2:14 すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。
2:15 それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。
2:16 このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。
2:17 そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。
2:18 同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい。
一、終末の社会
毎年、日本で、その年の世相をあらわす文字が選ばれます。京都にある日本漢字能力検定協会が、一般公募によって決めるのだそうです。十数年前ぐらいは「夢」という文字が選ばれました。そのころはまだ夢があったんですね。ところが一九九七年は、企業倒産が相次いだため、「倒」という文字が選ばれたそうです。九八年は、なんと「毒」という字が選ばれました。「和歌山のカレー毒物事件」と、その後起こった一連の事件から、この文字が選ばれたのでしょう。九七年、九八年といえばほんの三年前、四年前です。このころから急速に社会不安が増してきたのですね。九九年は、ミレニアムの終わりということで、「末」という文字が、そして去年二〇〇〇年は、社会の混乱が続いたからでしょうか、「乱」という文字が選ばれています。「IT革命」といわれるような華々しい技術の進歩と裏腹に、世の中はどんどん暗い方向に向かっているようです。「世の末に、社会が乱れる。」―昨年、昨年に選ばれた「世相漢字」は、聖書が語っているとおりのことを言っているようです。
二十一世紀が始まりました。これから世界はどうなっていくのでしょうか。今は、世界が一日で変化してしまう時代です。明日どんな大きな変化が起こるか誰にも分かりません。しかし、確実に分かっているのは、私たちが終末に向かって進んでいるということです。そして、終わりの時には、いままで積もり重なってきた人間の罪が、一挙に噴出し、世の中が乱れるということです。テモテへの第二の手紙三章を開いてみましょう。一節から五節まで、こう書かれています。「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」
ここには、経済がどうなるか、政治がどうなるかということは預言されていません。人々の道徳的、宗教的な状態が預言されています。それは、私たちの社会を根底で支えているのは、政治でも、経済でもなく、道徳や宗教だからです。この個所によれば、世の終わりに、人々は「自分を愛する者」になります。「友達が人殺しをした」と告白したのに、それに対して、「それは彼の個人の問題だ。」と答えて知らん顔をしていたバークレーの大学生のことは耳新しい事件です。個人の自由ということが履き違えられて、今ほど人々が自分さえ良ければいいということがまかり通っている時代はありませんね。次は「金を愛する者」です。これは説明の必要がないでしょう。お金のために人々は簡単に罪を犯すのです。お金のためなら、愛するはずの伴侶に毒を盛って殺そうとさえする、そんな恐ろしいことが実際にあるんですね。そこまでいかなくても、相手を自分のために利用するだけということがなんと多いことでしょうか。次に、「大言壮語する者、不遜な者」とあります。現代は「舌先三寸」の時代のようで、言葉巧みな人、自分を見せびらかす人が、立派な人であるかのように思われ、得をしているかのような時代です。しかし、そういう人がいつまでも得をしていられることはできません。いいえ、神の審判の時がやってきます。その時、神は、誠実な者、謙遜な者を高く上げ、口先だけの者、高ぶる者を斥けられると聖書は言っています。
「神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者」これは、神の権威を認めようとしない人々のことですが、かっては、クリスチャンでない人々も、自然を超えたもの、人間の力以上のものが存在することを認め、真理や権威、神聖なものを尊敬していました。しかし、今は、あからさまに権威を否定し、神聖なものを汚すということが、いたるところで見られます。キリストを表わすシンボルに魚のマークがありますね。それは、ギリシャ語で「魚」ということばのつづりが、「イエス・キリスト、神の子、救い主」という言葉の頭文字になるからです。車の後ろに、魚のマークがあって、その中に「JESUS」と書いてあるのをよくご覧になるでしょう。ところが最近、この魚のマークに手足をつけて、JESUS のかわりに、DARWIN と書いたのをつけている車を見かけます。クリスチャンでない人がクリスチャンの信仰を皮肉り、対抗してくるようになったのです。他にも、映画や演劇、小説などでキリストを世俗化して描いたものも多くあります。そういうものに、私たちクリスチャンは怒りや悲しみを感じますね。
