キリストの心

ピリピ2:1-5

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2:1 こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2:2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
2:3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

 一、心の態度

 どの教会でも、年のはじめに、その一年を導く聖書の言葉を「年間聖句」(Verse of the Year)として選びます。永楽教会では、今年の年間聖句に、ピリピ2:5「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです」が選ばれました。

 「心構えでいなさい」と訳されている言葉には、ごく一般に使われる「思う」という言葉が使われていますが、ピリピ2:5では、ただぼんやりと「思う」とか「考える」というのではなく、はっきりとした物の考え方をし、そこから出てくるきっぱりした態度を身に着けるという意味で使われています。それでここでは「心構えを持つ」と訳されました。

 「心構え」は直訳すれば、“mental attitude” でしょうが、“mindset” と言ってよいでしょう。「マインド・セット」というのは、「習性となった考え方」や「思考態度」のことです。私たちには誰も、物事を考え、判断する一定の傾向を持っています。いつも最悪の状態を想定して、物事を悲観的に見る人もあれば、最善を期待して、楽観的に考える人もあります。買い物をする時、ブランドで買う人、材質や機能を見て買う人、値札を見て買う人と、さまざまです。それぞれの人は、それぞれのマインド・セットに従って行動しているわけです。買い物のことは、たいした問題ではありませんが、もし人生の基本的なことがらで、的はずれな方向に心が向いているなら、その人の人生はとんでもないものになってしまいます。いや、聖書は、すべての人は罪によって歪められたマインド・セットを持っていて、それに束縛されていると教えています。だからそれは正されなければならないのです。

 イエスが「わたしはエルサレムで人々の手に渡され、苦しめられる」と言って、十字架を予告したとき、ペテロは「そんなことが、あなたに起こるはずはありません」と言ってイエスをいさめました。イエスは「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言って、ペテロを叱りました(マタイ16:21-23)。「下がれ。サタン」とは激しい言葉ですが、イエスが十字架によって成し遂げようとしている救いのみわざを妨げる者は、「サタン」(神の敵)なのです。イエスの弟子でさえ、「神のことを思わないで、人のことを思う」、「人間の水準でものごとを考えてしまう」というマインド・セットから抜けきれないでいました。そのため、イエスの心を理解することができなかったのです。

 パウロはこう言っています。「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」(ローマ8:5-6)ここで「肉」というのは人間の生まれつきの性質のことです。それは全部が邪悪というわけではなく、善良な部分もあります。それで、正しく生きたいと願っているのに、家族や他の人を大切にしなければならないと分かっているのに、それができないことに葛藤を覚えるのです。しかし、キリストを信じて、「御霊による思い」を持つなら、その葛藤を乗り越えて、心に喜びと平安をもつことができるようになります。

 正しいマインド・セットを持つことは大切なことですが、それは修練や悟りによって得られるものではありません。生まれつきの性質は、それをどんなに磨いても、そのままで変わらないのです。こんな話があります。ある国で、宣教師が、人々の衛生状態を心配して、こう言いました。「みなさん、床をきれいに掃除しましょう。モップを洗剤の入った水に浸して、力を入れてこするのです。」すると、村の人が言いました。「先生。わしらの家には床などありません。地面のままです。そんなところをモップで洗ったら、泥だらけになってしまいます。」この話のように、自分を磨こうとする努力が、逆に生まれつきの肉の性質を強くするだけということもあるのです。

 私たちに必要なことは、キリストを信じて、神の子どもとされ、新しい思いと心を与えられることです。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」(ヨハネ3:5-6)と、イエスが言われた通りです。聖霊によらなければ、私たちは正しい心構えを持つことはできません。

 二、一致への勧め

 さて、ピリピ1:1-4は、ピリピの教会への勧めの言葉です。この言葉が、教会ばかりでなく、家庭でも、職場でも、地域でも実践されるなら、この世界はどんなに住みやすく、平和で、幸いなところになることでしょう。しかし、現実はそうではありません。人の心は自己中心と虚栄に縛られています。自分が正しくて、自分が一番で、人々が自分に仕えてくれなければ気が済まないのです。それで世の中から争いが絶えないのですが、聖霊によって生まれ変わったはずの神の子どもたちの中にもまだそうした「肉の思い」が残っていて、教会の中にトラブルが生じてくることがあります。

 どの時代にも完全な教会はありませんでした。現代でも、どこにも完全な教会はありません。ピリピの教会はパウロが誉め、誇ることができた模範的な教会でしたが、信者の間に不一致がありました。それがあったからこそ、「あなたがたは一致を保ちなさい」との勧めが書かれたのです。4章でパウロは、ユウオデヤ、スントケという二人の女性のメンバーを名指して、「主にあって一致してください」と勧めています。パウロは、教会の問題を隠してはいませんし、かといって、このふたりを非難してはいません。このふたりを助けて欲しいと協力を要請し、暖かい言葉で彼女たちを励ましています。ですから、私たちも、正直に、問題を問題として、自分たちに足らないところを足らないところとして認めましょう。「自分たちは明るく楽しいグループで、何の問題もありません。みんな仲良くやっています」などと言って満足していても、それが人間レベルのもので、「主にあって」の一致ではないかもしれません。聖書の基準を引き下げ、自分たちは聖書の教えを守っていると自己満足しているところに、「キリストの心」はありません。主は、私たちが自分たちの足らなさを正直に認めるとき、私たちを力づけ、成長へと導いてくださるのです。私たちは、キリストのうちにある「心構え」、「キリストの心」を持ち、それによって一致していかなくてはならないのです。

