救いの達成

ピリピ2:12-13

2:12 そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。
2:13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。
2:14 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。
2:15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、
2:16 いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。
2:17 たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。
2:18 あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。

 新しい年、みなさんは、「今年こそは」はと、何かの目標をもって始められたことでしょう。学業の面で、仕事の面で、また家庭で、何かの目標を掲げて歩むことは大切なことです。たとえ、そこに到達できなくても、百パーセント成し遂げられなくても、そこに近づくことが出来、目標の幾分かでも達成できればそれは大きな進歩だからです。目標を持たなければゼロのままですが、目標をもてば何らかの収穫があるものです。教会でも「深みに漕ぎ出そう」というみことばによって新しい一年をはじめましたが、皆さんおひとりびとりも、信仰生活、教会生活の面で具体的な目標をもって進んでおられることと思います。今朝の聖書の主題は「救いの達成」ですが、聖書はこのことによって、私たち皆が「救い」というスタートラインからその「達成」というゴールに目指すよう教えています。キリストの救いをいただいた者が、そこからどこへ向かっていくべきかを学ぶことは、新年にふさわしい主題だと思います。

 一、救いの達成の意味

 聖書は「恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい」と教えています。ここで言われている「救いを達成する」というのはどういう意味でしょうか。イエス・キリストが与えてくださった救いというのは、私たちに土台だけを与えるもので、あとは、私たちが自分の力でそこに何かを築きあげ、完成させなければならないということなのでしょうか。そうではありませんね。もし、そうなら、救いは神の力によるもの、神の恵みによって私たちに与えられるギフトでなくなってしまいます。イエス・キリストの救いはそこに何も付け加える必要のない完全なもので、ただ信じるだけで与えられるものです。自分で自分を救うことのできない私たちは、イエス・キリストの救いを信じる、信仰によってしか救われることはありません。キリストがその命を投げ出して勝ち取ってくださった救いは完全なものであり、私たちが自分たちのなんらかの努力で補わなければならないといったものではありません。

 「救いを達成する」というのは、神の始めてくださった救いを人間の力で完成させるということではなく、神が私たちを救ってくださった目的を果たしていくということです。私たちすべては、神によって目的をもって造られました。神はどの人にも目的を与えておられます。神は、私たちがその目的を知り、そのために生きていくように願っておられます。すべてのこと、すべての人に目的があるなら、まして、キリストによって救われた者たちには、もっと確かな目的があるはずです。神が、御子イエスを世に遣わし、御子の十字架の死をもってまで、私たちを救ってくださったのです。私たちは、目的なしに救われたわけではありません。神はなぜ、何のために私を救ってくださったのか、神が私に対してもっておられる目的が何なのかを知り、それを私たちの生活を通して、私たちの人生を通して果たしていくこと、それが救いの達成なのです。

 救われるというのは、教会の教えを受け入れたとか、大きな決断をしたとか、あるいは、気持ちを入れ替えたとかいう以上のものです。それは、いままで自分の考えに従って、自分のためだけに生きてきた私たちが、自分は神に造られ、救われたものだということが分かって、今度は神のために、神のご計画に従って生きていくということなのです。ですから、救いの達成の第一歩は、神の救いの目的、ご計画を学ぶことから始まるのです。

 今、インドネシアではイスラムの勢力が強く、クリスチャンの教会が焼き討ちされたりしていますが、今から30年ほど前には、インドネシアでリバイバルが起こり、大勢の人々がクリスチャンになりました。村ごと改宗するといっためざましい伝道がなされました。。私がまだ神学生だったころで、日本からも、インドネシアに宣教師として行っておられた方があり、そういう先生方のレポートを、興奮して聞いたものです。インドネシアにリバイバルがあったその頃、ある宣教師がインドネシアの人々に聖書のお話をすると、みんな喜んでそれを聞き、教会に来て、バプテスマも受けるようになるのですが、その宣教師がその人たちの生活を見て見ると、人々は信仰を持つまえと少しも変らず、あいかわらず村の魔術師にうらないを頼み、偶像礼拝をしていました。それでその宣教師は、そうしたものを捨て、そうしたものから離れるように言いいますと、人々は「それじゃぁ、もう教会に来ません」と元の生活に戻っていきました。イエスの十字架による救いの話をし、クリスチャンの生活について聖書を説いてもだめだったのです。そこでその宣教師は、万物の創造からはじまって、世の終わりにいたるまでの神の救いの計画、救いの歴史を教え始めました。人々は、神がすべてを造り、歴史を支配しておられるのだということが分かるにつれて、偶像を捨てることが出来、神が何のために自分たちを救ってくださったのかが明確になるにつれて、聖書にそった生活ができるようになったというのです。人々は、心が解放されたとか、慰められたというだけでなく、その世界観や人生観の変化を経験したのです。

