3:1 最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。
3:2 どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。
3:3 神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。
3:4 ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
3:9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
あるミーティングでピリピ人への手紙をみんなで読んだのですが、その後「どこか心に留まったところがありましたか?」と質問しましたら、「3章2節の『犬に気をつけてください』というところです」という返事が返ってきました。実は、その時、ある人が友人を訪ねてその家のドアを開けたとたん、その家の飼い犬が訪問者の喉下に噛み付いてその人が死んでしまったという事件があったばかりだったのです。この事件はアクシデントではなく、人間に危害を加えるように犬を訓練していたのではないかということでその後も話題になりました。そんなわけで、そのミーティングでは、「犬に気をつけてください」という言葉に、みんなの目がとまったのです。
ピリピ3:2で言われている「犬」というのは、本当の犬ではなく「犬のような人」という意味です。「犬は人間の最良の友」と言われ、今でもヨーロッパでは犬が家族の一員のようにして大切にされています。また、「犬は三日飼うと飼い主の恩を忘れない」とも言われ、犬は「忠実で」「賢い」動物だとされています。しかし、聖書のバックグラウンドになっているユダヤの文化では、犬も迷惑だったし、愛犬家からはお叱りをうけそうですが、「犬」という言葉は「神を信じない不道徳な人々」という意味で、ユダヤの人々がユダヤ人以外の人々、つまり「異邦人」を軽蔑する時に使ったことばだったのです。
一、ユダヤ主義とパウロ
ところが、ここで、パウロが「犬」と呼んでいるのは、異邦人のことではなく、ある種のユダヤ人のことなのです。2節に「悪い働き人に気をつけてください」とあるように、この人たちは、教会の中に、キリストの教えを持たないで伝道者、教師として入り込んできた人たちでした。この人たちはパウロが伝道した教会に後から入ってきて「あなたがたもユダヤ人と同じように割礼を受け、ユダヤの戒律を守らなければ救われない」と教えはじめたのです。これは、イエス・キリストの教えを否定する重大事ですので、パウロはユダヤ人が異邦人を「犬」と呼んでいた時代に、ユダヤ人を犬と呼び、間違った教えによってクリスチャンから救いの喜びを奪い去ろうとする人々を警戒するように教えたのです。
「ユダヤ人のようにならなければ救われない」と言う人たちは「ユダヤ主義者」とか「律法主義者」と呼ばれました。「イエス・キリストはユダヤ人として生まれ、ユダヤの戒律を守られた。だからクリスチャンもユダヤの戒律(律法)を守るべきである、そうでないと、神の前に『義』(正しさ)を持つことは出来ない」というのが彼らの主張でした。異邦人のクリスチャンは、ユダヤから「偉い」先生が来て、言葉巧みに説得されると、案外簡単に「納得」してしまって、やがて、パウロの伝えた本来の教えから離れていったのです。
パウロが伝えた福音のメッセージは、彼らの教えとは違っていました。「どこの国の誰であっても、イエス・キリストを信じる信仰によって、そのままで救われる。」これが福音のメッセージです。別のことばで言い換えれば、「救われるためにユダヤ人のようになる必要がないばかりが、良い人間になる必要もない。あるがままでイエス・キリストを信じなさい。そうすれば救われて良い人間になれる。ユダヤの戒律を守る必要も、儀式を行ったり、修業を積んだりする必要もない。自分の努力をあきらめてイエス・キリストに信頼しなさい。そうすれば、あなたは神のことばに従う生活ができるようになる」とでも言うことが出来ます。これがパウロの伝えた福音だったのです。
パウロは、パウロの後から違った教えを教会に持ち込んできた「ユダヤ主義者」とたえず戦わなければなりませんでした。パウロの手紙にはどれも、この「ユダヤ主義者」との論争の跡を見ることができます。しかし、「パウロとユダヤ主義者との論争」というと、大学の哲学部の講義のようなタイトルで、現代の私たちに一体どう関係があるのかと思われることでしょう。この議論は、遠い昔の話のようでいて、実は、私たちに深い関係があるのです。
