2:19 しかし、私もあなたがたのことを知って励ましを受けたいので、早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。
2:20 テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。
2:21 だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。
2:22 しかし、テモテのりっぱな働きぶりは、あなたがたの知っているところです。子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました。
2:23 ですから、私のことがどうなるかがわかりしだい、彼を遣わしたいと望んでいます。
2:24 しかし私自身も近いうちに行けることと、主にあって確信しています。
聖書には様々な人々が登場します。アダムからはじまって、ノア、アブラハム、モーセ、ヨシュア、サムエル、ダビデなど、旧約聖書にも新約聖書にも個性的な人々が大勢いて、聖書を読むのを楽しくさせてくれます。先月の婦人会では、旧約聖書から、ペルシャの王妃になったエステルのことを学びました。もし「聖書は難しい」と思っていらっしゃる方がありましたら、聖書の人物から学ばれるのが良いでしょう。聖書に登場するひとりひとりの人物の人生を学ぶ時、その人を生かし、助け、導いてこられた神を、救い主イエス・キリストを、きっと発見されることでしょう。
今朝は、ピリピ人への手紙から、テモテという人のことを学びましょう。
一、伝道のパートナー
テモテは、使徒パウロと一緒に伝道した、伝道者のひとりです。パウロの伝道というと、彼ひとりがヨーロッパ中を駆け巡って成し遂げたかのように思われがちですが、そうではなく、それは、はじめからチームワークとしてなされていました。パウロを中心に、シラス、テモテ、ルカなど、大勢の人々がそれぞれの役割を果たして伝道していたのです。テモテは、パウロの「伝道のパートナー」でした。
聖書で、テモテが最初に登場するのは、使徒行伝16章です。使徒パウロは、最初、バルナバという人と、バルナバのいとこのマルコと一緒に、伝道旅行に出かけました。その伝道旅行によって、アジア地区、今日のトルコのあたりに、多くの教会が建てられました。パウロとバルナバは、エルサレムでの教会会議に出席した後、再び伝道旅行に出かけようとしたのですが、その伝道旅行にマルコを連れていくかどうかで、パウロとバルナバの意見が合いませんでした。マルコは、最初の伝道旅行の時、途中で音を上げて、家に帰ってしまっていたのです。パウロは、マルコを連れていくのを拒否し、バルナバは、マルコにもういちどチャンスを与えるべきだと主張したのです。聖書は、このことで、パウロとバルナバとの間に「激しい議論があった」と記しています。
ちょっと、主題から離れますが、皆さんは、こういう聖書の箇所をお読みになって、どう思われますか。ある人は、「使徒ともあろうものが、こういうことで喧嘩して、みっともない」と考え、ある人は「パウロやバルナバも私たちと同じ人間、やっぱり争ったり、喧嘩したりして、人間らしくていいじゃない」と思うでしょう。「パウロとバルナバとどちらが正しかったのだろうか」と詮索する人もいるかもしれません。しかし、パウロとバルナバが激論を戦わしたと書かれているのは、現代の私たちのいろんな受け止め方とは別の、大切なことを伝えるためなのです。聖書が言いたいことは、真剣な議論の結果、ふたつの伝道団が出来て、伝道が進展したという事実なのです。もし、パウロがマルコを拒否しなかったら、マルコは以前の失敗を改めないまま終わったかもしれません。人を生かす拒否もあれば、人を駄目にする許容もあるのです。いつでも何でも受け入れるのが愛とは限りません。しかし、バルナバがマルコを受け入れてやらなかったら、マルコは挫折から立ち上がれなかったかもしれません。この場合、パウロとバルナバのどちらが正しかったかというよりは、両方が正しかったのです。そして、パウロとバルナバの二人が、激しい議論になったとしても妥協しないで、それぞれの道を歩んだことが正しかったのです。教会では、批判しあったり、中傷しあったり、互いの人格を傷つけるような議論の仕方をしてはなりません。けれども、どんな問題も「丸く収めれば良い」というわけでもないのです。神の栄光を求めての真剣な議論は、神の栄光につながる結果を生み出すのです。
