聖霊のコイノニア

ピリピ2:1-5

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2:1 そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、
2:2 どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。
2:3 何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。
2:4 おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。
2:5 キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。

 一、聖書にもとづくコイノニア

 新約聖書には「コイノニア」という言葉が17の箇所で使われています。コリント第一10:16とヨハネ第一1:3では、それぞれ2回づつ使われていますので、全部で19回新約聖書に出てきます。

 原語で同じ言葉が使われている箇所をたどっていくと、その言葉の意味を理解するのを助けてくれます。けれども、わたしたちが、そのように聖書の言葉を詳しく学ぶのは、たんなる学問的な興味からではありません。それによって聖書の教えを正しく知り、信仰を深め、聖書の教えの上にわたしたちの人生を築くためです。わたしたちは、聖書を神の言葉と信じる信仰に立っていますが、それは、聖書の霊感を信じるということにとどまらず、聖書に基づいた信仰を養い、聖書に従った生活をすることを目指すものです。そして、わたしたちの信仰が正され、生活が整えられていく場が、教会であり、礼拝なのです。

 ですから、教会は聖書の教えに従って建てられ、整えられていく必要があります。わたしたちは誰も、「教会とはこうあるべきだ」という信念や、「こんな教会が好きだ」という好みや、「こんな教会にしたい」という願いを持っています。しかし、イエスが「わたしは…わたしの教会を建てる」(マタイ16:18)と言われたように、教会はわたしたちの信念や好み、また、願いの通りに建ててよいものではありません。教会の主であり、かしらであるイエス・キリストが考え、願い、好まれるように建てられなければならないのです。教会のことを考えるときには、なによりも、イエスが教会に望んでおられることは何なのかを熱心に探り求める必要があります。わたしたちが聖書を学び、祈り、考え、話し合うのはそのためなのです。

 「コイノニア」という言葉は、教会とは何なのか、それはどうあるべきかを教えてくれる大切な言葉です。きょうは、ピリピ2章から「コイノニア」について学びます。2:1-2にこうあります。「そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。」ここでは「コイノニア」が「御霊の交わり」と訳されていますが、それは何を意味し、わたしたちに何を教えているのでしょうか。

 二、聖霊によって生まれたコイノニア

 「聖霊のコイノニア」というと、皆さんがまず思い起こすのは、コリント第二13:13だと思います。「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。」

 ここには、「聖霊のコイノニア」の他、「キリストの恵み」、「神の愛」という言葉もあります。「キリストの恵み」や「神の愛」という言葉が、「キリストが与える恵み」、「父なる神が与える愛」を意味するように、「聖霊の交わり」という言葉も、「聖霊が与えるコイノニア」を意味します。それは、つまり、聖霊によって生み出され、聖霊によって成り立つ「コイノニア」ということなのです。

 教会は、信仰者の「コイノニア」です。人が集まって出来上がるものです。しかし、この「コイノニア」は人の願いや計画、またその力によって始まったものではありません。それは、聖霊の力によって生み出されたものです。教会は、ペンテコステの日、聖霊の目に見えるしるしを伴って始まっています。炎や風、また様々な国の言葉というしるしばかりでなく、福音の宣教や悔い改めもまた、聖霊のしるしでした。ペテロが福音を大胆に語ることができたのも、人々が悔い改めに導かれたのも、聖霊の働きでした。その日、三千人がイエス・キリストへの信仰を言い表わしましたが、これらもまた聖霊のしるしでした。バプテスマを受けた三千人の人たちからなる「聖霊のコイノニア」が、その日、聖霊によって生まれたのです。

 イエス・キリストを信じる者は、聖霊によって神の子どもとして生まれました。教会は、ひとりの神を父とする神の子たちの「コイノニア」で「神の家族」とも呼ばれます。しかし、教会は、芸能人が、ファンに対するリップサービスとして、「家族の皆さん」と呼びかけるような意味での「家族的な集まり」ではありません。聖書で「神の家族」という場合、それは天使たち、聖徒たち、神の民などの天的なもの、また、おおやけのものを指します。教会は決して、プライベートな場ではなく、霊的にも実際的にもおおやけのものです。たしかに、教会には「アットホーム」な温かさが必要です。しかし、それは、人間的なものではなく、キリストが与えてくださる罪の赦しとそこから来る平安によるものです。そしてそこには「聖さ」も「責任」も求められます。どの家庭でも、ルールがあり、家族の間での責任分担があります。まして、教会はおおやけのものですから、なおさらです。「家族的」ということによって、そこに甘えやわがままが入り込んではいけないと思います。

 それにはどうしたらよいのでしょう。教会の「コイノニア」は聖霊によって生み出されたものであることを覚えて、それを聖霊によって保つことです。ガラテヤ3:3に「あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか」とあります。聖霊によって始められたものは、「肉」、つまり、人間的なもので、完成させることはできないという意味です。ガラテヤ人への手紙では、「聖霊による信仰」と「肉による律法の行い」とが対比されていますが、「コイノニア」の場合も同じです。聖霊によって生み出された「コイノニア」と人間的なもので作られる集団とは相容れないのです。教会で人間的に親しくなると、趣味が同じだとか、境遇が似ているとか、出身地が同じだとかいう結びつきができるようになります。それ自体は悪いことではないのですが、その結びつきが強くなりすぎると、「内輪」のグループになってしまったり、お互いに信仰的に訓戒し合うことが出来なくなったりしてします。聖霊によって生み出された「コイノニア」を人間的なものに置き換えようとすると、そういった危険が生じるのです。それでガラテヤ人の手紙は「御霊によって歩きなさい」(ガラテヤ5:16)「御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか」(5:25)と命じ、勧めているのです。

