2:25 しかし、私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデトは、あなたがたのところに送らねばならないと思っています。
2:26 彼は、あなたがたすべてを慕い求めており、また、自分の病気のことがあなたがたに伝わったことを気にしているからです。
2:27 ほんとうに、彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神は彼をあわれんでくださいました。彼ばかりでなく私をもあわれんで、私にとって悲しみに悲しみが重なることのないようにしてくださいました。
2:28 そこで、私は大急ぎで彼を送ります。あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。
2:29 ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、彼のような人々には尊敬を払いなさい。
2:30 なぜなら、彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。彼は私に対して、あなたがたが私に仕えることのできなかった分を果たそうとしたのです。
エパフロデトは、パウロによって「私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者」と呼ばれていますが、もうひとつ、「仕えてくれた人」、つまり「奉仕者」と呼ばれています。彼はまさに「仕える人」と呼ばれるにふさわしい人でした。 私たちは、年間聖句に「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」(ローマ12:11)を選び、キリストの良い奉仕者になりたいと励んでいますので、「仕える人」と呼ばれたエパフロデトから、奉仕について学んでみたいと思います。
一、足らないところに仕える
エパフロデトから学ぶ第一のことは、奉仕とは「足らないところに仕えること」だということです。パウロは、ピリピ人への手紙を書いている時、ローマで牢屋にいました。パウロが自由に伝道している時は、パウロをサポートする人も多かったのですが、囚人となって自由に伝道できなくなったとき、彼を支援する人は徐々に減っていきました。パウロは牢屋で何の伝道もできなかったのかというとそうではなく、囚人になっても、自分を訪ねてくる人々に福音を語り、自分のかわりにテモテや他の弟子たちを各地に遣わしていました。牢屋の中で手紙を書き諸教会にメッセージを届けていました。その牢屋はまるで、パウロ伝道団のオフイスのようでした。パウロは牢屋の中でも伝道を続けていたのです。ですから、パウロには、自分のためだけでなく、伝道活動のためのさまざまな必要がありました。そうした必要を察し率先して牢屋にいるパウロを支えたのがピリピの教会でした。ピリピの教会は必要なものを届け、身の回りの世話をさせるため、エパフロデトをパウロのもとに遣わしました。教会は、このように、いつの時代も、どこの国でも、神のために働く人々を物心両面で支えてきました。それによって働き人と信徒とが良い関係を持ち、ともにキリストに奉仕してきたのです。
パウロは、エパフロデトを「私の窮乏の時に仕えてくれた人」と呼んでいます。伝道のための資金が底をつき、パウロ自身も必要なものに事欠くようになり、弟子たちがみな伝道に出かけていたとき、エパフロデトが来てくれました。エパフロデトの到着は祈りの答えでした。それでパウロは、ピリピ人への手紙の最後に「私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。どうか、私たちの父なる神に御栄えがとこしえにありますように。アーメン。」(ピリピ4:18-20)と書いて、ピリピ教会の支援に感謝するとともに、あらゆる必要を満たしてくださる神を賛美しています。
皆さんも、忍耐して祈り続けていると、神が絶妙のタイミングで、必要なものを満たしてくださったという体験があることでしょう。私も家内も、日本で、アメリカで、神がまさに必要なものを、ちょうど必要なときにお与えくださるという体験をしてきました。必要としていたのと同じ金額の現金書留を受け取ったこともありましたし、不可能と思えるところに次々に道が開かれていったこともありました。アメリカに来る前、東京のある教会で奉仕していました。そのとき、私たちは生活に必要なものをほとんど持っていませんでしたし、その教会は特別な事情をかかえていて、気持ちはあっても私たちの生活費を十分にサポートすることができませんでした。しかし、冷蔵庫から家具にいたるまで、とても不思議な方法で手に入りました。新潟の教会からは、毎月、本場のおいしいコシヒカリやその他の名産、また現金も送っていただき、食べ物に事欠くことはありませんでした。教会もわずかな期間に回復し、牧師へのサポートを増やすことができるようになりました。