ともかくも、パウロはバルナバと分かれて、シラスをパートナーに選びました。しかし、パウロには、マルコのような若い弟子が必要でした。そこで、ルステラの町で、テモテを見つけるのです。テモテの母はユダヤ人で、父はギリシャ人でした。純粋なユダヤ人から見れば、父親がギリシャ人というのは、ハンディキャップと考えられますが、テモテは、祖母ロイスと母ユニケからユダヤ人としての堅い信仰をしっかり受け継いでおり、その地方のユダヤ人社会でも評判の良い人物でした。そして、テモテは、ギリシャ人としての国際的な感覚も身につけていました。彼は、今で言えば、国際結婚をしたバイカルチュアの家庭で育ち、その良い面を自分のものにしていたのです。パウロの一行は、これからヨーロッパ、今のギリシャへの伝道に導かれるのですが、テモテはそれにふさわしい人だったのです。パウロが、当時のヨーロッパ世界のあらゆるところで、様々な人々に伝道することができたのは、テモテのような若い力、二つ以上の文化を身につけた人がいたからだと思います。「伝道」とは人から人へ、キリストが伝えられることですから、伝道が広がっていくためには、新しい人々が伝道の働きに加えられなければならないのです。
昨年の夏のことですが、ホイッテヤ教会の神村ジョージ君が大学の卒業論文の研究のため、広島に行ってきました。それを機会に彼は日本の若者たちに伝道してくることができました。彼と同じ大学の坂野 豊君もサッカーミショナリーとして、3ヶ月日本に行ってきました。日本にはアメリカにあるようなユース・ミニストリーがありませんので、日本の教会は、若い人には魅力的な場所ではなくなっているのです。アメリカで生まれたヤング二世、また、日本生まれでもほとんどアメリカで育った若い人たちが、日本に行って伝道しますと、すぐ若い人たちに溶け込むことができ、とても良いあかしができます。私たちの身近に、二つの文化を持った、現代のテモテが大勢います。そうした若い人たちのために祈り、サポートしてあげたいものと思います。
二、真実な子
次にテモテは、使徒パウロの「子」として紹介されています。パウロには、子どもがいませんでしたから、テモテを養子にしたのでしょうか。そうではないです。当時、本当の親子関係がなくても、年長者は「父」と呼ばれ、年少の者を「子」と呼ぶならわしがありました。けれども、テモテに宛てた手紙の中で、パウロはテモテを通常の意味ではなく、本当の父親のような愛情をもって、彼を「真実のわが子テモテ」と呼んでいます。パウロが「わが子テモテ」とだけ書くのでなく、「真実のわが子テモテ」と書いたのは、「私があなたを『子』と呼ぶのは、年長者としてでなく、私はあなたを本当に、自分の息子と思っているからだ」という気持ちを伝えるためでした。パウロはテモテを自分の本当の息子のように愛し、テモテも、ピリピ2章22節にあるように、「子が父に仕えるようにして」パウロに仕えました。
だからこそ、パウロはテモテを信頼して自分の代理人として、彼を多くの教会に派遣し、今また、ピリピの教会に彼を送ると言っているのです。自分の代理人として誰かを送る時、皆さんは、どんな人を送りますか?おそらく、自分の考えを一番良く分かってくれている人を送るでしょう。「代理人」というのは、単なる「使い走り」ではないからです。テモテがピリピの教会に、パウロの代理人として遣わされたなら、テモテがピリピの教会に語ることは、パウロがピリピの教会に語るのと同じことになるのです。ですから、パウロは、他の誰でもなく、自分の気持ちを一番良く理解し、ピリピの教会に対して、自分と同じように接することができる、自分の霊的な息子、テモテを派遣したのです。
日本のことわざに、「親の心、子知らず」とありますが、いつの時代、どこの国でも、子どもというのは、親の心、親の心配が分からずに、好き勝手なことをしがちです。実際の親子であっても、子が親の心をくまなく知ることは難しいのに、テモテは、パウロの心を知っていたというのですから、驚きです。テモテの第二の手紙3:10-11で、パウロは、テモテに対し、「しかし、あなたは、私の教え、行動、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、またアンテオケ、イコニオム、ルステラで私にふりかかった迫害や苦難にも、よくついて来てくれました」と言っています。テモテは、パウロと共に伝道する中で、パウロの教えをしっかりと学び、パウロがいつ、どんな時に、どんなふうに行動し、計画を立てたかをしっかりと見てきました。テモテはぼんやりと時を過ごしたのでなく、この使徒パウロから良いものをすべて吸収しようとする気持ちでパウロとと共に時を過ごしたのです。他から良いものを学ぼうとする真剣な態度を持った人は、どんな面においても向上し、成熟していくことのできる人です。テモテは、パウロの「信仰、寛容、愛、忍耐」といった目に見えないものさえも、見えるもののようにして学び、習いました。テモテは、迫害や苦難にもひるまず、パウロに従いました。そのようにして、テモテは「パウロの子」となり、パウロの代理人にとして、十分に役に立つものとなることができたのです。
三、キリストを愛する者
