4:8 最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。
4:9 あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。
4:10 私のことを心配してくれるあなたがたの心が、今ついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜んでいます。あなたがたは心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです。
4:11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。
4:12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。
一、秘訣を求めて
私の子どもの頃には「職人さん」と言われる人が大勢いました。建具屋さん、鍛冶屋さん、桶屋さんというのがありました。こうしたお店はほとんど道から中が見えて、職人さんが働いているのが見えました。また、道ばたで鍋や傘の修理をしている人も良く見かけました。私はそういった人の仕事を見るのが大好きでした。桶屋さんの店先で、小さな木切れにかんなをかけながら桶を作っていくのをじっと眺めて、そのみごとさに感心していました。でも、いわゆるプロフェッショナルな仕事を見るのが好きです。テレビ番組に「料理の鉄人」というのがあります。二人のシェフが制限時間以内におなじ材料で料理を作り、審査員に食べてもらってどちらがおいしいかを競うという番組です。一流のシェフたちの包丁さばきや料理の仕方を見ていると「さすがにプロだな」と感動します。テレビでは料理を見ているだけで食べられないのが残念です。鉄人の料理を味わえたら、もっと感動するだろうなと思いますが…。
しかし、プロフェッショナルとしてどんなに優れたものを持っており、仕事の面で業績をあげていても、もし、その人に人格的な問題があり、その家庭が惨めだったら、果たして、その人は本当の意味で「プロフェッショナル」、優れた人、成功した人と言えるでしょうか。残念ながら、多くの優れた力を持つ人が、社会的には成功していても、家庭では暴力をふるったり、わがまま勝手だったりして、愛も喜びもない家庭生活を送っている、そしてその果ては、離婚や家庭崩壊に至るということがよくありますね。また、プロフェッショナルとしてどんなに腕を磨いても、自分自身をコントロールできないために、ギャンブルやアルコール、ドラッグなどに手を出し、犯罪にかかわり、そのために自分自身と社会的業績までも台無しにしてしまうこともあるのです。かって、相撲の横綱までなった人は、百年に一人出るか出ないかという恵まれた体と技を持っており、多くの人に、彼は「名横綱」になって記録を塗りかえるに違いないと期待されていました。しかし、この人は、いろんなスキャンダルを起こし、その才能を惜しまれながら引退してしまいました。普通、横綱まで登ったら、親方になることができるのですが、彼は、親方にもなれず、相撲の世界から去って行ったのです。その時、彼を育てた親方は「相撲取りには、心・技・体の三つが必要だが、一番大切なのは、心だ。彼は心の稽古をしなかった」と口惜しがっていました。私たちは、自分の専門分野では自分を鍛錬すると共に、「人生」という道場でも自分自身を鍛えることを忘れてはならないと思います。そうでないと、せっかくの能力も、努力も無駄になってしまいます。
社会的に成功するかどうかは、人それぞれです。素質があり、精いっぱい努力した人でも、チャンスに恵まれずに、望んでいた地位を得られない場合もあります。どんなに優れたものを持っていても、その時代の人には理解されず、あとになってやっと人々から評価されることもあります。私たちクリスチャンは、結果を神にまかせて、自分の最善を尽くすしかありません。社会的な成功は、結果として与えられるもので、それだけが私たちの目指すところではありません。私たちは、自分の人生をどう生きるかということをしっかりと心に留めておかなくてはなりません。自分の人生をどう生きるかについては、その人ひとりびとりに責任があります。どんな人生を生きるにしても、私たちはその人生に、意味や目的、満足や喜び、そして、知恵や力が必要です。そして、生きる目的、生きる喜び、生きる知恵や力はすべての人に平等に与えられるのです。みんなが職業や技能においてプロフェッショナルに、専門家になれるわけではありません。しかし、私たちは、自分の人生を生きるということにおいてはプロフェッショナルでなければなりません。「人生の達人」になること、「人生」という道場で免許皆伝をいただくことを目標にしていきたいと思います。
二、秘訣を得た人
今私は「免許皆伝」という言葉を使いましたが、実は、同じ言葉を聖書が使っているのです。ピリピ4:12がそれです。「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」「秘訣を心得ている」というギリシャ語は「免許皆伝」と訳すことのできることばなのです。
では、パウロが得た免許皆伝、人生の秘訣とは何なのでしょうか。それは、一言で言えば、環境に左右されないものを得たということです。私たちは、皆、環境に左右されます。心地よい環境にいる時は大丈夫でも、暑かったり、寒かったりするだけで、「今日はなんて暑いんだ」と不機嫌になり、「なぜ、いまごろこんなに寒いんだ」と怒ったりしてしまいます。あとで冷静になってふりかえって見ると、何でもないことだったのに、小さなことで、騒いだり、ふさぎこんだりしてしまいます。そんな自分を顧みる時、「私はまだ、人生の達人にはほど遠いな」と痛感させられますね。しかし、パウロは環境に左右されないものを持っていました。そして、彼は11節に「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」と言い切っています。