 私たちも、イエス・キリストの救いの意味、計画を知り、それを聖書にしたがってきちんと整理して心にたくわえましょう。そして、救いの目的をつかみ、救われた者に与えられた目的を果たしていこうではありませんか。

 二、救いの達成の道

 さて次に、救われた目的を果たしていくということが、具体的にはどんなことかを学んでみましょう。今日は、12節と13節しか読みませんでしたが、15節を見ると、実は、ここには「救いの達成」の具体的な姿が描かれているのです。15節と16節のはじめまでを、ご一緒に読んでみましょう。「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」

 今日は、この中の「神の子どもとなる」ということばに注目しましょう。これはどういう意味でしょうか。イエス・キリストを信じた者はすでに神の子どもなのではないでしょうか。ヨハネ1:12に「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」とあり、ローマ8:14-16には「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます」とあります。確かに私たちはもうすでに神の子になっているのです。しかし、それは、神の子の身分を与えられているという意味であって、神の子としての性質が成長し、神の子としての生活が出来ているかというとそれはまだ完全ではないのです。私たちが神の子であるというのには、二つの面があり、一つは、神の子の身分を与えられ、神の子として取り扱われるという面、もう一つは、神の子とされた私たちが、現実の生活の中で、神の子としての性質を、実際に持つようになる、神の恵みによって、神の子らしく変えられていく、神の子としての行いをすることができるようになるという面です。ピリピ人への手紙で「神の子となる」、しかも「傷のない神の子となる」と言っているのは第二の面を表わしています。私たちは第一の面においてはすでに神の子です。神は、実際には、まだちっとも神の子らしくない、神の子としての性質も、行いも身についていなくても、神は、私たちをご自分を子どもとして扱い、愛を注ぎ、恵みを注いでくださっています。神の子としての身分や立場、特権は、救われた時にすぐに与えられ、それは変わることはありません。しかし、私たちが神の子としての性質を発揮していくには時間がかかるのです。私たちは、神の子としての性質を成長させていくこと、それは救われた目的の一つであり、「救いの達成」の一部です。

 イエスは山上の説教で次のように話されました。「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。」(マタイ5:43-45)イエスは、イエスを信じる者たちに「神は、あなたがたの父である」と仰って、イエスを信じる者たちを「神の子」として扱っておられます。しかし、同時に、「敵を愛し、迫害する者のために祈る」ことによって、神の子となりなさい、愛の神の子どもとなりなさいとも言っておられます。イエスは「あなた方はすでに神の子なのだ。だから、神の子らしくふるまいなさい」と教えているのです。救いの達成とは、自分の努力で神の子になることではなく、イエスの救いによってすでに神の子とされた者が神の子らしくなっていくこと、救われている者が救われた目的に生きることです。イエスを信じる者は「神の子である」という真理は今まで強調されてきましたが、「神の子とされた者は神の子として生きるべきである」という真理はおろそかにされてきたような気がします。しかし、「神の子が神の子として生きる」ということこそ、ホーリネスのメッセージではないかと思うのです。ホーリネスの信仰を持つ私たちは「神の子である」ということに安住して、「神の子となる」こと、救われた目的に生きること、救いの達成を目指すことを忘れてはならないのです。