二、ユダヤ主義の誤り
第一に、遠い昔のユダヤ主義者も現代の私たちも、目に見えない信仰を目に見える儀式や戒律におきかえるという過ちを犯しています。「信仰」というギリシャ語は「真実」とも訳せます。神が私たちに真実であるから、私たちも神に対して真実である、それが「信仰」なのです。信仰というのは、人間の内面の最も深い部分にかかわることです。しかし、私たちの多くは、内面の真実を追究するのを面倒なこととし、避けて通ろうとします。。儀式や戒律は一見、窮屈そうに見えますが、それが習慣になってしまったら、さして苦労はなくなりますから、内面の信仰を問うよりも、外面の儀式を守り、戒律を守ればそれで良い、人々はそう考えるようになったのです。現代でも、真実に人を愛する愛を養うよりも、どうやったら人を喜ばせることを語ることができるかというテクニックだけがもてはやされています。
今、多くのクリスチャンは、四十日間のレントの期間を守っています。この期間、人々は禁酒禁煙をし、慎ましやかな食事をし、禁欲的に生活しようとします。それ自体は悪いことではありませんが、そうしている人々のうち多くは、何のためにそうするのかを忘れてしまっています。イエス・キリストの十字架の意味を深く想い見、十字架の力、恵みを自分の中に受け入れるというのが、本来のレントの過ごし方です。しかし、そういう内面的なことよりも、肉を食べないとか、コーヒーを飲まないとかいうことのほうが簡単なので、人々はそこに流れていくのです。
イエス・キリストへの心からの信仰なしに救いはありません。教会に来ることは必要なこと、良いことです。神の働きのために奉仕をしたり、献金することも良いことです。聖書を学ぶことも必要なこと、良いことです。しかし、いくら長年教会に通い、聖書の知識をたくさん蓄えたからといっても、それが人を救うのではありません。イエス・キリストの真実に真実をもってこたえていく、内面の信仰が、私たちには求められているのです。
第二に、ユダヤ主義も、現代人も人間の「プライド」が最大の関心事で、それを持ち上げようとします。聖書は「人間は罪人で自分の救いのために何一つできない。私たちは、ただキリストの恵みにより頼まなければならない」と教えていますが、こうした教えは、人間のプライドに反するものであり、人々が喜んで受け入れるものではありません。それで、ユダヤ主義者は「人間は神に主張することのできる善があり義がある。私たちは、自分の救いのために何かができるのだ」と言って、人間のプライドに訴えたのです。異邦人がユダヤの儀式を守り、戒律を守るというのは、「自分は、何か特別な者になったのだ、このことによって神の前に特権を持ったのだ」という気分にさせます。現代の私たちも、「人間は、本来善なのだ。その善を延ばしていけば、神のようにだってなれるのだ」と教育され、そう考えてきました。
しかし、本当にそうでしょうか。「人間は進化して神になる」どころか、動物のようになってきてはいませんか。動物でも子どもを守るために命がけで他の動物と戦います。なのに、人間の親は平気で子どもを殺すような時代になってきました。動物の世界は「弱肉強食」といわれますが、強い動物でも、えさにする以外はむやみと弱い動物を襲いません。ところが人間は、自分たちの欲望のために戦争を繰り返してきたではありませんか。私たちの救いのために必要なのは、偽りの「誇り、プライド」を捨て去り、もっと正直に自分を見つめ、謙虚になることなのです。
三、ユダヤ主義とキリストの救い
パウロがユダヤ主義者に反対したのは、パウロがユダヤ人として彼らに劣るところがあって、引け目を感じていたからでしょうか。そうではありません。パウロは「私はユダヤ主義者よりも、もっと生粋のユダヤ人だ」と言っています。ピリピ人への手紙3:4から読んでみましょう。「ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。」この個所の詳しい説明は省きますが、パウロが由緒正しいユダヤ人で、ユダヤの戒律を守ることにかけてはユダヤ主義者はその足元にもおよばないということが言われているのが分かりますね。パウロから見れば、クリスチャンにユダヤの戒律を守らせようとしている人々などは、中途半端な律法主義者でしかなかったのです。
