1:7 主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。
1:8 わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。
1:9 それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである。
私たちは今年、「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」(ホセア6:3)を標語に掲げています。一月から三月は、「目的の四十日」プログラムによって、「人生の5つの目的」を学びました。しかし、「5つの目的」が何であるかを知ったからと言って、それで、「5つの目的」を理解し、実行できるわけではありません。「5つの目的」を理解するには、神がすべてのものに対して計画を持っておられるお方であり、私たちをご自分の目的にしたがって造られたお方であるということを知る必要があります。つまり、私たちに目的を与えた神を知って、はじめて、私たちは、その目的にかなった生き方ができるようになるのです。主を知ることからすべてが始まるのです。聖書は、「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1:7)と言って、人生の知恵、知識は、神を知ることから来ると言っています。私たちがこの世において、どんなに多くのことを学んだとしても、神を知ることがなければ、そうした知識は、その人の人生を導くものとはならないと、聖書は言っています。
「5つの目的」の第3日目に「主よ。あなたは自分の目的をしっかりと持ち、あなたに信頼する者に揺るぎない平安をお与えになります。」(イザヤ26:3 TEV)とありました。自分の目的をしっかりと持っている人は、その目的に導かれて、確かな人生を送ることができるというのですが、これと似た聖句に「自分の神を知る人たちは、堅く立って事を行なう。」(ダニエル11:32)というのがあります。神を知る人は、不確かな世の中でも、確かなものを持つことができる、多くの人が間違った方向に向かっていても、正しい方向に向かい、なすべきことを成し遂げることができると言う意味です。神を知る人、そして、神によって自分の人生の目的を知る人が、どんなに確かな歩みをしてきたかは、聖書にも、歴史にも数多くの例を見ることが出来ますが、「自分の神を知る人たちは、堅く立って事を行なう。」という言葉は、ダニエル書に書かれていますので、今朝は、ダニエル書の1〜3章の中から、神を知る人の姿を学んでみたいと思います。
一、神を知る者は、自分の道を守る
「自分の神を知る人たちは、堅く立って事を行なう」ことの最初の例は、ダニエル書1章にあります。ダニエルと三人の友人が、王から与えれる食べ物を拒否したというストーリーです。これは、子どもたちも大好きなお話で、サンデースクールでも良くとりあげられますので、皆さんもご存知かと思いますが、ひととおり、歴史的な背景からお話ししておきましょう。
紀元前586年、バビロン帝国は、ユダ王国を滅ぼしてしまうのですが、それに先立って、バビロンは、ユダの国の王族や貴族たちを徐々にバビロンに移住させました。それは、ユダの国がバビロンに背かないようにするためと、優秀な人材を、バビロン帝国のために、集めるためでした。この時、ダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤの四人は、ユダの国からバビロンに連れてこられました。そして、ダニエルにはベルテシャツァル、ハナヌヤにはシャデラク、ミシャエルにはメシャク、アザルヤにはアベデ・ネゴという名がつけられました。ダニエルやミシャエルの「エル」は「神」、ヤナヌヤやアザルヤの「ヤ」は「ヤーウェ」(主)を表わします。それぞれに神に対する信仰、主に対する信頼を表わす名前だったのですが、バビロンでつけられた名前にはバビロンの神々の名前が含まれていました。ベルテシャツァルの「ベル」はバビロンの神マルドゥークのことで、シャデラク、メシャクの「アク」は月の神、アベデ・ネゴの「ネゴ」も、バビロンの神ネボの別名です。かって、日本が台湾や朝鮮半島を支配した時、「創氏改名」と言って、先祖からの名前を捨てさせ、無理矢理日本式の名前をつけさせたことがあります。それによって、人々に日本の支配下に入ったことを意識させるためだったのですが、そのように四人の若者の名前がバビロン式のものに変えられたのは、彼らに、バビロンの政治、文化、宗教のもとに屈服させられ者であることを意識させるためでした。彼らは、ユダヤから捕われて来た者として、バビロンに服従しました。しかし、彼らはその内側に、何にも屈服させられないものを持っていました。それは、まことの神に対する信仰でした。この四人の若者たちは、バビロンの王に従順に従いましたが、だからといって、今まで信じてきた神への忠誠を、決して捨てることはありませんでした。彼らは、バビロンの奴隷となっても、神の民としての自覚をはっきりと持っていました。それは、自分たちの神をほんとうの意味で知っていたからでした。
神は、ユダヤの人々に神の民としての自覚を与えるためにさまざまな規則を与えましたが、その中に食べてよい動物と、食べてはいけない動物とを定めたものがありました。四人の若者たちは、バビロン王の食卓から来る食べ物によって養われるように定められていたのですが、彼らはそれを断り、ただ野菜だけを食べることを許してほしいと、世話役に願い出ました。それは、バビロン王の食卓から来る食べ物のすべてが、ユダヤ人に許された食べ物ではなかったからです。彼らは、ユダヤ人には許されていない食べ物や偶像にささげられたものを食べ、身を汚すことがないようにと、心に決めていたのでした。