さて、聖書は終わりの時代の特徴を描いて、「情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者」と続けます。今までは、社会に何らかのブレーキがかかっていました。しかし、終わりの時代には、人々は、ブレーキの利かなくなった車が谷底めがけて突進していくような状態になっていくことでしょう。若者たちの暴走をニュースで聞いたり見たりするたびに「またか」とやりきれない気持ちになってしまいますが、もうすでにこの社会は世の終わりの状態になっているのかもしれません。
社会の秩序は、法律があるから保たれているとは言えません。法律があり、規則があっても、それを守ろうとする気持ちがなければ、いくらでも抜け道を作っていくのです。社会の秩序は、個々人の「約束を守る」という誠意があってこそ成り立つものです。政治や経済、その他社会の秩序は、個々人の道徳性がその背後にあって、成り立っているのです。Walter Olson という人が "The Excuse Factory" という本を書き、働く気持ちのない人たち、その仕事に不適格な人たちによって、アメリカの経済がだめになっていると言っています。経済の発展も、勤勉に働くという道徳によって支えられているのです。私たちの社会は権力によって強制されて秩序を保っているのでなく、実は道徳によって支えられているのです。私たち人間は権力で強制されれば必ず反抗したくなりますし、権力には腐敗がつきもので、腐敗した権力は、社会を導く力にはなりません。それは共産主義が崩れていったことで明らかです。
今まで、社会は人の心にある道徳性によって、そして道徳のバックボーンである信仰によって保たれてきました。時代によって、国によって道徳の表現は違ってはいても、また、個人の道徳性のレベルは違っていても、誰もが道徳を重んじ、それによって互いを尊重しあってきました。「不道徳」という言葉がありますが、それは「道徳」という基準があったからこそ生まれた言葉です。しかし、現代は、道徳そのものが否定されつつあり、「不道徳」という概念すらも消えかかっています。終わりに時代には、人間の道徳性が否定されてしまいます。人間から道徳性が失われたなら、人間は人間でなくなり、社会は崩壊してしまうのです。宇宙物理学者として有名なホーキンズ博士は地球の温暖化の速度から割り出して「地球はあと千年で滅びる」と言っていますが、地球が滅びる前に、人間の社会が不道徳によって滅びてしまうでしょう。聖書は、確かに、終わりにそのような暗い時代がやってくると、教えており、私たちはもうすでにその時代に突入しているのです。
二、クリスチャンの責任
二十一世紀がそのような時代になっていくとしたら、私たちクリスチャンは、どうあらねばならないのでしょうか。ますます暗くなっていく時代、ますます腐敗していく社会に対して私たちは何をしなければならないのでしょうか。それは、イエスがおっしゃったように、世の光になること、地の塩になることです。世の中が暗くなればなるほど、私たちは真理の光を輝かせ、地の塩として社会の腐敗を押しとどめなければなりません。この時代の混乱、この社会の問題の一原因は、私たちクリスチャンが、世の光としての役割を、地の塩としての働きをしなくなっているところにあるかもしれません。
今、みなさんに開いていただいているテモテへの第二の手紙三章、四節の終わりから五節にかけて、こう書かれています。「神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。」いままでの、「自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者」等々と言われていたのは、クリスチャンも含めた社会一般のことを言っているのでしょうが、「神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になる」というのは、明らかにクリスチャンのことを言っています。神に公然と逆らう人々が、不道徳になっていくのは、当然といえば当然のことかもしれません。しかし、神を信じるクリスチャンまでもが、神よりも快楽を第一にし、見せかけだけの信仰に終わってしまっては、どうして世の光となり、地の塩となることができるでしょうか。
「神よりも快楽を愛する者」というのは、何も不道徳な快楽に身をゆだねるということだけではないようです。たとえば、教会のさまざまな活動や集会に一所懸命でも、霊的なことをないがしろにし、それによって神に仕えるというよりも、活動そのものにはまり込んでしまうというのも、これに相当するかもしれません。教会の交わりや活動は楽しいものです。しかし、それによって神をよろこばせ、他の人々に奉仕するよりも、自分たちだけがそれによって楽しんで終わってしまうということになってしまわないように気をつけなければなりません。さもないと、私たちは、自分が気分が良い間は教会に来るけれど、自分の気にいらないことがすこしでもあれば、簡単に教会から去ってしまうということになってしまいます。「信心深い様子をしながらその実を捨てる」というのも、厳しい言葉ですね。人々は教会に見かけのきらびやかさを求めてはいません。本物の光を求めているのです。偽ものや見せかけの信仰で人々に光を示すことはできません。それは本物でなければ、人々を主のもとに導くことができないのです。この時代に対する責任を果たすため、この社会で本当に役立つため、私たちは、もう一度、神を第一にする信仰、内実のある信仰に立ち返り、それを育てていこうではありませんか。