だいたい、知識でもお金でもわずかばかり持っている人はそれをひけらかしたがるもので、本当に豊かに持っている人の方がむしろ、知識の限界や富のむなしさを感じているものです。パウロは、ユダヤ人としての特権を生まれながらに持っていた人でしたが、そうした民族としての特権が人を救うのではない、神の前には、誇るもの、自分は正しいと主張できるものは何もないということを、彼は痛いほどに知っていたのです。
パウロのように律法をとことん守ろうと必死の努力をした人は、人間の努力や行いもまた、人を正しい者とするものではない、人を救いに導くものではないということが良く分かるのです。私たちがどんなに努力して戒律を守ったとしても、それが私たちを正しくするものではないことは、聖書にはっきりと書いてあり、神を求めた人々の体験もそれをあかししています。
宗教改革者マルチン・ルターは、最も厳しい修道会、アウグスティヌス会に入って、学問的にも宗教的にも最高のものに到達するのですが、彼は、神に近づけば近づくほど、自分が醜く汚いものであることに悩むようになりました。そして、ついに人が神の前に正しいものとされるのは、断じて行いによってではない、信仰によってだという聖書の真理を再発見したのです。
北海道の塩狩峠というところで、列車事故が起こり、一人の鉄道員が自分の体を投げ出して暴走した列車を止めたという話は、皆さん、よくご存知ですね。明治時代にあったこの出来事は、三浦綾子さんによって『塩狩峠』という小説になり、それは映画にもなりました。小説では、この人は長野信夫という名前で呼ばれています。彼は「あなたの隣人を自分と同じように愛せよ」という神のことばを聞いた時、最初は、「自分は善良で、そんなことぐらいは出来る」と考えていたのですが、自分を苦しめる同僚に対して悪意をつのらせていく自分を発見し、ついには自分の力では神のことばを守りきれないのだということが分かるようになりました。そして、そのような自分を救ってくれるのがイエス・キリストであることを知り信じるようになったのです。長野信夫は、キリストが命を投げ出して自分を救ってくれた、その愛を知るものになりました。だからこそ、彼もまた、多くの乗客のために自分の命までも差し出すことができたのです。
パウロもまた、イエス・キリストに出会うまでは、自分の正しさを強く主張して生きてきました。彼は誰にもひけをとらないユダヤ人としての、人間としての「誇り」を持っていました。しかし、彼は、その「正しさ」によって人々を迫害し、その「誇り」によってキリストに逆らってきたのです。彼の「正しさ」や「誇り」は、人間の間で通用しても、神には通用しませんでした。彼の生まれつきの特権やその後の努力などは、キリストの救いに比べれば、誇りでもなんでもない、「ちりあくた」のようなもの、価値のないものでしかありませんでした。彼はこう言っています。「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」(3:7-9)「キリストを信じる信仰による義」これこそが神から、私たちへの宝の贈り物であり、私たちは、キリストを信じることによって、はじめて神の前に正しいものとされるのです。
人々はもっとお金を得ようとあくせくしています。知識を得ようと必死になっています。あるいは、自分を高めよう、より良い人間になろうと努力しています。しかし、私たちはそうした努力によって、神に受け入れられるのではありません。聖書は、私たちが今まで考えていたのと全く違った方法で人は正しいものとされ、救われると教えています。プライドを捨て、内面の信仰を求めていくことによって、キリストの救いを見出されますよう、心から祈ります。
(祈り)
父なる神様、私たちの生まれつきの性格や能力、また努力や行いによってではなく、イエス・キリストがくださる義によって、私たちはあなたの前に正しいものとされ、救いをいただくことができます。私たちは、そのことを受け入れようとせず、あなたの目からみれば「ちりあくた」にすぎないものにしがみついてきました。今朝、あなたが、イエス・キリストによって私たちに与えてくださるものが、どんなに大きな宝であるかを教えてくださり感謝いたします。私たちにへりくだりと真実を与え、あなたのくださる宝を受け入れ、それを喜ぶものとさせてください。私たちの主イエス・キリストのお名前で祈ります。
3/4/2001