パウロがテモテをピリピの教会に派遣したのは、テモテがパウロの代理人として、パウロの心を一番良く知っていたからですが、それと共に、ピリピのクリスチャンひとりびとりのことを、深く心にかけていたからでもありました。テモテがパウロのミッショナリー・ティームに加えられたのは、ピリピ伝道の前でしたので、テモテは最初からピリピの町の伝道にかかわっており、ピリピの人々を良く知っていたのです。20節に「テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです」とありますが、ここは、口語訳では「テモテのような心で、親身になってあなたがたのことを心配している者は、ほかにひとりもない」とあります。口語訳の「親身」というのは「親のように」という意味ですね。「親」という漢字は「木の上に立って見る」と書きます。旅立っていく子どもを、その姿が見えなくなるまで見送る、それが親なんだということを、この漢字は表わしています。テモテも、ピリピから遠く離れたローマに来ていても、以前とかわらず、遠くのピリピの教会を覚えて日ごとに祈っていたのです。人々を真実に愛し続けるテモテの姿がよく表われています。パウロは、それほどまでにピリピの人々のことを考えているテモテを、ピリピの教会に送ろうと決心したのです。それによってピリピのクリスチャンは喜び、テモテも喜ぶことができたからです。
このように、クリスチャンが互いを思いあうことは、麗しいことで、いつでも、誰でもそうあらねばならないのですが、残念ながら、テモテのような心をもつ人は少なかったようです。21節でパウロはこう言っています。「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」クリスチャンの生活で、みんなが、神のことや他の人のことは後回しにして、自分のことを求め出したら、いったいどうなるでしょうか。それは、愛のない生活、喜びのない生活になってしまいます。初代教会でさえ、人がみな自分のことを求め、キリスト・イエスのことを求めていなかったとしたら、現代はなおさらでしょうね。教会に集うのが単に社交のため、教会での活動は自分の栄誉のため、クリスチャンであるのが社会的に信用されるためなどという人が、私たちの教会にはいないことは幸いなことですが、それでも、私たちの心の中には、純粋にイエス・キリストを求めてというよりも、自分のための何かがまざりこんでくることがあるのです。私たちは、自分の罪深さをよくわきまえた上で、なお、思いをきよめていただいて、常にイエス・キリストを第一にする者となりたく思います。
テモテに何の罪もなかったとか、完全であったとかいうことではありませんが、テモテには、ひたすらにイエス・キリストを求める純粋な思いがあったのです。テモテという名前は、日本語では上から読んでも「テモテ」、下から読んでも「テモテ」ですが、そのように、テモテは、上から見ても、下から見ても、まっすぐで純粋なイエス・キリストへの思いを持っていた人であったと思います。
私は高校生の時に教会に行きましたが、高校生のクラスの教師は大学生でした。そして、高校生の何人かはサンデースクールで小さいこどもを教えたり、日曜日の午後は「農村伝道」といって、農村部にいって、子ども会をしたりしていました。私も大学生になってすぐ、サンデースクールの中学生のクラスを受け持たされたり、今で言えば登校拒否の子どもの家庭教師をしたりしました。その時の訓練は、私の牧師としての働きの基礎になっています。高校生は土曜日の午後も教会に集まっていましたが、私たちはそれを JOY CLUB と呼んでいました。JOY の J は Jesus、O は Others、Y は Yourself だと習いました。Jesus First, Others Second, Yourself Last. その時、私たちは本当の JOY を体験できるのだと教えられました。
人生では、自分の幸福を第一にしている人は決して幸福にはなれず、他の幸福を求めている人が一番幸福であるという、れっきとした事実があります。何事も自分を中心に考え、自分のためにとあくせくしても、人間の欲望には限りがありませんから、決して自分を満たすことはできません。しかし、自分のことよりも神のことを考え、他の人のことを思い、たとえそれが小さなことであっても、神に喜んでいただくこと、人に喜んでもらうことを心がけていくなら、その人の人生には、あふれる喜びが生まれてくるのです。Jesus First, Others Second, Yourself Last. テモテがそうであったように、私たちも、人々に喜びをもたらすことのできる人生を求めてまいりましょう。
(祈り)
父なる神様、私たちも、テモテのように、真実にあなたを愛し、人々を愛し、あなたの働きに役立つような者となりたく願います。主イエス・キリストの恵みにより、ご聖霊のお力により、私たちの信仰と献身を通して、そのことにかなうものとしてください。私たちの主、イエス・キリストの御名で祈ります。
2/18/2001