4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
4:5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。
4:6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。明日からいよいよ連鎖祈祷「祈りの花束」が始まります。今、礼拝ではピリピ人への手紙を学んでいますが、今朝の聖書の個所が、ちょうど祈りについて教えていますので、神様が、連鎖祈祷「祈りの花束」を祝福してくださるように願い、ここから「祈りの力」と題してお話しをすることにしました。
一、心を守る祈り
祈りの力、それは、何でしょうか。それは私たちの心を守る力です。どんなに健康でも、どんなにお金があっても、どんなに頭が良くても、もし、私たちの心がくじけてしまったら、私たちは生きる力を失います。希望を持って、正しく生きることができなくなってしまいます。ですから、聖書は箴4:23で「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」と言っているのです。ところが、私たちの心はいつも、いろんなことで揺れ動き、傷つきます。衣食住のすべてが満ち足りて、他の人から見たら何も心配することの無いような生活をしていても、絶えず襲ってくる不安につきまとわれて暮らしている人も多いのです。万全のセキュリティ・ガードを張り巡らしても、それで心まで守られるわけではありません。どんなにしても、私たちの心には疑いや不安、焦りや落胆が入りこんできます。現代は科学が万能であるかのように思われている時代ですが、どんなに科学技術が発達しても、それは人の心に消えることのない本物の平安をあたえることができないのです。しかし、祈る時、私たちはそうしたものから自由になることができます。祈りは私たちの心を守るのです。
ピリピ人への手紙には2:14に「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい」という言葉がありましたね。つぶやき、疑いは、私たちの心を乱す敵です。私は、多くのクリスチャンが「私はこのことをするのがとても嫌でした。それで『神様、どうしてあなたは私にこんなことをさせるのですか。私にはこんな難しいことはできません』とつぶやいてばかりいました。しかし、いやいやながらでも神様に従ったら、神様は私を祝福してくださって、そのことが良くできるようになり、今はとても楽しく、喜びで一杯です。こんなことなら、不平不満を言わないで、もっと早く神様に従えば良かったと思っています」とあかしをしているのを聞いてきました。神様からするように言われた奉仕、悔い改め、人との和解は、最初は誰もおっくうなもので、ついつい後回しにしてしまいがちなものです。しかし、そうしたことは、いつかはしなければならないことです。そうであるなら何事でも、「つぶやかず、疑わず」出来るといいですね。そのためにも、私たちは、神の語りかけを聞いた時は、まず祈りましょう。祈りによって、私たちは、神のみこころに素直に従うことができるようになります。
4:6には「何も思い煩わないで」とあります。思い煩いも、私たちの心の敵です。思い煩う人は、何もしないうちから「こうなったらどうしょう」「ああなったらどうしょう」と先のことを心配してエネルギーを使い果たし、疲れきって何もできなくなってしまうのです。地球環境はどんどん悪くなっていきます。アメリカにも不景気の波が押し寄せてきました。人々の心はどんどん冷たくなっています。これからの世の中はどうなっていくのでしょうか。そんな中で子供たちは正しく生きていくことができるのでしょうか。私たちの回りには、心配の種、思い煩いの原因は世の中にあふれています。思い煩いは天国が来る時まで地上に残るでしょう。しかし、神は、思い煩いに対処する方法をすでに与えくださっているのです。それもまた、祈りです。私たちは祈りによって思い煩いから解放されるのです。
二、平安を与える祈り
4:6はこう続きます。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」この世に生きている間は心配ごとがなくなることはないでしょう。ピリピ人への手紙には、テモテやパウロがピリピの人々のことを心配し、ピリピの人々もパウロのことを心配していると書いてあります。(2:20、2:28、4:10)誰かに愛を注げば心配も生まれ、心配が思い煩いになるかもしれません。しかし、ここには「心配が思い煩いになる前に神に持っていきなさい」と教えられているのです。それを他の誰かに持っていっても、解決にならないことが多いですね。また、もし、やけになって所かまわず撒き散らしたら、みんなが迷惑します。心配ごとを、祈りによって主のもとに持っていきましょう。4:6は口語訳では「何事も思い煩ってはならない。ただ、<事ごとに>、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」となっています。私たちの心が思い煩いで押しつぶされない秘訣は、「事ごと」に、ひとつづつ、祈りによって神に任せていくことです。「心配ごとは、貯めておいてから一度に解決しよう」などと考えてはいけません。その時々にひとつづつ、祈りによって神にお任せしていくのです。
私たちが祈る時、どんなことが起こるでしょうか?7節に「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」と書かれています。このことばのとおりに神の平安が私たちの心と思いを守るのです。「どうして、そんなことが」と不思議に思いますか?それが祈りの力なのです。ともかくも理屈抜きで祈ってみてください。そうすれば、私たちは神の平安にとりかこまれるのです。その平安は「人のすべての考えにまさる神の平安」です。それは、神の論理にはかなったことですが、人間の理屈で極めることのできるようなものではありません。この平安は自己暗示でも、人の与える慰めでもありません。それは神が与えてくださる平安であって、私たちがどんな状況にあっても、私たちの心を守るものなのです。
