3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
一、信仰の訓練
二十世紀最大のヴァイオリニストと呼ばれた ヤッシャ・ハイフェッツ(Jascha Heifetz)は三歳の時からヴァイオリンを弾き始め、八七歳で世を去るまで、毎日四時間づつ、かならず練習しました。計算すると生涯の間、十万時間以上もヴァイオリンを弾いていたことになります。一時間の演奏会に出るため、人目に触れないところで、その百倍もの練習を重ねていたのです。
ルネサンス時代の巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチは、人物を正確に描くため、人間のからだを徹底的に研究した人でした。彼は、ある時、ある人物の手を描こうとしたのですがどうしても思うように描くことができませんでした。その時、彼は、これだと思えるものを描くことができるまで、千本の手を描いたと伝えられています。
マイク・シグレタリは、シカゴ・ベア―ズでラインバッカーだった選手でした。彼は、プロ・フットボールの名誉の殿堂(Hall of Fame)入りしています。マイクはタックル破りの記録を持っているのですが、タックルをブレークするごとにヘルメットもブレークしたと言われています。それで、試合に出る時にはいつも、ヘルメットを三つ以上用意していたそうです。マイクは、また、いつ、どこにボールが来るかを正確に知っていました。マイクは、他の選手が家に帰った後、何時間も試合の記録フィルムを研究し、対戦相手の選手の動きを頭の中に叩き込みました。また、毎日ウェイト・トレーニングを欠かしませんでした。たった60分の、年に20回もない試合のために、彼は毎日、たゆまない訓練をしていたのです。
私たちは、素晴らしい芸術作品に触れ、そのみごとさに驚嘆するのですが、それが完成して人目に触れるまでの、芸術家の鍛錬を忘れがちです。スポーツ選手の超人的な技術に興奮するのですが、その背後にある、たゆまないトレーニングを見落としがちです。若者たちは、憧れのスポーツ選手を真似ます。有名なスポーツ選手が着ているのと同じユニフォームを身に着け、彼らが履いているのと同じシューズを履きます。バスケットボールならシュートする時のしぐさ、ベースボールならバットを構える時のしぐさなどを真似ます。しかし、それは、すべて試合の時の、人目に触れる姿でしかありません。若者たちは、その背後で、彼らがどんなに厳しいトレーニングを重ねているかを見てはいませんし、それを真似ようとはしません。マツイもイチローも、一朝一夕にヤンキースの主力打者、マリナーズの天才打者になったわけではないのです。もし、あこがれのスポーツ選手のようになりたいと思うなら、彼らの目に見えるしぐさを真似るのではなく、彼らの目に見えないところで行なっている訓練を真似る必要があるのです。
芸術の世界やスポーツの世界で真実なことは、信仰の世界ではもっと真実です。もし、キリストのようになりたいと願うなら、わたしたちはキリストが通ってこられた訓練にならう必要があるのです。ヘブル人への手紙に「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学んだ」(ヘブル5:7-8)とあります。キリストでさえ敬虔のための訓練を受けたのなら、私たちがそれを受けなくてよいわけはありません。先週は、「肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」(テモテ第一4:8)とのみことばを学びました。「敬虔のための訓練」をいつも忘れずにいたいと思います。
二、親密さの訓練
フィットネス・クラブに入ると、それぞれの健康状態に応じて、それぞれに違ったトレーニングを受けます。今まで運動をしたことのない人が急に激しい運動をすると、かえって健康を損ないますし、高齢の人が若い人と同じようなことをしたら、たちまち体力を消耗してしまうでしょう。ひとりびとり、異なったペースで、違ったトレーニングを受けます。信仰の訓練も同様で、私たちのすべてを知っておられる神は、それぞれの必要に応じて、また、その信仰の成長の度合いに応じて、それぞれに違った訓練をお与えになります。しかし、同時に、神がどの人にも求められる基本的な訓練、共通の訓練というものもあります。それが何であるかについては、多くの人が、さまざまな提案をしていますが、チャック・スウィンドル先生が "So, You Want to Be Like Christ?" という本の中であげている八つの基本的な訓練が、現代の私たちには、どれもとても大切なものに思えましたので、私は、このリストにそって七月と八月の礼拝のメッセージを準備しました。その八つとは、「神との親密さ」「シンプルであること」「沈黙と孤独」「明け渡し」「祈り」「謙遜」「自制」「犠牲」です。
第一の訓練は「神との親密さ」("Intimacy")の訓練です。これは、別の表現をするなら、より深く神を知るということです。クリスチャンであるなら、誰もが神を知っています。神が存在され、神が私たちを創造され、神が私たちを愛し、導き、養っていてくださることを知っています。しかし、私たちは、神の存在の奥義をどれだけ深く知っているでしょうか。神がこの世界をはるかに越えて偉大なお方であり、その存在が、私たちの存在とはくらべもにならないほど、栄光に満ちたものであるかを知っているでしょうか。