皆さんは、この四人の若者たちのことをどう思いますか。ユダヤ人でない私たちから見れば、たかが食べ物のことではないか、細かいことにこだわりすぎる、何事も極端にならず柔軟に考えればいいのだと思う人もあるでしょう。しかし、彼らが食べ物にこだわったのには、それだけの理由がありました。神が、ユダヤの人々に与えた規則はどれも、それによって彼らに神の民であることを自覚させるためのものでしたが、もし、その規則が年に一度の宗教儀式を守ることなら、彼らは、年に一度しか、自分たちが神の民であることを自覚しなかったかもしれません。しかし、神は、ユダヤの人々に、年に一度だけでなく、毎日、しかも、一日のうちに何度も、神の民であるということを自覚させようとされました。人は、必ず、一日に何度か食事をしますので、神は、食べ物の規則を与えることによって、食事のたびに神の民としての自覚を持つようにされたのです。また、神は、ユダヤ人に食べてよいものを制限することによって、人は、人生のどんな分野においても、神の定めに従い、自制すべきものであることを教えようともされたのです。食欲の旺盛な若者たちにとって、バビロン王の食卓から来る豪華な食べ物を断ることは、大変なことだったかもしれませんが、彼らは、食事を空腹を満たすためだけのものとは考えませんでした。彼らはそれを、神が与えた規則を守り、神に服従する信仰の行為としたのです。自分たちの食欲を満たすことよりも、神の要求を満たすことを喜びとしたのです。神を知らない多くの人は、自分の欲求を満たすことが人生の目的であると考え、自分の欲求が満たされることを喜びとし、それを追求しています。しかし、神を知る者は、神の要求を満たすことを求め、そこに喜びを見いだすのです。皆さんの多くは、そのような喜びを味わっておられると思いますが、そのような喜びこそ、私たちの人生を、満ち足りた豊かなものとするのです。
四人の若者たちは、野菜しか食べなかったので、世話役は、彼らが他の若者よりやせてはいないか、顔色が悪くはないかと心配したのですが、「彼らの顔色は、王の食べるごちそうを食べているどの少年よりも良く、からだも肥えていた」(ダニエル1:15)のです。神は、四人の若者たちを見事に守られました。神は、神への信仰を守り通す者を守ってくださるのです。箴言に、「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。」(箴言22:6)とありますが、この四人の若者たちは、きっと信仰の教育をしっかりと受けていたのでしょう。現代は、私たちをとりまく環境がめまぐるしく変わり、さまざまなことが次から次へと起こる時代です。そんな中で、私たちの生き方も、右に左に揺れ動かされます。子どもたちや若者たちに、しっかりとした人生の土台を与えてやらないと、彼らは人間として基本的なことまでも見失ってしまいかねません。どんな状況の中でも変わらないものを、大人たちがまず身につけて、それを子どもたちにも身につけさせてやりたいと思います。「自分の神を知る人たちは、堅く立って事を行なう」ことが出来ます。神を知る人は、歩むべき道を知り、しっかりとそれを歩んでいくことができるのです。
二、神を知る者は、神の計画を知る
さて、ダニエル書2章に行きましょう。神が四人の若者たちに特別な知恵を与えたので、彼らは、三年間の訓練期間の間に、バビロンのさまざまな学問に通じる者となりました。王は、彼らをたいそう気に入って、王のアドバイザーであった、呪法師たちや知恵者の仲間に加えました。古代の君主たちの多くは占いなどに頼っていましたが、特にバビロンは、星占いの発祥の地と言われ、バビロン王のアドバイザーの多くは占い師たちでした。しかし、この時バビロンの王であったネブカデネザルは、呪法師たちをあまり信用していなかったようです。ネブカデネザルはいくつかの夢を見た後、そのことで心が騒ぎ眠れなくなってしまいました。ネブカデネザルは、自分の見た夢の解き明かしをせよと呪法師たちに命じるのですが、どんな夢を見たのかを告げず、どんな夢を見たかを言いあて、その解き明かしをするように迫ったのです。どんな夢かを話せなければ、本当に解き明かしができるとは信じないと言うのです。人の見た夢を言い当てるなどということは、誰も出来ないことでしたので、呪法師たちは、大変困り、そんなことは人間には出来ないと答えると、王は「バビロンの知者をすべて滅ぼせ」と命じました。ネブカドネザルは短気なことで知られている王でしたので、彼の命令は即座に実行され、ダニエルと三人の同僚たちもやがて命を奪われることになったのです。
