9:9 イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。
9:10 イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。
9:11 すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
9:13 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
主イエスは「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」とおっしゃいましたが、私は、先週、本当に病人になってしまいました。火曜日の夜からおなかが痛み出し、水曜日の祈り会にも出られなかったほどでしたので、ドクターにアポイントメントを取りました。診察が済んだらすぐ帰ることができると思っていましたが、血液検査の結果が悪いからキャット・スキャンを取りに行くようにと言われ、それが終わったら、虫垂炎の疑いがあるからエマージェンシーに行くようにと言われ、すぐ手術を受けるように言われました。手術の前に桜井先生ご夫妻がエマージェンシー・ルームに尋ねてくださり、お祈りをしてくださいました。水曜日は午後からずっと病院にいて、手術を受けたのは夜中でした。木曜日に家に帰り、金曜日、土曜日の二日間、静養させていただきました。みなさんのお祈り、お見舞い、またお手伝いをこころから感謝いたします。
一、回復の旅
聖書で使われている「救い主」という言葉には「いやし主」、また、「医者」という意味があります。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」と言われたとき、主イエスは、あきらかにご自分を「医者」であると言われたのです。主イエスは、人々と、この世界を「罪」という死に至る病からいやすために来てくださった「いやし主」、また「救い主」なのです。すると、主イエスを信じ、主イエスに従っている人たちは「病人」であるということになります。そうです。主イエスが医者なら、私たちは「病人」です。
私がこう言いますと、皆さんは、「ちょっと待ってください。クリスチャンは、かつては病人だったけれども、イエスさまにいやされて、もう健康な者になったのではありませんか。」とおっしゃるかもしれません。確かに、イエス・キリストを信じた者は、死の病からいやされて、新しい命に生かされています。主イエスは、目の見えない人を見えるようにし、耳の聞こえない人の耳を開き、寝たきりの人を立ち上がらせ、らい病をきよめ、死人さえも生き返らせました。そのようにクリスチャンは、神を見る信仰の目を与えられ、神のことばを聞く耳を与えられ、神に従って歩む足を与えられ、きよめられ、永遠の命を与えられました。ぺテロの手紙第一2:22〜24に「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」とあるように、確かに、クリスチャンはいやされているのです。
しかし、もう医者が必要でないほどに完全になったのではありません。私は、今回、手術を受けて悪いところをとってもらいましたが、来週ドクターに診てもらうまでは、まだ、用心しながら生活しなければなりません。慢性の病気を持っている人は、生涯、医者にかからなければならないかもしれません。同じように、すべてのクリスチャンは、すでに死の病からいやされてはいますが、この地上ではまだ回復の段階にあって、主イエスのいやしが引き続いて必要なのです。
「クリスチャンになるまではキリストのいやしが必要だが、クリスチャンになったらもう要らなくなる。」というのは誤解です。どんなに信仰の成長した人でも、「私は、キリストを信じて健康になりました。私にはもういやしは必要ありません。私が教会に行くのは、自分のためではなく、まだ病気の他の人を助けてあげるためです。」と言うことはできません。どんなに成長したクリスチャンも、まずは自分自身のいやしのために教会に来るのです。そして、同じようにいやしを求める他の人たちと手をつなぎ、共に私たちの医者であるキリストのもとに行くのです。