また、私たちは、イエス・キリストをどれほど深く知っているでしょうか。夏期修養会では、福澤先生が、コリント第二5:16の「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」ということばを引用して、キリストを、人間の尺度で通り一遍に知るというのでなく、信仰によって、神として、主として、もっと深く知るようにと、とても大切なことを勧めてくださいました。これはとても大切なことです。みなさんは、そのようにイエス・キリストを知っているでしょうか。
聖霊についてはどうでしょうか。使徒パウロは、エペソに来たとき、ある弟子たちに会い、「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねましたが、その人たちは「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」(使徒19:2)と答えました。私たちもその人たちと同じように、聖霊について何も知らないでいませんか。聖霊のことを知らないでいて、私たちは、決して神と深くまじわり、霊的な体験をすることはできないのです。私たちは、今年、「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」(ホセア6:3)とのみことばを標語に掲げています。ほんとうの意味で主を知る、さらに深く主を知るものとなる、そんな訓練を、すすんで受けようではありませんか。
スウィンドル先生は、主を知る訓練を、第二次大戦の時、沖縄で受けました。当時、スウィンドル先生は、デーリシティに住み、サンフランシスコで軍の仕事をし、日曜日にはペニンスラ・バイブル・チャーチに通い、マウント・ハーモン修養会にも出席する、真面目なクリスチャンでした。人間の目から見れば、模範的なクリスチャンだったかもしれません。しかし、神は、スウィンドル先生が表面的にキリストを知ることで満足しないように、さらに深く主を知る者になるよう、計画を立てておられました。そのために、神は、スウィンドル先生を沖縄に送ったのです。スウィンドル先生は、そこで、ピリピ3:10-11「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」とのみことばを与えられました。「キリストを知る。」その時から、それが、スウィンドル先生の人生の目的となったのです。神は、私たちともっと親しく、もっと深い関係を持つことを求めておられます。親しく、深い関係というのは、互いに互いを知り合っている関係のことです。神のほうでは、私たちのすべてをご存知です。しかし、私たちのほうは、ほとんど神を知っていないのです。神は、私たちが、神をもっと深く知るようにと願っておられます。そして、私たちがさらに主を知ることができるようにと、訓練をお与えくださるのです。
「訓練」は、人に好まれるものではありません。神のくださる訓練には、人間的には「なぜこんなことが?」と即座には理解できないこともあります。どんなに考えても納得のいかないことが次から次へと起こって来る中で、混乱してしまうこともあります。しかし、その混乱の只中でこそ、私たちは、主権者である神をより深く知ることが出来るようになるのです。大きな悲しみの中に投げ込まれることもありますが、そこでこそ神から来る本当の喜びを知ることができるのです。私たちの身の回りに起こる多くのことは、それによって、私たちがより神を知り、より神を愛し、より神と親密なものとなるための訓練です。聖霊は、さまざまな訓練を用いて私たちを神に近づけてくださるのです。
三、シンプルさの訓練
スウィンドル先生が挙げた第二の訓練は "Simplicity"(シンプルさ)です。「シンプル」というと、あまりいい意味で使われません。「単純で、だまされやすい」「教養がない」などといったふうに使われますが、聖書では「シンプル」というのは、「目標が定まっている」「心が分裂していない」「思いと生活が統合されている」といった意味で使われています。ピリピ3:10-11はスウィンドル先生の生涯を導くことばとなったものですが、そのすぐあと、12節から、こう書かれています。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」(ピリピ3:12-14)13節の「ただ、この一事に励んでいます。」14節の「目標を目ざして一心に走っているのです。」という部分に、"Simplicity" が表現されています。「この一事に励む」、「一心に走る」と言っても、自分を反省することも、軌道修正もすることもなく、また、回りの人々のことも全くお構いなく、突っ走るということではありません。よく祈り、よく考え、人々への配慮を忘れないでいて、しかも、自分の目指すものをしっかりと見つめ、走るべき道を走りぬくということです。
しかし、現代は、「この一事に」「一心に」ということを実行するのが難しい時代です。第一に、あまりにも多くの活動があって、そのどれにも断り切れないでいるという現実があります。10時に友達とショッピングをして1時に子どもを、こどもの友だちの誕生パーティに連れて行き、5時からは、ご主人の職場のパーティにといったふうに過ごしている人も多いようです。第二に、多くの人は、予定表を埋めることはしてもそれをブランクにするのを好みません。空いている時間があると、すぐそこに活動を入れてしまうのです。私たちには休みが必要です。特にクリスチャンには、神とともに憩う安息の時が必要です。休みなく動き回ることによって、内面が空虚なものになり、身も心も疲れて活力を失うのです。予定表に、しっかりと「休み」と書き込むのをためらってはなりません。