聖餐式を通して、この恵みを深く心に味わうことができますように。私たちのために罪のゆるしを勝ち取ってくださった主イエス・キリストの御名で祈ります。

11/25/2001