三、みことばの輝き
さて、今度は、今朝の聖書の個所、ピリピ人への手紙二章十四節に行きましょう。十四節から十六節の始めまでをご一緒にお読みしましょう。「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」
ご承知のように、使徒パウロがこの手紙を書いた時、パウロはローマの牢屋につながれていました。ある程度の自由はあったものの、やはり、牢屋の石畳は冷たく、毎日その上で寝なければならないのは、つらいことだったでしょう。パウロのいた部屋に窓があったかどうかわかりません。もし、窓があったとしても、牢屋の窓は、囚人が逃げ出さないようにと、高いところにありますので、そこから夜空の星が見えたかどうか分かりませんが、パウロは、この手紙のこの個所を書く時、夜空の星を思いうかべたことでしょう。パウロは時代がどなに暗くなり、社会が乱れても、その後、イエス・キリストがこの世界を一新するために再びおいでになるのだと、彼は堅く信じていました。パウロと同じ信仰を持つ私たちも、時代がどんなに暗くなっても驚きません。夜が更ければ更けるほど、夜明けが近くなるのです。後すこしすれば、「義の太陽」であるキリストが世界を照らす朝がやってくるのです。「夜明け前が一番暗い」と言われます。これから迎える時代がどんなに暗くても、私たちは希望を失いません。空が暗くなればなるほど、星が明るく輝くように、私たちも、時代が暗ければ暗い分だけ明るく輝くのです。
十五節は、今の時代を「曲った邪悪な時代」と呼んでいます。クリスチャンはこの曲がった時代にまっすぐに生きようとしますから、どこかでぶつかってしまうかもしれません。この邪悪な時代に、正直に生きようとしますから馬鹿を見なければならないかもしれません。しかし、そんな中で、クリスチャンは、「非難されるところのない」者、「純真な」者、「傷のない」者になりたいと願います。責められない、純真な、また傷がないというのは、この世の基準で言っているのではなく、神の前に責められないこと、神の目に純真であること、神から見て傷のないことを意味します。神の子たちが神の子として生きようとする時、人々に神をあかしすることができるのです。人々に神を示すことができるのは、世の人々の生き方に合わせることによってではなく、それに逆らってでも、神の子としての生き方を貫き通すことによってなのです。もし、クリスチャンが神を知らない人とまったく同じ生き方をしていたら、人々はどこに希望の光を見ることができるでしょうか。私たちは、暗い時代の中でも、人々に真理を指し示す星となって輝きたいものです。
そのためには、「いのちのことばをしっかり握って」いなければなりません。「いのちの言葉」、神のことばが、私たちに輝きを与えるのです。オリンピックの聖火ランナーがトーチをしっかりと握りしめ、それを高くかかげて走っていくように、私たちも神のことばを「堅く持って」いたいものです。では、どうやって、神のことばを保っていることができるでしょうか。私の娘が「お父さん、今日はこんな話を聞いたよ。」と言って、こんなふうに教えてくれました。神のことばをホールドしておくためには、五本の指が必要です。聖書を読むこと、学ぶこと、それを覚えること(暗記すること)、思い巡らすこと(黙想)、そして実行することです。読むだけで終わっていたら、それは一本の指だけで聖書を持とうとするようなもので、とても聖書を持つことはできません。二本の指でも、三本の指でも、聖書をしっかり持っているのは難しいのです。サタンがやってくると、すぐに取られてしまいます。私たちが疲れてしまって落としてしまうこともあります。「読むこと、学ぶこと、それを覚えること(暗記すること)、思い巡らすこと(黙想)、そして実行すること」この五本の指で神のことばをしっかりと保っていたいと思います。特に、「実行すること」は親指のようなものかもしれません。
「それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」そうです。時代は「曲がった、邪悪なもの」になっていくいくでしょう。しかし、私たちはその中で信仰の純真さを保っていきましょう。「しかし」というより、「だからこそ」より純真でなければならないのです。「いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」これが私たちの、目標であり、使命であるのです。新改訳聖書では「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」と言っています。世の光、地の塩としての使命を果す、輝くクリスチャンとして、二十一世紀を進んで行こうではありませんか。
(祈り)
父なる神様、私たちは、あなたに愛されあなたを愛する方々とともに礼拝につどい、あなたのみことばによって魂が養われ、砕かれ、また導かれてまいりました。恵み深い天の父よ、私たちに、あなたのみことばをさらに堅く握らせてください。時代がどんなに暗くなっても、いいえ、暗くなればなるほど、この時代を明るく照らすことができるようにしてください。私たちひとりびとりを、それぞれの職場で、家庭で、地域でともしびとして用いてください。私たちの光であるイエス・キリストのお名前によって祈ります。
1/21/2001