6:22 ついで主はモーセに告げて仰せられた。アメリカでは別れるときに "God bless you!" という挨拶が交わされます。最近、別の町に行ったとき、一般のオフィスで帰り際に "God be with you!" と声をかけられうれしく思いました。日本語の「さようなら」は「さようならば、お別れいたそう」という武士の言葉から来たもので、神の御名が出てきませんので、ちょっと寂しい響きがあります。
6:23 「アロンとその子らに告げて言え。あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。
6:24 『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
6:25 主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
6:26 主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』
6:27 彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」
"God be with you." や "God bless you." はルツ2:4に出てくる挨拶です。ボアズが自分の畑にやってきたとき、そこで麦を刈っているしもべたちに、「主があなたがたとともにおられますように」("The Lord be with you.")と声をかけると、しもべたちは、麦刈りの手を休め、声をそろえ、ボアズに「主があなたを祝福されますように」("The Lord bless you.")と答えています。古代から教会の礼拝は "The Lord be with you." という呼びかけと、"And with your spirit." という応答で始まりました。2月に参加したウェストモント大学主催のセミナーでも、 "The Lord be with you." という呼びかけと "And also with you." という応答でワーシップの時間が始まりました。教会で「おはようございます」、「さようなら」という挨拶だけでなく、それ以上に神の祝福を祈りあう挨拶が交わされるなら、とても素晴らしいと思います。
一、祝福のみなもと
"God bless you." と聞いて嫌な気持ちになる人はいないでしょう。「祝福」という言葉は、誰の耳にも心地よい良い響きとなって残ります。しかし、反面、あまりにも一般化されてしまって、神の祝福の本来の意味が忘れられてしまっているかもしれません。もう一度、神の祝福とは何なのかを聖書で確かめておきましょう。
「祝福」という言葉が最初に出てくるのは創世記1:22です。こう書いてあります。「神はまた、それらを祝福して仰せられた。『生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。』」創造の第五日目、海と空に生きる魚や鳥への祝福が書かれています。次は、神が人間を造られたときで、創世記1:28にこうあります。「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」両方とも「生めよ。ふえよ。」という言葉が共通しています。神が命の源であり、命は神からの祝福であることが教えられています。
「人間も自然の一部、他の動物の命も人間の命も同じ」と考える人が増えていますが、聖書は、人間と他の動物の間には決定的な違いがあることを教えています。他の動植物は「種類にしたがって」造られましたが、人間は「神のかたち」に造られています。神は他の生き物にも海に地に満ちるようにと言われ、人間にも「生めよ。ふえよ。地を満たせ」を言われました。しかし、そのあとに「地を従えよ」と言われ「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」とも言われました。神は人間に、地に満ちるだけでなく、この地を開拓し、そこから資源を取り出し、それを利用する知恵、知識、能力をお与えになったのです。人間のこうした知恵、知識、能力は何億年もかけた進化の結果だと言う人がいますが、では、人間に姿の似たサルたちも、同じように何億年も生きてきたのに、なぜ、彼らの知恵、知識、能力には限界があるのでしょうか。他の生き物が「種類にしたがって」造られ、人間は「神のかたちに」造られたという以外に納得のいく説明はないと思います。
人間が「神のかたち」に造られたのは、人間が地を従え、他の生き物を支配することだけでなく、神とのまじわりを持つことにも表われています。創世記5:1−2に「神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名をアダムと呼ばれた」とあります。神は人間にだけ「アダム」という名前を与えて特別に祝福されましたが、他の動物には同じことをなさいませんでした。神はアダムに他の動物に名を付けさせました。聖書では「名前を付ける」という行為は、名付けたものに対する権威を表わします。アダムが他の動物に名前を付けるのを許されたのは、神が人間に「すべての生き物を支配」する権威をお与えになったことを表わしています。
「彼らが創造された日」とは第六日目です。神はその日人間を特別に祝福されましたが、それだけでなく次の七日目をも聖別され、神が人にご自分を顕わし、人が神をあがめる日、神が人を祝福し、人がその祝福によって生かされる日とされたのです。創世記2:3に「神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた」とあるとおりです。
神がくださる祝福には、家族、健康、財産など、目に見えるものとともに、神が人と共にいてくださること、神がその御顔を人に向けてくださり、人がその御顔を仰ぎ見て満ち足りるという、目に見えないものもあります。そして、この目に見えないもののほうが、より大切なのです。家族、健康、財産など、目に見える祝福は、じつは、目に見えない祝福から生まれてくるものなのです。レビ記26:17に「わたしは、あなたがたからわたしの顔をそむける。あなたがたは自分の敵に打ち負かされ、あなたがたを憎む者があなたがたを踏みつける。だれも追いかけて来ないのに、あなたがたは逃げる」とあります。人が、神と交わるという祝福から離れるなら、個人の生活は恐れに満ちたものになり、社会は混乱し、国家は敗北に終わると聖書は言っています。神が私たちから顔をそむけるられるのは恐ろしいことです。私たちは、神の祝福を軽く見てはいけません。いつも神の顔を慕い求めていたいと思います。