教会の隣の人が、長い間教会に対して反感を持っていて、新しい牧師が来たというので、さっそく不満をぶつけにきました。私たちは、それに対してできることをしただけですが、お隣の方はそれによって教会に対する反感を取り除いてくれました。そればかりでなく、この人が近所の人々に教会の良いことを言ってくれるので、近所の人たちは教会を尊んでくれるようになり、私たちにも敬意をはらってくれるようになりました。しばらくして、お隣の方から、小さなマンシャンに引っ越すことになったので、欲しい家具は何でももらってくれと頼まれました。私は、遠慮なく、教会のために応接セットをいただき、私たちのために整理たんすをいただきました。それは今も使っています。神は、私たちに必要なものをお与えになるのに、以前教会に反感を持っていた人さえも用いられたのです。私たちは、親切にしていただいたこともそうですが、お隣の方が、引っ越していかれる前に、教会に対する反感を取り除いてくれたことを本当に喜び、感謝しました。もし、教会に反感を持ったまま去って行ったなら、それだけ救いの機会から遠ざかってしまうからです。それはドラマのような体験でしたが、私たちは信者、未信者を問わず、人と人とは互いに信頼しあうことによって通じ合うことができるのだということも学びました。
神は真実です。私たちの願望 "wants" の中には、みこころにかなわないものもありますから、かならずしもすべてがかなえられるわけではありませんが、神は、私たちの必要 "needs" にはかならず答えてくださいます。そして、奉仕というのは、神が神の働きのために、人々の必要を満たそうとしておられるのを、お手伝いすることなのです。「私の窮乏の時に仕えてくれた」という部分は、ある英語の訳では "to help me in my need"(NTL) となっています。本当の奉仕とは、自分がしたいことをしたいときにすることではありません。必要とされていることを、必要とされているときにすることです。教会の中に欠けがあるとき、「ちゃんと出来ていないじゃないか。」と言って批判するのでなく、欠けたところを満たしていこうとする、教会にたいする愛と献身が求められます。パウロはコロサイの手紙で「キリストのからだのために、わたしの身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。」(コロサイ1:24)と言って、教会の欠けたところを、自分の骨身を削って埋め合わそうとしました。教会を見回すときここにこんな奉仕が足らないと気付きませんか。年度報告を読むと、ここにこの奉仕者がいないということが分かりませんか。礼拝プログラムを担当している姉妹が三ヶ月日本に行っています。その間、担当者がひとりになります。足らないところに気付いて「たいへんですね。お手伝いしましょう。」「どんなことをすればいいのですか。」「どうやればいいのですか。」と申し出るのが愛であり、献身ではないでしょうか。教会は、今まで、「私はこれをやりたい。」という人たちによってではなく、「私にできることは何でしょうか。」と問う人たちによって、支えられてきました。教会は、これからも、"How may I help you?" "What can I do for you?"(何かできることはありませんか)という気持ちで、奉仕する人によって建てあげられていくのです。
二、足らないところによって仕える
エパフロデトはパウロの必要に仕えました。足らないところに奉仕しました。それと共に、彼の足らないところによっても奉仕しました。「足らないところによって仕える」というのは、はじめて聞くことばかもしれません。それはどういうことかというと、エパフロデトはパウロの世話をするために来たはずなのに、病気になって、逆にパウロの世話になってしまったことです。エパフロデトはピリピの教会から託された奉仕を果たせませんでした。そればかりか、病気になったため、ピリピの教会に心配をかけ、ローマの教会に迷惑をかけたのです。彼のミッション・トリップは、人間的には失敗に終わりました。しかし、神の目には違いました。じつは、エパフロデトは「病気」という彼の弱さや足らないところによって、主に仕えていたのです。
エパフロデトが病気になったのは奉仕に忠実だったからだと思います。エパフロデトはマケドニアからローマまでの長い旅行の疲れをいやす間もなく奉仕に励み、パウロの身のまわりの世話をするため、パウロと同じ獄中で寝起きを共にしたことでしょう。慣れない土地、厳しい環境での生活がたたって病気になったと思います。パウロはエパフロデトの病気について、「なぜなら、彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。」(ピリピ2:30)と言っています。エパフロデトは「キリストの仕事」つまりキリストのための働きに命がけで取り組んだのです。それによって、主イエスは、私たちが命をかけてまで奉仕して当然の偉大なお方であることをあかししたのです。