初代から今日に至るまで、教会では「主よ、私たちをいやしてください。」「主よ、私たちをあわれんでください。」との祈りがささげられてきました。教会はたましいのいやしの場であり、それを通して世界のいやしを祈り求めるところでした。けれども、教会の中にビジネスの要素が入ってきて、教会は人数を増やし、組織を強くすることによって社会に影響を与えなければならないと考えられるようになりました。信仰の成長という目に見える結果がすぐには表われないもの、また、たましいのいやしなどという時間のかかることは後回しにして、「キリストを信じたら、すぐ奉仕をしなさい。」といって、人々を活動に駆り立ててきました。人々は活動によって満足を得てしまって、人間は human-being であって human-doing ではないということを忘れてしまったのです。実際、活動に疲れた人は教会を去っていきました。教会がいやしの場所でなくなったため、教会に来る人をいやし主であるキリストのもとに導くことができず、この世に神のいやしを届けることができなくなったのです。
私が今朝、教会に来ているのは、礼拝で役目があるからだけではありません。この礼拝で神のことばを聞き、神のことばによっていやされるためです。礼拝前に、礼拝の司会者、奏楽者、ワーシップ・チーム、そして説教者がピアノの近くに集まって、短い祈りをささげています。その時には、みなさんも、それぞれ心の中で司会者、奏楽者、ワーシップ・チーム、そして説教者のために祈っくださっていると思いますが、これからも、そうしてください。私は、その祈りの中で、「私たちは、今朝、礼拝で奉仕をしますが、奉仕者である前に、あなたを霊とまことをもって礼拝する礼拝者としてください。」と祈ります。礼拝は、誰か他の人のためにあって、それに私たちが「奉仕」するのではない。礼拝は「私」のためにある。私自身が礼拝を必要としているのです。
私たちは礼拝において、偉大な医者である主イエスから回復をいただくのです。私たちすべては、クリスチャンであるなしにかかわらず、主イエスのいやしと回復を必要としています。先にイエス・キリストへの信仰を与えられた者たちが自分自身の回復に真剣に取り組むなら、それが、今、信仰を求めている人たちへの大きな励ましとなるのです。私たちすべては「回復の旅」に招かれています。ごいっしょに、この旅を続けていきましょう。
二、回復の道標
旅行には地図と道標(みちしるべ)が必要なように、この回復の旅にも、地図と道標が必要です。私たちは聖書という地図をすでに持っていますが、この地図を読む助けとして「12(ツェルブ)ステップ」という道標を紹介したいと思います。「12(ツェルブ)ステップ」の名前をはじめて聞かれる方は、一体それは何だろうと不思議に思い、「12(ツェルブ)ステップ」を良くご存知の方は、「教会でも12(ツェルブ)ステップをやるんですか」と驚かれることでしょう。12(ツェルブ)ステップは、アルコール依存症の回復のために作られたもので、ロバート・スミスとビル・ウィルソンが1935年に Alcohlics Anoymous(AA)を始めた時に採用したものです。AA にならって Gamblers Anonymous, Co-Dependents Anonymous 等の団体ができましたがどれも、12(ツェルブ)ステップを取り入れています。12(ツェルブ)ステップは教会外で広く用いられていますが、もとは聖書に基づいて、クリスチャンの立場から作られたものです。今日では、アルコール中毒は単なる病気にすぎないと教えられています。しかし、12(ツェルブ)ステップでは、それを病気としてだけではなく、霊的な問題としてとらえています。ですから、12(ツェルブ)ステップは神と、悔い改めと、霊的な決断を教えるのです。
12(ツェルブ)ステップは、文字どおり、12(ツェルブ)の項目から成り立っていますが、その第1の項目に「私たちは私たちの依存症に対して無力であることを認めました。」とあります。ここでいう依存症というのは、何も、アルコールやドラッグばかりではありません。買い物中毒もあれば、ケータイ中毒やインターネット中毒というのもあります。ストレスがたまると制限なく食べ物を食べる Overeat という依存症もあります。Alcohlic ならぬ Workholic(仕事中毒)にかかっている人も多いようです。仕事中毒というのは、仕事に勤勉であるというのではなく、仕事に没頭してさみしさをまぎらわせたり、自分の心の中にある問題を、それとは関係のない仕事上の成功で解決しようとするものです。問題は他のところにあるのに、それに取り組まないで、一時逃れのために、習慣的に何かをすること、それが依存症です。習慣が続くと、原因がなくても、それをせずにはいられなくなります。そして依存症が昂じると、それによって精力を使い果たし、社会から引きこもり、自分を偽るようになり、意志の力をなくし、集中力がなくなってきます。病名のある、なし、また、その程度の重い、軽いは別にして、現代人はなんらかの依存症を持っており、その結果、惨めな生活を送っている人が多いと言われています。
