2:14 すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。
2:15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、
2:16 いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。
一、曲がった邪悪な世代
パリのオリンピック開会式で、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた「最後の晩餐」のパロディ・ショーが行われました。「最後の晩餐」は、「主の晩餐」として教会で守られている厳粛で神聖なものです。それを、「多様性を祝うため」と言って、グロテスクなショーにしてしまったのです。通常、オリンピックでのショーは、開催国の歴史や文化を紹介するものですが、レオナルド・ダ・ヴィンチはイタリアの人で、「最後の晩餐」の壁画もミラノの修道院にあって、パリにはありません。パリでのオリンピックにふさわしくないばかりか、キリストを冒瀆し、クリスチャンを軽蔑しているというので、各国の指導者から非難されています。
「フランス」は、「フランク王国」から始まりました。フランク王国の創始者クローヴィスは自らも洗礼を受け、信仰の擁護者となりました。それ以来、フランスには数多くの教会や修道院が建てられ、優れた信仰者を生み出しました。ブレーズ・パスカルやジャン・カルヴァンもフランスの人です。フランスの宗教社会学者セリーヌ・ペロー氏によると、自分をクリスチャンだと自称する人は、1981年の調査では約70%でしたが、2018年の調査では約32%に激減しているとのことです。今回のような反キリスト教的なことが、フランスで起こっても不思議ではないと言えるでしょう。
しかし、このようなことは、フランスやヨーロッパだけでなく、世界中に広まっています。きょうの箇所、15節に「曲がった邪悪な世代」とありますが、これは、「曲がって、ねじれた世代」とも訳せます。使徒パウロがこの言葉を使った紀元1世紀から、こんにちの21世紀に至るまで、その曲がりぐあい、ねじれぐあいは、ますますひどくなっています。テモテ第二3:1-4に、「終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒瀆し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。また、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まない者になり、人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、…」とあります。パウロは、後の時代のことを預言しているのですが、現代は、まさに、この預言通りの状態になっています。
これらはみな、道徳的な罪ですが、こうした道徳的な罪が、そのまま社会の歪となって表れています。どんな社会制度であっても、そこに道徳がなければ、それは悪用されてしまいます。「自由」の名のもとに、"He" と "She" の区別がなくなれば、いずれは、"Yours" と "Mine" の区別もなくなるでしょう。小さな子どもが "Mine, mine" と言って、おもちゃを独占するのと同じようになります。しかし、何もかも「規制」してしまえば、規制の権限を持つ人々が、自分たちの利益になるように他の人の自由を奪うようになります。「平等」は大切なことで、どの人にも平等な機会が与えられなければなりません。けれども、結果まで同じでなければならないと言って、努力した人にも怠けた人にも同じ報酬しか与えられなければ、誰も努力しなくなるでしょう。それは平等であっても公平ではありません。
社会の秩序を保っているのは制度や法律だけではありません。法律は、いくらでも抜け道を作ることができます。社会の秩序は、それぞれが、「約束を守る」という誠意があってこそ成り立つものです。経済もまた、個々人の道徳性がその背後にあって、それによって成り立っています。Walter Olson の書いた "The Excuse Factory" という本には、働く気持ちのない人たちや、その仕事に不適格な人たちによって、アメリカの経済がだめになっている現状が書かれています。経済の発展も、「職業倫理」によって支えられているのです。独裁的な国は別として、どの自由な社会も、実は道徳によって支えられています。自由な社会は、道徳がなければ、また、それを尊重する人たちがいなければ成り立たないのです。
かつては、誰もが道徳を重んじてきました。道徳は、人をしばりつけるだけのものではありません。それは、他の人に対する愛やいつくしみ、そして分かち合いを教えます。道徳が重んじられたからこそ、一人ひとりが重んじられ、弱い人々が守られてきたのです。「不道徳」という言葉がありますが、それは「道徳」という基準があったからこそ生まれた言葉です。しかし、現代は、道徳そのものが否定されつつあり、「不道徳」という概念すらも消えかかっています。人間の道徳性が否定されたら、人間は人間でなくなり、社会は崩壊してしまいます。私たちはそんな曲がった世代に生きているのです。
二、クリスチャンの責任
私たちは、そうした現状を見て、「ああ、世の中は悪くなった」と言って嘆くかもしれません。しかし、嘆いているだけでよいでしょうか。このような社会になったことに、信仰者は何の責任もなかったのでしょうか。テモテ第二3:4の後半から5節にかけて、こう書かれています。「神よりも快楽を愛する者になり、見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。」この部分は、明らかにクリスチャンのことを言っています。公然と神に逆らう人々が、不道徳になるのは当然かもしれませんが、ここでは、神を信じる者までもが、ほんとうの信仰を失うようになると言われています。
