3:10 すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、
3:11 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。
3:12 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
3:13 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
3:14 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
3:15 だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。
3:16 ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。
3:17 兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。
一、キリストの苦難と日本人
芥川龍之介の小説に『おしの』という作品があります。江戸時代、「しの」という武家の未亡人が南蛮寺を訪ねました。彼女の15歳の息子が重病になり、さまざまな神仏に祈りましたが、さらに、南蛮の如来、磔仏の力にもすがりに来たのです。
それを聞いた神父は言いました。「お気をつけなさい。観音、釈迦八幡、天神、――あなたがたの崇めるのは皆木や石の偶像です。まことの神、まことの天主はただ一人しか居られません。お子さんを殺すのも助けるのもデウスの御思召し一つです。偶像の知ることではありません。もしお子さんが大事ならば、偶像に祈るのはおやめなさい。」
「まことの神をお信じなさい。まことの神はジュデアの国、ベレンの里にお生まれになったジェズス・キリストばかりです。そのほかに神はありません。あると思うのは悪魔です。堕落した天使の変化です。ジェズスは我々を救うために、磔木にさえおん身をおかけになりました。御覧なさい。あのおん姿を」と言って、ステンドグラスに描かれた十字架のキリストを指し示しました。
神父は続けて言いました。「ジェズスは我々の罪を浄め、我々の魂を救うために地上へ御降誕なすったのです。お聞きなさい、御一生の御艱難辛苦を!」そして、降誕からはじめて、イエスの十字架上の言葉に及びました。神父は言いました。「考えても御覧なさい。ジェズスは二人の盗人と一しょに、磔木におかかりなすったのです。その時のおん悲しみ、その時のおん苦しみ、――我々は今想いやるさえ、肉が震えずにはいられません。殊に勿体ない気のするのは磔木の上からお叫びになったジェズスの最後のおん言葉です。エリ、エリ、ラマサバクタニ、――これを解けばわが神、わが神、何ぞ我を捨て給うや?……」
ところが、それを聞いたおしのは血相を変えてこう言ったのです。「まことの天主、南蛮の如来とはそう云うものでございますか?わたくしの夫は…一度も敵の前に後ろを見せたことはございません。…それを何ぞや天主ともあろうに、たとい磔木にかけられたにせよ、かごとがましい声を出すとは見下げ果てたやつでございます。そう云う臆病ものを崇める宗旨に何の取柄がございましょう?またそう云う臆病ものの流れを汲んだあなたとなれば、…手前も倅の病は見せられません。…このようなことを知っていれば、わざわざここまでは来まいものを、――それだけは口惜しゅうございます。」そう言い残して彼女は去って行きました。
芥川はこの作品で、キリストの苦難が福音の最も中心的なメッセージであるのに、それが日本人の心に届かないというジレンマを描いています。それは、聖書を読み、それに心を惹かれながらも、ついにキリストを信じることなく、自殺していった当時の知識人の思いを代弁したものだと思います。
古代から教会で歌いつがれている「栄光の賛歌」には、「あなたこそ聖く、主であり、いと高きお方、イエス・キリストよ」とあります。日本の文化には、神について、この賛歌で歌われているような、あらゆるものを超えた「いと高きお方」や、どこまでも「正しく」、どこまでも「きよい」お方という概念はありません。日本の多くの神々は、とても人間的で、わがままで乱暴です。日本の祭りの多くはそうした「荒ぶる神々」を宥めるために行われたと言われています。中には神仏を痛めつけて願いを聞かせるという風習さえあります。それでいて、神が人となられたことや、罪人の立場さえとって、その身代わりに死なれたことを受け入れようとはしなかったのです。
