4:14 それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。
4:15 ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。
4:16 テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。
4:17 私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。
4:18 私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。
4:19 また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。
新約聖書の中には、アカウンティング、会計に関する用語が数多く出てきます。「銀行」「デポジット」「利益」「損失」「利息」「収支」「勘定」「借金」「返済」「免除」「信用」などなど、一つ一つのことばの意味を調べていくと大変興味深いものがあります。たとえば、聖霊が「デポジット」であるとか、罪が「借金」であるとかいうふうに、経済用語が霊的な真理をあらわすために用いられています。新約聖書にこうしたことばが頻繁に使われているのは、新約聖書で使われているギリシャ語が、ホメロスの書いた「イリアド」や「オデュセイ」などといった難しい古典文学のギリシャ語でなく、当時、商売取引に用いられていた、民衆のギリシャ語だったからだろうと思われます。このようなギリシャ語を「共通の」と言う意味で「コイネー・グリーク」と言います。英語で "It's all Greek to me."(「それはギリシャ語だよ」) というと、「ちんぷんかんぷんで全くわからない」という意味ですが、聖書はギリシャ語で書かれていても、私たちに「ちんぷんかんぷんな」書物ではありません。むしろ、ひとりでも多くの人々にキリストの救いがわかるようにと民衆のことばで書かれ、霊的な真理が、日常の用語で解き明かされているものなのです。
今日の個所は、使徒パウロがピリピの教会から受け取った贈り物に対する感謝がしるされているのですが、その中に「私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです」(17節)という一節があり、ここにも「収支」あるいは「アカウント」という会計用語が使われています。この個所もまた、アカウンティングの用語で霊的な真理を解き明かしているのですが、それと同時に、クリスチャンのアカウンティング、金銭の管理そのものをも教えている個所です。今朝はここから、クリスチャンが神にささげる「献金」の意味について学ぶことにしましょう。
一、献金は返金
クリスチャンが礼拝でささげる「献金」は、もちろん、私たちの神への感謝を形に表わしたものであり、また、私たちの献身を表わしたものです。献金は礼拝への入場料でも、説教の聴講料でもありません。礼拝はお金集めの場所ではありません。しかし、なお、礼拝の中に「献金」があるのは、神を価値あるものであがめるためです。旧約の時代には、家畜や穀物が物の価値を表わしましたので、それらが礼拝でささげられました。現代は金銭が価値を表わしますので、金銭をささげるのです。「礼拝」は英語で "worship" ですが、これは "worth"(価値)あるいは "worthy"(価値のある、尊敬にふさわしい)ということばからきたものだと言われています。すべての栄光と誉れにふさわしい神を、それにふさわしいお方として礼拝するために、金銭をささげるのは意味のあることです。
しかし、私たちのささげる献金も、もとはといえば、神が私たちに与えてくださったものです。神を認めない人は「これは俺が自分の力で稼いだのだ」と言うかもしれません。しかし、その人に仕事をする能力と、機会と、そして健康を与えてくださったのは神です。聖書に「いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。」(コリント第一4:7、口語訳)とあるように、私たちの持っているものはすべて神からいただいたものなのです。私たちのささげる献金も、もともとは神のものなのです。ですから韓国のある牧師は「献金は神のものを神にお返しするもの、返金だ」と言いました。
旧約時代、神は、神の民に与えられたものの「十分の一」を神に返すように命じられました。十分の一どころか、十分の十、すべてが神のものなのですから、十分の九、90パーセントを神に返し、10パーセントを自分のものとしても当然なのに、神は、神の民に90パーセントを与え、ご自分は10パーセントしかお取りにならなかったのです。私たちは、献金をする時に、このような神の恵みを覚えて、神のものを神にお返しするという、へりくだった心で、自らすすんでさせていただきたく思います。
二、献金は貯蓄
聖書が献金について教える第二のことは、それは「貯蓄」だということです。イエスは言われました。「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。」(マタイ6:19-20)これは、貯金したり、保険に入ったり、ストックに投資したりしてはいけないと言っているのではありません。将来のため、緊急なことのためにある程度の蓄えをもって備えていることは、神の守りを信じない不信仰なことと言うより、他の人に迷惑をかけないようにという愛の行為です。しかし、神にお返しすべきものまでも自分のものとして、ひたすら金銭を蓄えることだけに熱中するなら、それは、神に仕えているのでなく、富に仕えていることになるのです。
聖書は、地上の銀行に蓄えをするだけでなく、天にも蓄えておきなさいと言っています。ひとつのところだけに全財産を預けるのはリスクが高すぎます。一番安全な「天国銀行」にあなたの財産を預けなさいと教えているのです。天国の銀行はつぶれることがないからです。私たちが、神のために、人々のために与えるお金は、そっくりそのまま天にある私たちのアカウントに積み立てられているのです。私たちは、やがて、天国に行く時、そこに利子がついて大きなものになっているのを見ることができるでしょう。ですから、献金は、「支出」の欄にではなく、「貯蓄」の欄に書き込むべきものでしょうね。本来は神にお返しすべきものを、神は、天で私たちのために積み立てていてくださる、この神のあわれみを思って、もっともっと天に宝を積むものとなりましょう。
三、献金は投資