 三、キリストの心に結ばれたコイノニア

 わたしは聖霊が生み出してくださった「コイノニア」を今まで、数多く体験してきました。私は若くして牧師になりましたので、最初のころ、教会のメンバーはほとんど年長の方ばかりでした。教会の建物や墓地を建てるとき、最年長の方といっしょに働きました。その人にとっては、わたしは、息子くらいの年齢でしたが、彼は、そんなわたしをよく立ててくださり、わたしも全面的に信頼を寄せることができました。人間的に共通したものがないように見えても、ともに主と主の教会を思う思いによってひとつになることができたのです。

 また、わたしは日本で、アメリカから英語教師を招いて「英語クラス」を通しての伝道もしました。アジアの国々から研修に来てきた人たち、また、アフリカからの留学生も教会に、またわたしの家庭に招きました。言葉も文化も違いましたが、信仰のこととなると、ほんとうに楽しく語り合うことができました。

 今年のVBSには、韓国の方で、日本語、しかも、大阪弁を話す人が参加してくれました。おとなのクラスは例年より人数が少なかったのですが、その人がクラスで話してくれた証しにみんながとても励まされました。こうしたことはみな聖霊が生み出してくださった「コイノニア」でした。

 これは、最近、他の州の日本語牧師から聞いたことですが、ある韓国のクリスチャンが、普段親しくしている人ではないのに、一万ドルのギフトを持ってきて、「聖霊が導いてくださったから、必ず受け取ってください」といって、彼に渡したというのです。その時、彼は家族四人で10年ぶりに日本に一時帰国する計画を立てていて、その必要を祈り求めていたそうです。それを捧げた人は、この牧師の日本旅行のことなど何も知らなかったのです。これはまさに祈りの答えでした。聖書では「コイノニア」という言葉が「援助」という意味でも使われています(ローマ15:26、コリント第二9:13、ヘブル13:16)。彼に捧げられた「援助」は「聖霊のコイノニア」が具体的な形で表われたものだったのです。

 聖霊が生み出し、導いてくださる「コイノニア」はなんと素晴らしいことでしょう。それは、互いの信仰を励まし、具体的な助け合いを生み出します。けれども、「聖霊のコイノニア」の最も素晴らしいことは、わたしたちを「キリストの心」へと導くということです。

 きょうの聖書箇所、ピリピ2章は、一字一句、ゆっくりと、自分の心に語りかけるようにして、読みたい箇所です。この箇所でパウロは言っています。「そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。」(1-2節)ピリピの教会は、じつに模範的な教会でしたが、それでも、そこになお、「同じ思い」「一つ思い」が必要でした。パウロは「わたしの喜びを満たしてほしい」と言いましたが、パウロの喜びを満たすことは、キリストを喜ばせることに他なりませんでした。

 そして、キリストを喜ばせるものは「キリストの心」の他ありません。わたしたちが「キリストの心」を持つとき、はじめて、わたしたちはキリストを喜ばせることができるのです。ですから、こう言われています。「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。」(5節)キリストを信じる者が「同じ思い」を持つというのは、それぞれ考えていることを出し合って、その最大公約数をとって、それで一致するというものではありません。そうではなく、キリストを信じる者みなが「キリストの心」に導かれることによってです。キリストが進んでご自分を低くし、十字架を背負われた、この「キリストの心」を、みなが共に持つことなのです。みなが、このキリストの心へと、聖霊によって導かれていくこと、それが「聖霊のコイノニア」がもたらす恵みなのです。

 聖書が求め、聖霊が導こうとしておられる「一致」は、人間的に仲良くすること以上のものです。イエスは地上に残していく弟子たちのため、また教会の一致のために祈られた時、何度も、「それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります」(ヨハネ17:11, 21, 22, 23)と言われました。「父と子」の間にある「一致」が教会にあるようにと祈られたのです。イエスが教会のために祈られた「一致」は三位一体の神の中にある「一致」です。ですから、「聖霊の交わり」は「キリストの恵み」、「父の愛」といっしょに、三位一体の神からの「祝福」の言葉の中にしるされているのです。「キリストの恵み」も「父の愛」も無限であるように、「聖霊の交わり」も、もう、ここまででよいという限界のあるものではありません。わたしたちの思いをさらにキリストの心へと向けましょう。そこに「聖霊のコイノニア」があり、そこで、それが育ち、そこから、その祝福があふれ出るのです。

 (祈り)

 父なる神さま、わたしたちの「コイノニア」があなたの愛を表わすものであること、キリストの恵みに基づくものであること、聖霊によって生み出されたものであることを、なおも、わたしたちに深く教えてください。そして、わたしたちを主イエスが祈られた「一致」へと導いてください。キリストの御名で祈ります。

8/19/2018