この事件を知った、ダニエルは、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤにこのことを知らせ、四人は、他のバビロンの知者たちとともに滅ぼされることのないようにと、神に祈りました。神は、その祈りに答え、ダニエルに、ネブカデネザルが見た夢と、その解き明かしを示してくださいました。ネブカデネザルが見た夢というのは、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、そしてローマの四つの帝国が次々に世界を治め、その後、神の国が始まるというものでした。これは、神が、ネブカデネザルの夢を通して、神の世界支配についての計画を示されたものでした。ダニエルは、ネブカデネザルのところに連れてこられ、王の前に立ちました。王は、ダニエルに「あなたは私が見た夢と、その解き明かしを私に示すことができるのか。」と言いましたが、ダニエルは、夢を解き明かすのは自分ではなく神だとあかしして、「王が求められる秘密は、知者、呪文師、呪法師、星占いも王に示すことはできません。しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。」(ダニエル2:2:27)と答えました。ダニエルに王の夢の解き明かしを与えたのは、神でした。ダニエルは、神を知る人であったゆえに、神のみこころを知ることが出来ました。神に祈り求め、神のご計画を悟る者になったのです。ダニエルは、この後、いくつもの預言を神から受けるのですが、そのどれもが新約聖書にまで、いいえ、世の終わりまでつながる重要な預言でした。神は、神を知る者に、地上の知恵、知識だけでなく、この世の知恵では決して知ることのできないものをも、明らかにしてくださるのです。箴言は「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」(箴言9:10)と言っています。主を知ることによって、私たちは、どんな哲学者や思想家、また科学者たちも得ることのできなかった、この世界の意味、私の人生の目的を悟り、それをしっかりと持つことができるのです。
三、神を知る者は、勇気を持つ
ダニエルは、宮廷で仕えることになり、ダニエルの三人の同僚もまたバビロン州の事務官に任じられることになりました。それからしばらくして、おそらくダニエルが宮廷から地方に派遣されている間に、ネブカデネザル王は、自分の像をつくり、それを人々に拝ませました。このことはダニエル書3章に書かれていますが、この章にはダニエルの名前は出てこないからです。古代では、王や皇帝そのものが神であり、しばしば国民は支配者を拝むように強要されました。しかし、ユダヤ人にとって偶像に頭をたれることは、なんとしても出来ないことで、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤは、その像を拝むことを拒否しました。王は、すでに、「ひれ伏して拝まない者はだれでも、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。」というおふれを出していましたので、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤがその像にひれ伏さないのを見た人々は、この三人を王に訴え、三人は王の前に引き出されることとなったのです。
王は三人に言いました。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。あなたがたは私の神々に仕えず、また私が立てた金の像を拝みもしないというが、ほんとうか。もしあなたがたが、…ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それでよし。しかし、もし拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」(ダニエル3:13-15)ネブカデネザルは、自分を絶対者とみなしていましたから、「どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」と、高慢なことばを口にしたのですが、三人は、「私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。」と答えています。ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤの三人は、ネブカデネザルのおふれに逆らったばかりか、ネブカデネザルの絶対性をまっこうから否定したのです。それが死に価することを、この三人は十分に知っていました。しかし、彼らは、死も恐れず、王に立ち向かったのです。このような勇気はどこから来たのでしょうか。それは、神を知ることから来ています。どんな国が興り、どんな王が立てられようとも、神は、それらの上におられる主であることを、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤの三人は良く知っていました。彼らは、そのことを、聖書の教えとして、ユダヤ人の言い伝えとして知っていたのでなく、バビロン王の食卓からくる食べ物を断った時、神が彼らを守ってくださったという実際の体験の中で知っていました。ネブカデネザルが夢を見た時、その夢の解き明かしがダニエルに与えられましたが、彼らは、その時与えられた神のことばによって、神こそがすべてのものの上におられる絶対者であることを、深く知る者となったのです。三人は、人格と人格との関係で神を知っていました。心から神に信頼し、神を愛していました。彼らが、王の怒りをも恐れず、信仰を貫きとおしたのは、たんに、強い信念を持っていたというだけではありません。神への人格的な信頼と深い愛があったからです。三人は、ネブカデネザルに向かって言いました。「王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」(ダニエル3:16-18)彼らの神への愛と信頼は、「もしそうでなくても」という言葉に表れています。三人は、神の守りを信じていましたが、たとえ、神の守りがなく、燃える火で焼かれるようなことがあっても、それでも良いと考えていました。三人は、神が彼らを守ってくれたから神を信じていたのではなく、神が彼らをバビロン州の事務官にしてくれたから神を愛いていたのでもありませんでした。たとえ、死を選ばなくてはならなくても、また、目に見える祝福が取り去られても、神に頼り、神を愛していました。彼らは、神を信じること自体が、何者にもかえられない祝福であり、神を愛することが、最高の幸せであると考えていました。彼らは、このように、神との人格の関係の中で、神を知っていました。