 三、キリストの心

 では、私たちが持っていなければならない「キリストの心」とは、どんなものなのでしょうか。それは6-8節に次のように書かれています。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」この箇所はキリストの「謙卑」を描いている箇所です。「謙卑」の「謙」は6節の「自分を無にして」、「卑」は7節の「自分を卑しくし」という言葉からとられました。

 ここで、注意したいのは、キリストの「謙卑」(Humilation)が、人間的な意味での「謙遜」(Humility)とは違うということです。アメリカでは、社会的な地位のある人でも教会の掃除をしたり、食事を運んだり、謙遜に奉仕をします。イエスもまた、師であるのに下働きの召使いのようになって弟子たちの足を洗いました。王の王、主の主であるのに、人々にしもべのようにして仕えました。しかし、イエスの「謙卑」はそれ以上のものです。それは、神の御子、子なる神であるお方が人となってくださったということで、「謙遜」という言葉で片付けることのできない驚くべきことです。人は、どんなに謙遜になり、召使いのようにして働いたとしても、人は人のままです。しかし、キリストの場合は、神であるお方が人になったのです。それは人間がゴキブリになることよりももっと大きな出来事でした。

 日本では、菅原道真は「学問の神様」として祀られ、アメリカ人のベーブ・ルースさえも「野球の神様」にされています。少し優れた人がいると、その人は「神様」になるのです。神を人間より少しだけ上の存在だと考えているからなのですが、神はそんなちっぽけなお方ではありません。永遠から永遠までも存在し、全宇宙を創造し、地上のすべての命を生み出されたお方です。神はその愛のゆえに人に近づいてくださいますが、神は創造者で人間は被造物で、そこには厳粛な区別があります。キリストもまた父なる神、聖霊なる神とともに、この世界を造られた方です。その創造者であるお方が被造物となり、人間の赤ん坊となって世に来られたのです。しかも、王宮でも、邸宅でもなく、家畜小屋で生まれ、飼葉桶に寝かせられました。人となられた神の御子は、貧しく、低く育ちました。反対と圧迫の中でも神の愛を説きました。しかし、その崇高な生涯の最後は十字架でした。罪のないお方が、罪人として殺されたのです。イエスはそれほどにご自分を低く、卑しくされました。

 それは、愛の神が人を救うためになされたことですが、同時に、そこには、その父のみこころに従うという、キリストご自身の大きな決断がありました。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで…」という言葉の通り、キリストは世に来られる前に、その心を決めていました。人となる前から十字架への道を歩みはじめていたと言ってよいでしょう。また、キリストは、人としてのご生涯の間、父なる神のみこころを受け入れ続け、罪ある人間のために自らを捧げ続けました。聖書は、このように、ご自分を「しもべ」とし、父なる神のみこころを成し遂げたキリストの心を見つめなさい。それを自分の心としなさいと言っているのです。そのときはじめて、人は「自己中心や虚栄」によってではなく、真実な愛によって行動し、ほんとうの一致を達成することができるようになるのです。

 イエス・キリストが十字架への道を歩まれたのは私たちの救いのためでした。ペテロは、「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(ペテロ第一2:22-24)と教えています。しかし、同時に「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました」(同21節)と言って、イエスが苦難に耐えたことは、私たちがその忍耐に倣うためでもあると教えています。キリストの十字架と復活が私たちを救います。聖書は十字架の下に来て、復活の主イエスに出会って、あなたも救われなさいと、私たちを招いています。しかし、同時に、救われた者には、イエスが十字架への道を歩もうと決断したその「心」を知って、同じ心で自分の人生を歩むようにと教えています。私たちもイエスと同じようにしもべとなって人々に仕えるためです。

 十字架を目指して歩まれたキリストと同じ「心構えを持つ」こと、「キリストの心を心とする」こと、それは、人間の力でできることではありません。人間の力によっては、私たちの中に残っている「肉の思い」に勝つことはできません。しかし、「キリストの心を私の心としてください」と祈り続けるとき、聖霊が私たちのうちにキリストの心を形造ってくださいます。「肉の思い」に替えて、「聖霊の思い」で満たしてくださるのです。私たちは「キリストの心」からほど遠い者です。だからといってあきらめません。あるいは、どうせ人は完全にはなれないのだと言って、開き直ったりしません。不完全だからこそ完全を求め続けるのです。「キリストの心」を求め続けて、一歩でもそこに近づきたいと願うのです。神はそのような祈りに必ず答えてくださいます。

 (祈り)

 父なる神さま。あなたは、あなたのみこころを御子イエスに託し、イエスは、十字架に至るまでも、あなたのみこころに従い通されました。そして、イエスはそれによって、私たちが持つべき心の態度を示し、私たちに同じ「心構え」を持つようにと教えておられます。私たちは自分の力でイエスに倣うことができません。しかし、聖霊は私たちのうちに「キリストの心」を形造ってくださいます。キリスト・イエスの心を心とし、それを生活の中で表すことができるようにと願い、求めます。私たちを助け、聖霊によってそのことができるよう、導いてください。主イエスのお名前で祈ります。

3/8/2020