第三に、あまりにも、あれこれのことに手を出しすぎて、どれも中途半端になり、何事かをやりとげたという達成感を得られないでいるということもあるでしょう。第四に、多くのものを手に入れるかわりに負債で苦しんでいる人々がいます。手元にお金がなくても、クレディットで何でも手に入ります。それで、欲しいと思うものを次々に手に入れるのですが、その分だけ借金がふくれあがっていくのです。そうすると、心がお金のほうに向かっていって、「この一事に」「一心に」神に仕えることができなくなるのです。人は神と富とに兼ね仕えることができないからです。第五に、現代のテクノロジーが、私たちを忙しくさせています。Eメールは便利で、私もそれを活用していますが、Eメールのおかげで忙しくなっているということがあります。多くの人が、会社に行ってまずすることは、おそらくEメールをチェックすることでしょう。何十通もあるメールを読み、返事を書いていると一時間ぐらいは、すぐたってしまいます。家に帰れば帰ったで、まず向かうところはコンピュータで、今度は、パーソナルなEメールをチェックするというのが、多くの人々の生活パターンになっているようです。今ごろは、空港でも、ホテルでもコーヒーショップでも、ワイヤレスでインターネットに接続できますので、ヴァケーションで出かけていても、Eメールから逃れられないのです。
こんな話があります。あるお金持ちが、飛行機に乗るために空港に来ました。ところが、あまり急いでいたので、腕時計を忘れてしまったのです。それで、近くにいた人に「今、何時ですか。」と聞きました。その人は、肩にかけていた大きくて、重いバッグをを降ろしてから、自分の腕時計を見ながら言いました。「午後2時16分ですが、どちらにおいでになるんですか。」腕時計を忘れた人が「東京です。」と答えると、その人は、もう一度腕時計を見て、「東京は、今午前6時16分で、気温は85度。1ドルは110円ですよ。」と教えてくれました。今では、そんな時計があっても不思議ではないのですが、それは10年ほどの前のことでしたので、お金持ちは、とても驚いて「あなたの時計はすごいですね。こんなに小さいのに、そんなことまで分かるんですか。」と言いました。すると、その人は、「いや、実際はもっといろんなことができるんですよ。これを腕につけていれば、脈拍や血圧はもとより、健康状態までわかるし、何カ国語も通訳してくれます。」と言いました。お金持ちは、それを聞いて、その時計を欲しくなって言いました。「私は、時計を忘れてきたんです。私にその時計を譲ってくれませんか。五千ドル出してもいいですよ。」と言いました。その人は「これは、息子にあげるために、私が発明したもので、売り物ではないのです。」と答えましたが、その金持ちが「一万ドル出しましょう。ぜひ譲って欲しい。」と言ったものですから、その人は、一万ドルで、自分の発明した腕時計を売ることになりました。金持ちはその時計を受け取って、大喜びで、自分の飛行機が飛び立つゲートに向かおうとしましたが、その時、その発明家は、金持ちの腕をつかんで、引き留め、あの大きくて、重いバッグを、金持ちの肩にかけて、こう言いました。「これが、その時計の電池です。これがなければ、時計は動きません。」
このジョークの意味はお分かりですね。私たちは、便利さと引き換えに、実は大きな重荷を背負わされることになるということです。通勤用に、レジャー用にと、車が何台もあれば便利かもしれません。しかし、それによって私たちは、あの車の管理、この車の管理と、心が分かれてしまうのです。夏は海辺に別荘が、冬は、スキー場に別荘があればどんなに素敵なことでしょうか。しかし、財産を多く持てば持つほど、そのための思い煩いが増えます。神を知るために、より、神に近づくために、無ければ無くてもよいものがきっとあるはずです。私たちの持ち物を、私たちのスケジュールを、もういちど点検してみましょう。ヘブル人への手紙には「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」(ヘブル12:2)とあります。信仰のレースを走りぬくことを妨げるものは、目に見えるものばかりではありません。心の中にも、整理しなければならない余分なものがいっぱいたまっているかもしれません。思い煩いという重荷を背負っていては信仰のレースを走ることはできません。あれもしたい、これもしたいという欲求ばかりを追い求めていては、そのためにレースを走り抜く力を消耗してしまいます。罪という余分なものを捨てなければ、それがまとわりついて、きっとどこかで躓いて倒れるでしょう。スポーツ選手が身につけるユニフォームには、それぞれの競技にもっともふさわしいシンプルなもので、そこには余分なものは何一つありません。私たちも、私たちの生活と心を点検し、思い切ってジャンクを捨て去りましょう。そして、「この一事に励み」「一心に走る」態勢を整え、主が備えてくださった信仰のレースを走り抜こうではありませんか。
(祈り)
父なる神さま、あなたの訓練が、よりあなたを知るため、よりあなたを深く知り、そしてあなたに近づくためのものであることを今朝教えられました。そのために、分かれた心ではなく、ひとつの心を持つようにと教えてくださいました。しかし、私たちが自分の力でそれをしようとしても、決してそれをすることはできないでしょう。あなたを待ち望み、キリストに信頼し、御霊の力によって、あなたの訓練を受けることができるよう、助けてください。あなたをさらに親しく知ることができますよう導いてください。そのために、余分なものを捨て去り、一心にあなたを求めることができるようにしてください。主イエスのお名前で祈ります。
7/17/2005