つぶやきが出てくる時、祈りましょう。疑いが起こる時、祈りましょう。思い煩いがやってくる時、祈りましょう。落胆した時、祈りましょう。心が騒ぐ時、祈りましょう。平安を失った時、祈りましょう。祈りはあなたの心をガードしてくれます。誰も自分で自分の心を守ることはできません。私たちは神の力で守られなければなりません。そして、祈りによって私たちはその力を自分のものにするのです。私たちは祈りの時、ひざまずき、手を組み、目を閉じます。それは、「私は自分の力では立ち上がれません。歩けません。何も出来ません。何も分かりません」と、自分の無力を言い表す姿勢なのです。昔、イスラエルの男性たちは手を上げて祈りました。それは天にむかって祈りを差し出すという意味があったのでしょうが、日本的に受け取れば、「私はお手上げです」という意味かもしれません。実際、祈りにおいて、私たちは、「私はお手上げです。神様、あなたがしてください」と叫ぶのです。私たちは、そのようにして、祈りに答えてくださる神の力を求め、受け取るのです。祈りの力は神の力です。
三、キリストにある祈り
祈りの力を考える時、見逃してはならないことがもう一つあります。それは「キリストにあって」ということです。7節に「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いを<キリスト・イエスにあって>守ってくれます」とありました。「キリストにあって」とは、神はその平安をキリストを通して、キリストを信じる者たちに与えてくださるという意味です。イエスは私たちに約束してくださいました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)神の平安は、具体的には、キリストが十字架の救いによって勝ち取り、私たちに残してくださった平安です。神の平安をいただくためには、私たちと神との間に平和がなければなりません。罪の悔い改めと罪の赦しが、イエス・キリストの十字架によってはっきりとしたものになっていなければなりません。私たちは祈りの時、「イエス・キリストの名によって祈ります」と言いますが、それには「イエス・キリストを信じます。イエス・キリストを通して祈ります。神がイエス・キリストを通して、この祈りに答えてくださることを感謝します」という意味が込められているのです。祈りは、どの人の心にもあります。クリスチャンでない方も手紙に「ご病気が回復されますようお祈りいたします」などと書くことがありますが、実際には誰に、どのように祈っていいかわからずにいるのです。その祈りの心を、神に向けていきましょう。「イエス・キリストによって」と祈っていきましょう。そうすれば、「イエス・キリストにあって」祈りの答えを持つことができるのです。
「イエス・キリストにあって」祈るというのには、イエス・キリストを信じる者たちが、お互いに他の人々のために祈ることができるという意味もあります。ひとりびとりがイエス・キリストにつながっているなら、お互いもイエス・キリストによってつながっているのです。そして、お互いがお互いのために祈る祈りは、イエス・キリストを介して、互いに影響を与え合うのです。私たちが、大変な状況の中で不思議と落ち着きを与えられ、困難を乗り越えることができた時、かならずと言っていいほど、誰かがどこかで私たちのために祈っていてくれています。
こんな実際の話があります。ある宣教師がアフリカの小さな診療所で働いていたのですが、彼は、二週間おきに町まで二日かけて、生活物資や診療所で使う薬の買出しにいっていました。途中、野宿をしなければなりませんでした。この宣教師がいつも決まって町に買出しに行くのを知っていた町のならず者たちが、野宿して寝入っている宣教師を襲って、金品を奪おうとしたのですが、なんと、彼の周りに二十六人の護衛がいたので、彼らは勝ち目がないと思って逃げ出してしまいました。この宣教師は、町に行った時、そのならず者のひとりがけんかをして怪我をしているのを、手当てをしてやって、そのことを聞いたのです。宣教師は、その時、この不思議な出来事はきっと神の守りに違いないと確信して、神に感謝しました。
このことがあって、しばらして宣教師は帰国して、ミシガンの自分の教会で、この話をしました。すると、ある男性が興奮して「それはいつ起きたのですか」と尋ねました。すると、その男性は、その時間をアメリカの時間に換算して、「あなたがならず者に襲われたちょうどその時間に、私たちはあなたのために祈っていました」と言いました。そして、彼は皆に向かって言いました。「その時、一緒に祈っていた人は、皆ここに来ているはずです。立ってください」と言いました。宣教師が立ち上がった人を数えたら、なんと二十六人でした。宣教師をガードしていた二十六人の護衛の数と同じだったので、一同は、神が人々の祈りを用いて宣教師を守ってくださったことを確信することができました。キリストにある祈りは、遠くアフリカにまで届いて、宣教師の命を守ったのです。
神は、今も、私たちの祈りに答えて、私たちの生活を、私たちの心を必ず守ってくださいます。ですから、私たちも自分のため、他の人のため、祈り続けていこうではありませんか。
(祈り)
天の父よ、私たちの主イエスは、私たちの悲しみを喜びに、恐れを平安に変えるため、十字架の道を歩んでくださいました。そして主は、私たちに、私たちの心を守る、主の平安を残してくださいました。ですから、思い煩いがやってくるたびに、それを祈りによってあなたのもとに携えていくことを教えつづけてください。明日から始まる連鎖祈祷「祈りの花束」を祝福し、私たちに祈りの力を見せ、祈ることをもっともっと喜ぶものとしてください。主イエスの御名で祈ります。
4/1/2001