第三に献金は投資であり、それは「配当」となって帰ってくるということを学びましょう。献金が投資であるというのは、 私たちの献金は神の事業、つまり、伝道、宣教に用いられるからです。私たちは、私たちのささげるものによって神がこの世界を救おうとしておられる大事業、神のビジネスに参加することができるのです。投資をしたら、その配当を得るように、神もまた、神のビジネス、伝道、宣教のためにささげる人々に霊的な配当や物質的な配当を約束してくださっているのです。
17節は、新改訳聖書では「私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです」(17節)と訳されていますが、口語訳では「わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしていく果実なのである」とあります。口語訳のほうが原語に近いように思います。ある英語の訳では「勘定をふやしていく果実」を "profit added to your account" としています。神は、私たちが、神のために献金をしたからといって、それでわたしたちを貧しくするようなお方ではありません。献金は、貯金であり、投資なのですから、その利息が、配当が、神によってささげる者のアカウントに振り込まれるので、ささげる者のアカウントは、絶対に赤字にならないのです。赤字にならないどころか、それは元金以上に増えていくのです。私と家内は何度もそのような体験をしました。皆さんも同じような体験をしてこられ、神の真実を経済生活でも味わってこられたことと思います。私たちの先輩もそのことをあかししています。
カリフォルニアの日系人は最初、ほとんどが貧しく、大変苦しい生活をしていました。けれども、皆よく働き、特にクリスチャンはわずかな収入しかなかった時でも、忠実に神にささげました。みんなでお金を出し合って土地を買い、建物を建て、教会を守ってきました。そして、主もまた、彼らを祝福してくださり、日系人はカリフォルニアに根をおろすことができるようになりました。しかし、日系人がアメリカで立場を得ようとしていた矢先、アメリカと日本の間に戦争がはじまり、日系人は大変な中を通らなければなりませんでした。強制立ち退きによって、日系人とその家族は、マンザナやポストンといった人里離れた施設に入らなければなりませんでした。ロスアンゼルスの日系博物館に行った時に、ちょうどそこに収容所の建物の一部が保存されていて、そこにそのまま運ばれてきており、それを見ることができました。それらの施設はたいへん粗末な板張りのバラックで、夏はどんなに暑く、冬はどんなに寒かったろうと思いました。小さな部屋で、いくつもの家族が間仕切りなしでいっしょに暮らさなければなりませんでした。それに、こうした施設は鉄縄文で囲まれ、見張りの塔が立てられていました。日系人が強制収容されたのは、それによって日系人が心無い人から迫害を受けずに済んだという面もあるのでしょうが、自由と平等を尊ぶアメリカで、同じアメリカ市民が自由と権利を奪われたというのは、本当に大変なことだったでしょう。しかし、収容所の中でもクリスチャンは共に集まり、一日も早く平和が来るように祈ったと聞いています。
戦争が終わり、ある人は収容所から、ある人はヨーロッパ戦線から帰ってきました。ヨーロッパに行った二世部隊のほとんどは負傷しており、満足なからだで帰ってこれた人々は少なかったそうです。しかし、彼らの負傷したからだが、日系人のアメリカに対する忠誠のあかしとなったのです。もうすぐ、メモリアル・デーがやってきますが、私たちは、二世の方々のこうした犠牲があって、日系人、また日本人のコミュニティがアメリカ社会に受け入れられるようになったということを忘れてはならないと思います。
戦後、人々は閉鎖されていた教会を再建し、自分たちのものもままならない時に、神のために金銭をささげ、時間をささげ、労力をささげ、祈りをささげてくださいました。みんな暗くなるまで農作業をし、それが終わったら、着替える間もなく、少々泥のついた着物のままでしたが、祈り会にかけつけ、祈りあったという話を多くの一世、二世の方々から伺いました。私たちの先輩が、自分の家のことは後回しにしても、神の家のこと、教会のことを第一にしてくださったので、教会が今日のように成長したのだと思います。私は、サンディエゴにいた時、一世、二世の方々をお尋ねして、そうしたご苦労を伺いましたが、そのどなたも今は、たいへん恵まれた生活をしていらっしゃいました。健康に恵まれ、長寿に恵まれ、家族に恵まれ、経済的にも恵まれていました。神は、ささげる者に、必ず報いてくださる、そのことを実際にこの眼で見ることができました。
サンタクララ教会でも、それは同じだろうと思います。英語部の二世の方々が今もお元気でご奉仕に励んでいてくださるのを見る時、神の真実を思います。日語部でも、ご主人を亡くされたり、仕事をなくされたりして、経済的に大変な中をとおってこられた方々のあかしを伺いました。時代や状況は違いますが、今もさまざまな困難の中を通られる方々がいらっしゃいます。しかし、どのあかしの結論も「神が必要を満たしてくださった」なのです。
忠実にささげるものに神は報いてくださるのです。私たちのささげるものは、神から受けたものをお返しするのにすぎません。しかし、神はそれを喜んで祝福してくださいます。私たちのささげる物は、金銭であれ、時間であれ、労力であれ、祈りであれ、それは無駄にはならないのです。それは神のもとに蓄えられ、何倍にもなって私たちのところに戻ってくるのです。神は、ささげる者の生活を保障してくださいます。ささげても、ささげても、神は私たちのアカウントに配当を入れて、それを増やしてくださるのです。人間の計算では、減っていくはずのアカウントが、信仰の計算によって増えていくのです。これが、17節で言われている「収支を償わせて余りある霊的祝福」また、「勘定をふやしていく果実」なのです。神は、霊的祝福も実際的祝福もくださるお方です。ですから、聖書はこう約束しています。「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(19節)私たちに決して乏しい思いはさせないと約束してくださっている神に信頼し、この後も歩んでいこうではありませんか。
(祈り)
父なる神様、あなたはわたしたちの必要をすべて満たしてくださるお方であることを感謝します。日々の生活の中で、不安や不満、思い煩いにとらわれそうになる時、あなたが私たちにどんなに真実であられるかを思いおこさせてください。どんな必要もあなたの元に祈りによって持って行き、心も魂も、生活の必要もあなたに満たされる私たちとしてください。私たちのために栄光の富をかちとり、私たちを真に豊かなものとしてくださったイエス・キリストの御名によって祈ります。
5/20/2001