二、キリストの苦難と悔い改め
なぜ、キリストのお苦しみが日本人には受け入れにくのでしょうか。それは、キリストを苦しめたのが人間の罪であって、キリストの苦難の姿を見るとき、そこに自分の罪が示されるからです。キリストは自ら進んで十字架を負われたとはいえ、聖なる神の御子を十字架に追いやったのは、わたしたちひとりびとりの罪です。それは、二千年前のユダヤの宗教指導者や群衆、またローマの総督や兵士たちの罪だけではありません。わたしたちもまた、群衆と共に「十字架につけよ」と叫び、ピラトと一緒に、イエスを十字架に引き渡し、兵士といっしょにイエスに鞭をふるい、その頭を茨で刺し、その両手両足に釘を打ち込んだのです。水野源三の次の詩のとうりです。
ナザレのイエスを
十字架にかけよと
要求した人
許可した人
執行した人
それらの人の中に
私がいる
ペンテコステの日、ペテロは、ユダヤの人々を目の前にして「あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した」(使徒2:23)と言い放ちました。聖霊を受ける前のペテロなら、とてもそんなことは言えませんでした。ペテロもまた、大祭司の審問を受けているイエスの前で、人々を恐れ、「わたしはあの人を知らない」と言って、自分を守ろうとしたからです。しかし、聖霊を受けたペテロは、聖霊が語らせるままに、人々の罪を責めました。そして、それを聞いた、ユダヤの人々も、自分たちの罪を認め、悔い改めたのです。
福音が語られ、イエス・キリストの十字架が示されるとき、真っ直ぐに罪を認め、赦しを乞うなら、つまり、悔い改めるなら、そこに救いが起こります。それはユダヤ人であっても、日本人であっても変わりません。芥川の小説のおしのが悔い改めに至らなかったのは、「罪」が分からなかったからです。彼女は、敵に背を向けることや、戦いを投げ出すことをなによりも「恥」と考えました。日本の文化では、「罪」よりも「恥」を嫌います。「罪」とは、神のみこころにそぐわないこと、それに反することです。ですから、それは神に対して悔い改め、赦していただくことによって、解決があります。しかし、「恥」は、自分の信念や社会の通念と違うことをすることです。ですから、日本の文化では、「恥」は人目に触れることがないよう、覆い隠す以外に解決の方法がないと考えました。神の目よりも人の目のほうが重んじられますから、いったん人目に触れたなら、何の解決も、希望もないと考えられたのです。
しかし、福音には希望があります。それはわたしたちの罪を責めますが、それだけで終わりません。福音は、悔い改める者に「赦し」を宣言するのです。その「赦し」はどこから来るのでしょう。わたしたちのために苦難を味わい、大勢の人の前で、いや全世界にその「恥」を晒されたイエス・キリストから来るのです。ですから、人々が最も「恥」とするキリストの十字架を、わたしたちは「誇り」とします。「罪の赦し」は、わたしたちの「恥」をさえ取り除くのです。
三、キリストの苦難とコイノニア
さて、きょうの箇所ですが、ここで使われている「コイノニア」は「キリストの苦難のコイノニア」です。パウロは、「わたしはそれを追い求めている。クリスチャンのすべてに、わたしと同じように求めて欲しい」と言っています。では、キリストの苦難の「コイノニア」とは、何なのでしょうか。
第一に、それは「罪の赦し」にあります。わたしたちのどんな努力も、善良さも、罪の赦しをもたらすことはできません。キリストがわたしの身代わりに罪の刑罰を受け、苦しみ抜いてくださった、そのお苦しみに「赦し」があります。わたしたちは、悔い改めと信仰によってこの「罪の赦し」を受けます。そこにキリストの苦難との「コイノニア」が始まるのです。
ノース・カロライナのビリー・グラハム・ライブラリーの入り口は十字架の形をしています。十字架を通らなければ、中に入れません。同じように、キリストの苦難との「コイノニア」(関わり)がなければ、「罪の赦し」に基づいた救いの世界に入ることはできないのです。
第二に、キリストの苦難の「コイノニア」は「きよめ」のうちにあります。わたしたちは自分の罪に苦しみ、そこから解放されたいと願って、イエス・キリストを信じました。そして罪を赦されました。そうであるなら、同じ罪に留まっていたいと思うでしょうか。いいえ、そこから離れ、二度と同じ罪に戻っていかないようと願うでしょう。しかし、そう願いながらも、まだ肉と世の力のもとにあるわたしたちは、赦されたはずの罪を繰り返し犯してしまうことがあるのです。そんなとき、聖霊は、わたしたちの霊とともに悲しみます。そして、わたしたちをキリストのご受難へと導きます。十字架の血が、赦しのためばかりでなく、きよめのためにも流されたことを教えてくださるのです。わたしたちは、キリストの苦難の「コイノニア」の中で、その血の力を受けるのです。