今朝の箇所に「主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように」と「御顔」という言葉が二度も出てきます。神の「手」という場合は、神の力のことを言い表わしていますが、神の「顔」という場合は、神のご人格を表わします。神の御顔を慕い求めるとは、自分の願う何かをしていただくという以上のものです。私たちが神を求めるのは、問題解決のときだけで、問題が解決したらもう神はいらなくなるというのは、「ご利益信仰」とか「苦しいときの神だのみ」と言われるものです。もちろん、苦しいときは神に頼っていいのです。神は「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」と言っておられるのですから。神は、神に助けを求め、祈る者に「わたしはあなたを助け出そう」と約束しておられます。しかし、そのあとで「あなたはわたしをあがめよう」との言葉を加えておられます(詩篇50:15)。神は私たちを助けたいと願っておられますが、その神の助けを通して、私たちがより神を深く知り、神と親しくなっていくことを、それ以上に求めておられるのです。
このように、神の祝福とは、神が人に御顔を照らし、御顔を向けてくださることです。神との平安に満ちたまじわりが祝福そのものなのです。
二、祝福の継承
神は人をご自分のかたちに造り、祝福し、守られました。神は人に御顔を照らして恵みを与え、御顔を向けて平安を与えられました。しかし、アダムとエバは罪を犯したとき、神の声に耳を塞ぎ、神の御顔を避けました。創世記3:8に「それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」とあります。創造のとき以来の祝福が人の罪のため、とぎれてしまったのです。アダムの子ども、カインは兄弟アベルを殺し、人は神の祝福から離れ、神を呪い、人を呪って生きるものになってしまいました。
しかし、神は、人が本来の祝福に立ち返ることができる道を備えられました。ひとりの人、アプラハムを選んで、彼の子孫を通して全世界が、罪から離れて神に立ち返り、神との交わりの中に生きるという祝福を受けることができるようにしてくださったのです。創世記12:2に「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる」と言われました。このアブラハムの子孫とは、イエス・キリストのことでした。イエス・キリストは、呪いの木である十字架にかかることによって、信じる者をいっさいの呪いから解放し、豊かな祝福へと移してくださるのです。
ですから、イエス・キリストを信じる者は、自らが神の祝福を受けるだけでなく、アブラハムと同じようにその祝福を他の人々に分け与える者とされたのです。アブラハムはやがて来られるキリストを仰ぎ見て、キリストに至る祝福を受け継ぎましたが、今日、キリスト者たちは、キリストが勝ち取ってくださった祝福を、この世界に広げていくのです。
初代のキリスト者は、人々から迫害を受け、呪われました。人々はクリスチャンを見ると、十字を切って、「あっちへ行け」と追い払ったのです。しかし、クリスチャンは十字を切るしぐさを呪いのしるしとしてでなく、祝福のしるしとして、みずから十字を切って祈るようになったのです。迫害に暴力をもって返さず、呪いにののしりをもって答えず、自分を迫害し、呪う者をも、祝福していったのです。ペテロ第一3:9に「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです」と教えられています。自分を迫害する者を呪いたい気持になるのは、当然のことでしょう。しかし、人間の基準では当然のことでも、神の祝福の中に生きた人々は、人間の生まれつきの限界を超えて、神のみこころに従い、それを実行していきました。
現代のアメリカでは、初代教会のような迫害はありません。人を呪いたいとまではいかなくても、怒らずにはおれないことや、「なんてひどい!」と叫びたくなることに直面することがあるかもしれません。そんなとき、聖書の教えを思い起こし、それを自分に言い聞かせましょう。「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」人を呪って、平安でいられる人はありません。しかし、人を祝福すれば、非難されたことでいらだつ心も静まり、平安を味わうことができます。たとえ相手がその祝福を受け取らなかったとしても、与えた祝福は何倍にもなって自分に返ってくるのです。
聖書にはいくつもの祝福の言葉がありますが、今朝の箇所は、神の祝福をみごとに言い表わしています。礼拝プログラムにこの箇所をプリントしておきました。
主があなたを祝福し、あなたを守られますように。この言葉を覚えましょう。祝福、それは神との親しい交わりに導き入れられることです。ふだんは神のことを忘れていて、ときたま思い出すというのでなく、常に神との交わりの中に生きることです。それは神の御顔を仰ぎ見ることです。祝福は私たちを神の恵みと神からの平安を与えます。
主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。
まず、自分のために祝福を求めましょう。聖書の<あなた>とある部分を<わたし>と読み替えてみましょう。
主が<わたし>を祝福し、<わたし>を守られますように。
主が御顔を<わたし>に照らし、<わたし>を恵まれますように。
主が御顔を<わたし>に向け、<わたし>に平安を与えられますように。
次に他の人に祝福を与えましょう。パートナーを選んでください。場所を動いてもかまいませんので、どうぞ二人一組になってください。心を込めて、聖書の言葉で互いに祝福を与え合いましょう。
私は、牧師として礼拝の最後に、皆さんに祝福を与えています。それはたんなる儀式でも、礼拝の終わりの合図でもありません。心から、主イエスの恵み、父の愛、聖霊の交わりを祈っています。父と子と聖霊との神の交わりが与えられるよう、祝福して祈っています。きょうも礼拝の最後に祝福しますが、きょうは特別に、みなさんから祝福をいただきたいと思います。どうぞ、みなさん、ご起立くださって、私を祝福してください。心を合わせ、声をそろえて、民数記の言葉で祝福を与えてください。今朝の説教は、皆さんの祝福で閉じたいと思います。
主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。
4/28/2013