ネブカデネザルは、三人のことばに怒り、炉の温度を限界まで上げさせました。そのため、三人を炉に投げ込んだ兵士たちは、炉の入り口で炎にまかれ焼け死んでしまいました。ところが、炉に投げ込まれた三人は、炉の中で、燃え尽きてしまうはずなのに、そこから、まったくの無傷で出てきたのです。「火は彼らのからだにはききめがなく、その頭の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火のにおいもしなかった。」(ダニエル3:27)とあります。これは、神のなさった特別な奇跡でした。この奇跡を目の当たりに見たネブカデネザルは、「ほむべきかな、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神。神は御使彼らは、このようにいを送って、王の命令にそむき、自分たちのからだを差し出しても、神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこのしもべたちを救われた。それゆえ、私は命令する。諸民、諸国、諸国語の者のうち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神を侮る者はだれでも、その手足は切り離され、その家をごみの山とさせる。このように救い出すことのできる神は、ほかにないからだ。」(ダニエル3:18-19)と言いました。神は、神を信じる三人を守られたばかりでなく、いままで信仰を迫害していたネブカデネザルを信仰の擁護者としたのです。神の力は、なんと偉大なことでしょうか。神は、歴史の中で、同じようなことを何度もしてこられました。皆さんも、信仰の歩みの中で、自分の利益よりも、神に従う事を選んだ時、それによって、自分自身が祝福を受けただけでなく、まわりの人々も、神の素晴らしさを体験し、変えられていったという体験をしてこられたことと思います。
箴言は「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」(箴言29:25)と言っています。バビロン王をも恐れなかったハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤの勇気は、神に対する深い信頼から、神を知ることから出たものでした。人生をどう生きるのかという知恵もまた、神を知ることから生まれてきます。思いもかけないような困難がいつやってくるか分からない時代に私たちは生きています。こんな場合はどう考えたらよいのか、こんな時には、何をすれば良いのかわからなくなってしまうことがあるでしょう。しなければいけないと思いながら、力がなくできないでいることも多くあるでしょう。そんな中で、神から与えられた人生の目的に従って生きるには、なによりも、神を知る、神ご自身を深く知ることが必要です。では、神を知るにはどうすれば良いのでしょうか。それは、「主を恐れることは知識の初めである。」とあるように、神を知ることを第一のこととすることから始まります。主を知ることが、どんなことよりも先に来なければならない、第一のものとならなければならないのに、私たちは、思いの中でも、生活の中でも、それを第二、第三のものにしてしまっていないでしょうか。第二、第三ならまだしも、「神を知る」ということが、思いの中にまったくないことさえあるかもしれません。自分にとって良いことが起こればそれを喜び、悪いことが起これば、それを悲んだり、怒ったりするだけで終わっていて、その中で神を思い、神のみこころを尋ねるということが、ほとんどなされないで、物事に対処することだけで終始してしまっているかもしれません。もし、私たちが、「神さま、あなたは、一体どのようなお方で、私に何を望んでいらっしゃるのでしょうか。」と祈るなら、私たちは、そこから神を知る者となります。祈りとは、自分の願いを神に語るだけのものではなく、私たちに対する神の願いを聞く場でもあるのですが、そのような祈りから、私たちは、神を知ることができるようになります。そして、神を知ることから、勇気や希望、そして、平安に満ちた生活が生まれて来るのです。聖書にある、主を知る人々の良い模範にならって、私たちも、いっそう、主を知ることを求め、それを土台とした人生を歩みたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、あなたを知ることが、私たちの思いのいちばん初めに、あらゆる行動の初めになければならないのに、私たちはそれを第一のこととしてきませんでした。私たちは、今、そのことを悔い改めます。あなたを知ることを、いつも意識して求め、そのための努力を惜しむことのない私たちとしてください。そして、私たちが、「自分の神を知り、堅く立って事を行なう」ことができるよう、お助けください。主イエスのお名前で祈ります。
4/10/2005