また、彼が病気になったため、多くの祈りがささげられるようになりました。ローマの教会もピリピの教会もエパフロデトのためにいっしょになって祈りました。神は、その祈りに答えて彼をいやしてくださいました。エパフロデトは、病気そのものによって苦しみましたが、そのうえ、自分の病気によってみんなに迷惑をかけたことをずいぶん気にしました。けれども、彼の病気によって、みんなが心を合わせて祈ることができ、神の癒しの力を見ることができたのです。エパフロデトの体力が回復したとき、テモテがパウロのもとに帰ってきました。それで、テモテがエパフロデトに付き添ってピリピまで行くことになりました。テモテはパウロが「真実のわが子」と呼んだほどの神の働き人です。エパフロデトがテモテといっしょにピリピまで旅行し、深い信仰のまじわりができるというのはなんという特権でしょう。ピリピの教会はすっかり健康をとりもどしたエパフロデトだけでなく、テモテをも迎えて、二重の喜びにあふれたことでしょう。エパフロデトの病気はかえって教会の祝福となったのです。エパフロデトは病気によって教会の祝福のために奉仕することができたのです。
このことは、神のための働きはその人がした仕事の分量だけで量れるものではないことを教えています。エパフロデトは病気のために目に見える奉仕は何もできなかったかもしれませんが、彼の主に対する思い、その信仰、献身は、人々に大きな感化を与えました。神の目には偉大な奉仕をしたのです。「自分は何の賜物もないから…」と言って尻込みしないでください。奉仕は「賜物」や「能力」だけでするものではありません。自信のある人は、自分の力に頼ってしまい、神の栄光を表せなくなってしまう危険や誘惑があります。「自分はよくできない。」と感じる人ほど、よく祈り、よく備えて奉仕するので、神の助けや祝福がそこに伴います。「自分はよくできる。」と思っている人より、よりよい奉仕ができるのです。
私たちの身の回りには、ふだんは強がった態度をとっていてはいても、自分の足りないことや弱さを嘆いている人が多くいるはずです。足らなさ、弱さを隠そうとして無理に強がっているだけなのです。神がその人の心に触れてくださるとき、その人は自分の足りなさ、弱さを認めるようになるでしょう。そのようなとき、その人を救うのは何でしょうか。私たちの強さでしょうか。いいえ、弱さです。自分の弱さをとことん認めている人だけが、弱さの中にある人を助けることができます。私は「12ステップ」のサポートグループで、みんなが自分の弱さ、足らなさをさらけだして、いっぱい涙を流し、いっぱい笑い、そうしていやされ、強められていったのを体験してきました。私たちの救い主イエスほど、弱くなられたお方はありません。十字架は弱さの象徴です。しかし、それが人を救う神の力となりました。キリストの十字架をほんとうに知っている人こそ、何もかも足らなくてもすべてに満たされており、誰よりも弱いのに何者よりも強い人なのです。
こんな昔話があります。川から遠く離れたところに住んでいた人が、二つの革袋に水をいっぱい入れ、それをロバの背中に乗せて運んでいました。毎日、何回も同じ道を往復するだけの単調な仕事にあきあきしていました。それに、片方の革袋はどう修理しても水が漏るので、せっかく水をいっぱい入れてきても、途中で減ってしまうのです。この人はこのダメな革袋にも腹を立てていました。そんなある日のこと、いつも通る道の片側に小さいけれどもきれいな花がずっと並んで咲いているのに気がつきました。こんな水のないところにどうして花が咲いたのだろうと不思議に思いましたが、毎日次々と花を咲かせていくこの花の行列にとても慰められていました。そして、ある時、この人は、花が咲いているのは、あの水漏れのする革袋を乗せてある側だということにハッと気づきました。革袋から漏れた水が地面に落ち、それが道沿いに花の行列を生み出したのです。彼は、今まで腹を立てていたその革袋にほんとうに感謝するようになりました。
この話のように、神は私たちの欠けたところ、弱いところ、足らないところをも使って、この世界に慰めの花を咲かせてくださいます。神は、足らなさによっても仕えることを許してくださるのです。
(祈り)
父なる神さま、奉仕は自分のしたいことをして、自分を満たすことではありません。それは、教会の欠けたところ、足らないところを満たそうとする愛のわざです。そのことを覚えて謙虚に奉仕をささげる私たちとしてください。また、あなたは、私たちが欠けたものであっても、また、足らないものであっても、恵みとあわれみによってみわざのために用いてくださいます。そのことに励まされ、自分の殻を打ち破って、自らをささげる私たちとしてください。私たちの主イエス・キリストのお名前によって祈ります。
6/15/2008