仏教には、「正法」(しょうぼう)・「像法」(ぞうほう)・「末法」(まっぽう)という教えがあります。「正法」の時代とは、仏教の教えが実践されている時代です。「像法」の時代とは、仏教の教えがだんだんと実践されなくなる時代で、「末法」の時代になると、仏教の教えは残っていても、それは形ばかりで、全く実践されなくなるというのです。キリスト教にも似たような歴史があります。初代教会では、キリストの教えが実践されていましたが、やがて、それは、形式や儀式だけのものになっていきました。修道士たちが人々に神への情熱を取り戻させ、改革者たちが教会を聖書に立ち返らせましたが、一方はやがて神秘主義的なものになり、もう一方は知識だけのものになりました。「見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者」、つまり、本物の敬虔さから生まれる神と人に対する真実な愛を失くし、イエスの教えを口にはしていても、その実践がなくなっているのが、今の時代です。
「世の中が悪くなった」のは、じつは、クリスチャンが真剣に信仰を考えず、熱心に神を求めなかったからだと思います。「地の塩」となって社会の腐敗を防ぎ、「世の光」として人々にキリストを示すという役割を果たせなかったのです。クリスチャンは、そうしたことを反省し、悔い改め、この世界のためにとりなし祈り、自分たちに与えられた使命、役割を果たす者となりたい思います。
三、いのちのことば
さて、きょうの箇所、ピリピ2:16には、「いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます」とあります。私は、ここを読んで、オリンピックの聖火リレーを思いうかべました。「努力したことが無駄でなく」とある部分ですが、口語訳や新共同訳で「走ったことが無駄でなく」、英語で “did not run in vain” と訳されているように、ここには「走る」という言葉が使われています。聖書は、この言葉を使って、信仰を競走にたとえ、クリスチャンにゴールを目指して信仰のコースを走りぬくよう教えています(コリント第一9:24-27、ガラテヤ2:2、5:7、ヘブル12:1)。
16節の最初に「いのちのことばをしっかり握り」とあるのは、手に「いのちのことば」のトーチをしっかり持ち、それを高く掲げて走る姿を描いています。信仰者はただこの世を走り抜けばよいだけでなく、「いのちのことば」というトーチを高く掲げて、人々に光を届けながら走るのです。あのトーチは、高さが70センチ、重さが1.5キロもあって、これを高く掲げて走るには、かなりの体力が必要となるでしょう。信仰のレースでも、「いのちのことばをしっかり握る」ためには、信仰の「体力」が必要かもしれません。また、信仰の競走を走り抜く道筋は、すべて穏やかであるとはかぎりません。途中で雨にあい、風に阻まれることもあるでしょう。そんなときも、トーチの炎を消すことなく、それを風雨から守りながら走らなければなりません。
では、この信仰のトーチ、「いのちのことば」とは、何でしょう。ヨハネ1:1-4には、「初めにことばがあった。…(中略)…この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった」とありますから、それはイエスを指します。またヨハネの手紙第一1:1には「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」とあって、イエスご自身が「いのちのことば」と呼ばれています。使徒5:20には、「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばをすべて語りなさい」とあるように、まことのことば、いのちの光であるイエス・キリストを伝える「福音の言葉」もまた、「いのちのことば」と言われています。「いのちのことばをしっかり握る」とは、具体的には「福音の言葉」を人々に届けることなのです。
私たちには、世界の隅々までこの福音の光を届ける使命が与えられていますが、それは一人でできること、一世代だけで終えることができるものでもありません。ですから、私たちは、この「いのちのことば」のトーチを、周りの人々へと広げ、また次の世代へと引き継いでいくのです。
きょうの箇所は、クリスチャンに、世の光として輝くよう教えています。私たちが輝かせる光、それは、本物の光でなければなりません。人目をひく、きらびやかなものだけであってはなりません。そうしたものは時が経てば廃れていきます。本物の光でなければ、この世界の暗闇にかき消されてしまいます。けれども、本物の光は、それがたとえ小さなものでも、人々を真理に導きます。たとえ一人ひとりの光が小さくても、それが集まれば強い光となって、多くの人に届くようになります。
きょうの箇所は、「すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい」(14節)で始まっています。クリスチャンが、曲がった時代をまっすぐに生きようとすれば、どこかでぶつかります。光を掲げても、人々が見向いてくれないことが多いでしょう。そんなとき、「ああ、何をしても無駄だ。世の中が悪すぎる」などと悲観的になってしまいます。しかし、そんなときも、「努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができる」と信じましょう。掲げた光は必ず誰かを照らしています。
先週、私は、あるところで、次のような言葉が書かれた額を見つけました。
Happy moments, Praise God.
Difficult moments, Seek God.
Quiet moments, Worship God.
Painful moments, Trust God.
Every moment, Thank God.
この言葉のように、神への賛美、祈り、礼拝、信頼、感謝のうちに、「いのちのことば」を高く掲げ、それぞれの道を走り続けましょう。
(祈り)
父なる神様、私たちはあなたに愛されあなたを愛する方々とともに礼拝につどい、あなたのみことばによって養われています。そのみことばの光を、それぞれの家庭に、職場に、地域に携えて行くことができますよう助けてください。時代がどんなに暗くなっても、いいえ、暗くなればなるほど、もっと光が必要です。あなたの光を輝かせる私たちとしてください。まことの光、イエス・キリストのお名前によって祈ります。
8/4/2024