パウロのこの言葉は、単なる痩せ我慢からでも、若いときの勢いで語ったものでもありまん。パウロは、本当に満ち足りた心をもって、そう言ったのです。彼がそう言ったのは、もうすでに老境に入ってからでした。彼がこう言ったのは、太陽の光もろくに入らない冷たい石畳の牢獄の中でした。「どんな境遇にも」と言いましたが、そこには当然、牢獄という最悪の環境、囚人となるという最も惨めな境遇も含まれていたのです。パウロは「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」と言っていますが、これは、単にことばだけのことでなく、パウロは、こうしたことを実際に経験してきたのです。「豊かさ、飽くこと、富むこと」と言われていますが、パウロはキリストの使徒になるまでは、物質的には豊かな生活をしてきたと思われます。パウロは外国生まれのユダヤ人ですが、エルサレムのガマリエルという学者のもとで学んでいます。当時ガマリエルといえば、ユダヤ人の中で最高の学者として尊敬されていました。パウロはいわばエルサレムに留学生として来ることができたわけですから、彼の家がもし、貧しかったら、そんなことはできなかったでしょう。それに、パウロはユダヤ人でありながらローマの市民権を持っていました。多くの場合、ユダヤ人は、ローマの市民権をお金で買い取りましたから、彼の家が裕福な家であったことは間違いないでしょう。
しかし、キリストの使徒となってから、パウロは文字通り「貧しさ、飢えること、乏しいこと」を体験してきました。パウロはコリント人への手紙第二の11章にこんなふうに書いています。「ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」(コリント第二11:24-27)パウロは、人間として耐えられないほどの極限状態を何度も何度もくぐりぬけてきた人です。その彼が「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」と言うのです。貧しいからといって卑しくならない、金持ちになったからといって奢らない、満ち足りたからといって怠けない、飢えたからといって不満をもたないというのです。いったいそんなことが可能なのでしょうか。パウロがこう言うことができたのは、なぜでしょうか。その答えを次に見ましょう。
三、秘訣はキリスト
「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(13節)ここに、パウロが「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」と言うことのできた秘訣があります。「私を強くしてくださる方」とは、誰のことですか?もちろん、それはイエス・キリストのことですね。パウロは「私は、どんなことでもできる!」と言い切っています。しかし、その力は、彼の力でなく、イエス・キリストの力なのです。イエス・キリストは信じる者の心の中に住んでいてくださいます。キリストを信じる者は、自分の内にいてくださるお方の力によって、どんな境遇の中でも、満ち足りることができるようになるのです。
昔の偉いお坊さんは、お寺に火をかけられ、焼き殺される時「心頭滅却すれば火もまた涼し」(みなさん、意味がおわかりですね。「悟りの境地に立てば、燃える火も熱くはない」ということです。)と言って死んでいったといわれていますが、それほどの悟りを持つことのできる人はめったにいません。また、ある武将は「天よ、我に七難八苦を与えたまえ」と言って、修業にはげみましたが、自分の力だけで頑張りとおせる人もまれなのです。私たちが正直に自分をふりかえってみると「自分でできる。自分の力でやって来た」と思っていたことも、自分だけの力ではない、家族や友人、また先輩、指導者たちの助けがあったことが分かるでしょう。私たちの人生には、自分の力、人の力、社会の力などいったもの以上の、もっと大きな力が必要なのです。
パウロは、知恵、知識においては、その当時の誰にもひけをとらないものを持っていました。彼はユダヤ人らしい強靭な精神を持っていました。彼は自分の力だけでもいろんなことができた人でした。しかし、パウロは、あのダマスコへの途上で、栄光の主、イエス・キリストに出会った時、盲目となり、いやというほど自分の無力を知らされたのでした。彼は、主イエスの前に、徹底して弱くなり、イエス・キリストを信じました。そして、そのことによって、彼は、今までの彼の力以上の力を体験したのです。ですから、パウロは、聖書の中で「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。…なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」(コリント第二12:9ー10)と言っているのです。パウロがどんな困難や苦しみの中でも神を信じ、正しく生きることができたのは、彼の力や強さによってでなく、イエス・キリストの力によってだったのです。パウロは、イエス・キリストの無限大の力によって神のために偉大な働きをすることができたのです。私たちも、自分の力に頼らず、イエス・キリストに頼る時、パウロと同じように「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。…私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と言うことができるのです。私たちの人生の秘訣は「イエス・キリスト」ご自身です。
ある人が、世の中には、サーモメータ(温度計)のような人と、サーモスタット(温度調節器)のような人がいると言いました。サーモメータは、温度が上がれば目盛りが上り、温度が下がれば目盛りが下がる、ただ環境に左右されているだけです。しかし、サーモスタットは、温度が下がれば暖房を動かし、温度が下がれば冷房を動かし、環境を一定にします。私たちはどちらでしょうか。いつでも外側のものに左右され、上がったり下がったりの人生を送るのでしょうか。それとも、内側に持っている力によって、私たちの回りを暖めたり、さわやかな風を送ったりすることのできる人生を送るのでしょうか。
私たちの心に、イエス・キリストを迎えましょう。その時、私たちは、回りのものに左右されずに生きる、人生の秘訣を得ることができるのです。
(祈り)
父なる神様、私たちにも、パウロが得たのと同じ人生の秘訣を与えてください。私たちをとり囲む環境に左右されるのでなく、むしろ私たちの回りを変えていくような力を与えてください。聖フランシスコが祈りましたように、私たちを「憎しみのあるところに愛を、傷のあるところに赦しを、疑いのあるところに信仰を、失望のあるところに希望を、暗やみのあるところに光を、悲しみのあるところに喜びをもたらすもの」としてください。私を強くしてくださるイエス・キリストの御名によって祈ります。
4/22/2001