「赦し」も「きよめ」もともにキリストの苦難から来ます。赦されるのは信仰によってだが、きよめられるのは自分の努力だというような分け方はできません。両方とも、信仰によるのであり、その信仰は、悔い改めや努力などに具体的に表われる、真実、真剣なものでなければなりません。聖霊は、罪と闘う、わたしたちの苦闘を通して、わたしたちをきよめ、キリストの苦難の「コイノニア」を体験させてくださるのです。
第三に、キリストの苦難の「コイノニア」は、宣教や奉仕に伴う苦しみを共にすることの中にあります。一世紀の後半、わずか一世代の間に、キリストの福音は多くの人々に受け入れられ、またたくまに、ローマ帝国内に広がりました。けれども、そこには、まことの神とローマの神々、イエス・キリストとローマ皇帝、きよい生き方と放縦な生き方、神の真理と人間の知恵などの衝突が起こりました。そのような中で、福音を伝え、教会を建てあげるための奉仕においては、苦しみを避けることはできませんでした。
パウロは、そうした福音の宣教やミニストリーのための苦難を受けることを、「キリストの苦難のコイノニア」と呼んだのです。コロサイ1:24にこうあります。「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」「キリストの苦しみの欠けたところ」とはどういう意味でしょうか。キリストの十字架の苦しみに何か足らないものがあるでしょうか。いいえ、それはすべての人を救うのに十分なものです。ここで言っている「苦しみ」は、十字架の苦しみではなく、福音が伝えられ、教会が建てられていく中での苦しみをさしています。パウロが、まだ「サウロ」という名前だったとき、彼は教会を迫害する者でした。そのサウロにキリストは現われて言われました。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」(使徒9:4)主は、「教会を」ではなく、「わたしを」を言われました。なぜなら、教会は「キリストのからだ」であって、教会を迫害することは、キリストを迫害することだからです。キリストは教会の苦しみをご自分の苦しみとして、今も、苦しんでいてくださるのです。ですから、教会がキリストのみこころにそって建てあげられるために、また、教会を通して福音が正しく伝えらるために、苦しみを味わうことが、キリストの苦難の「コイノニア」となるのです。
パウロはテモテにこう書きました。「だから、あなたは、わたしたちの主のあかしをすることや、わたしが主の囚人であることを、決して恥ずかしく思ってはならない。むしろ、神の力にささえられて、福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい。」(テモテ第二1:8)「福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい。」これは、パウロのテモテに対する願いであるばかりでなく、キリストの、わたしたちひとりひとりへの願いだと思います。罪の赦しを受け、「きよめ」を目指し、キリストと、その「からだ」である教会のために苦しみを共にする。そこにキリストとの「コイノニア」があります。「苦しみ」、それは誰にも喜ばれないものですが、それがキリストとの親密な「コイノニア」をもたらすのです。、キリストの苦難の「コイノニア」が与える喜びを味わうまで、わたしたちも、「苦しみ」を避けることなく、キリストとのコイノニアに留まっていたいと思います。
(祈り)
主よ、わたしたちは「苦しみ」を見つめ、その意味を考え、それに耐えることのない時代に生きています。キリストとの「コイノニア」が、キリストの苦難の「コイノニア」であるのに、苦しみを避けようとしています。そのため、キリストの苦しみの意味を悟らず、そこから生まれる救い、恵み、祝福、喜びを体験できないでいます。主よ、あなたはわたしたちを苦しみの中でも支えてくださる力あるお方、あわれみ深い方です。どうぞ、わたしたちを、キリストの苦難の「コイノニア」に留めてください。主イエスの御名で祈ります。
8/26/2018