 三、救いの達成の方法

 しかし、私たちはどのようにして、救いを達成することができるのでしょうか。それは、一歩一歩の積み重ねによってです。私たちは神の子どもとなったからといって、一足飛びに神の子どもらしくなるのではありません。神の子どもの身分が与えられたからと言ってすぐに神の子どもとしての性質が現われるわけではありません。目に見えないものが見えるものとして表わされるには時間が必要です。

 私も、アメリカ生活がかれこれ十年以上になり、今はアメリカでの生活にも慣れてきましたが、最初はいろいろ驚くようなことがありました。その一つは、ヴァキュームを買った時でした。ボックスを開けてびっくり、そこにはヴァキュームのパーツがばらばらに入っていて、自分で組立てなければならなかったのです。日本では、掃除機の中にごみ袋までちゃんと入っていて、箱から出したらすぐ使えるようになっていますので、ずいぶん違うものなだと思いました。さて、霊的なことを、実際的なことにたとえるには何らかの無理がありますが、それでも、アメリカのヴァキュームを救いにたとえてみることができるかなと思いました。私たちが受けた救いは、組み立ての必要なパーツのパケットのようなものです。私が買ったヴァキュームのパーツに壊れたものや足らないもの、不良品が何もなかったように、神のくださる救いは完全、完璧なものです。しかし、パーツを組み立てていかないと、それは本来の目的を達しません。掃除機のパーツが完全であっても、組み立てるまでは掃除ができないように、私たちも、キリストのくださった救いという無尽蔵の宝の入ったボックスから、私たちの生活のそれぞれの部分にフィットするパーツを探し出し、それによって私たちの人格を、人生を築きあげていく必要があります。神は、一人一人の人生にそれぞれ違った目的と使命をお与えになっていますから、ある人はパワフルな掃除機に、ある人は小回りのきく小型の掃除機にと、神によって組み立てられていくのです。時間をかけて、完成を目指していくのです。

 次に、神に思いを向けることが必要です。12節に「わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい」とありました。私たち人間は他の人の目があると、勤勉に働くのですが、人の目が届かないと怠けてしまいやすいものです。ピリピの教会には、パウロがいないということで、信仰がたるんでしまった人たちもいたのでしょうね。そんな人たちに、パウロは、「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。」と言っています。「従順で」「恐れおののいて」というのは、誰に対してでしょうか。もちろん、主に対してです。自分に従順になることを教えるのでなく、主に対して従順になることを教えるのが本当の指導者です。偉大な指導者であったパウロは、人間の指導者がいようがいまいが、人の目があろうがなかろうが、主に対して従順であり、主を恐れるようにと教えています。神を恐れ、神に思いを向けずして、私たちは救いの達成に向かうことができないからです。

 第三に、神への信頼が必要です。真面目な人が、なかなか信仰の決断ができないでいる理由のひとつは、「信仰を持ったとしても、果たして、最後まで信仰を保つことができるだろうか」という心配があるからだと思います。そんな私たちのために、神は13節のみことばを用意してくださいました。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」救いは神がはじめてくださいました。そして、神は、それを完成させてくださいます。救いの始まりも完成も、神の恵み、神の力によるのです。救いの開始から完成までの期間もまた、神の恵みによって進んでいくのです。私たちが救いの達成を目指して、忠実に、熱心に歩むなら、その途上もまた神の力によって支えられるのです。神が私たちに何かを命じられる時、神はかならずそれを成し遂げる力を与えてくださいます。自分たちの頑張りだけではいつか倒れてしまいます。私たちの主イエス・キリストは、「信仰の創始者であり完成者」(ヘブル12:2)です。このお方を見上げて、救いの道を歩きつづけ、救いの達成に努めようではありませんか。

 (祈り)

 私たちのうちに働きかけて、願いを起させ、かつ実現に至らせてくださる神よ、私たちはあなたに信頼しています。あなたが、私たちのうちにはじめてくださった救いのみわざをかならず完成させてくださると信じます。ですから私たちは救いの達成をめざすことができるのです。あなたの救いのご計画を、私たちに与えられた目的をさらに深く教え、私たちの救いを完成へと導いてください。信仰の創始者であり、完成者であるイエス・キリストの御名で祈ります。

1/14/2001