この依存症からの解放は「自分の無力を認める」ことからはじまります。それが、回復の第一歩です。どんなことでも、自分の問題を認めなければ、解決はありません。人によって違うでしょうが、男性は女性にくらべて医者にかかりたがりません。おそらく、自分は大丈夫という思いが、女性にくらべて強く、自分の弱さを素直に認めるのが難しいのでしょう。しかし、病気になれば、医者のところにいかなくてはいけません。医者自身が病気になった場合でも、自分で診断して、自分で手術をしてというわけにはいきません。他のドクターにかからなければなりません。しかし、病気でも、痛みなどの自覚症状がなければ、自分は大丈夫と思いこんで、手遅れになってしまいます。そういう意味では痛みもまた恵みなのですが、アルコール依存症の人は「自分は酔っていない。」「自分はたいして飲んでいない。」といって、現実を否定する傾向があります。ドランク・ドライブで捕まっても、自分が悪いのではない、と言い張ります。警察の取り調べを受けたり、ジエイルに行ったりしても、それがとんでもないことだという意識がないのです。ある日突然仕事をやめてきたり、それがどんなに重大なことであるかを意識できず、考えられないような行動を平気でするようになります。どうにもならない状況になっても、まだ、何とかできると信じているのです。このように、自分の問題を認めず、現実を否定し続けていると、人格の病気になってしまいます。
この箇所に出て来るパリサイ人も、同じように自分の問題を認めない人たちでした。主イエスの弟子となった人々を横目で見ながら、「自分たちはあんな程度の低い人間ではない。自分たちには問題がない。イエスの説教は、あの人たちには必要だが自分たちにはいらない」と考えていた人たちでした。彼らは「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」と、弟子たちに言いました。これは質問の形をとっていますが、決して謙虚な質問ではありません。それなら、直接イエスに尋ねれば良いのです。これは、明らかにイエスに対する批判であり、弟子たちを困らせるためのことばでした。パリサイ人のことばを耳にし、困っている弟子たちを見て、イエスは戸口まで出向いてきて、言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
自分には問題はない、あってもまだまだ大丈夫、なんとか自分でやっていけると考えているうちは、問題の解決はやってきません。自分の問題を自分では手に負えないものとして認め、主イエスを求める人だけが、いやしを受け、回復に向かうことができるのです。12(ツェルブ)ステップの第一のステップ、「自分の無力を認めること」は、問題の解決を求めるすべての人に当てはまる真理です。
三、回復の目標
「12(ツェルブ)ステップ」は、依存症に悩む人のためだけにあるのではありません。すべての人の霊的な成長のためにあります。伝道の時に「4つの法則」を使うのと同様に「12(ツェルブ)ステップ」は、私たちの霊的な成長のために役立てることができます。依存症からのいやしは霊的な成長にかかっています。霊的に成長すれば、かならず、依存症からいやされます。霊的な成長がなければ、人は簡単に依存症に逆戻りしてしまいます。霊的な成長といっても、それは聖書の知識をたくさん頭に詰め込むこと、立派に仕事をこなし、こどもを躾け、ありとあらゆる教会の活動に参加するといった、いわゆる「Aクラス」のクリスチャンになることではありません。本当に霊的に成長することと、背伸びをすることとは違います。本当の霊的成長とは、罪のために壊されていたものがひとつづつもとにもどり、イエス・キリストにある本来の自分に立ち返っていくことなのです。私たち人間は、神のかたちに造られた素晴らしい存在です。この「神のかたち」というのは、人間の知恵や知識、また能力のことだけを指しません。それは、なによりも、神を愛し、他の人を愛することができる人格を指しています。霊的成長というのは、人より立派になろうとして競争することではありません。イエス・キリストによって、本来の自分を取り戻すことなのです。イエス・キリストに目を向け、キリストに近づいていくことなのです。
罪人であり、不完全な存在である私たちは、何らかの問題をかかえながら生きています。たとえ、外側の行動は問題が無いように見えても、内側には、神の光が届いていないものを持っていることが多いのです。オックスフォード大学の教授であり、リージェント・カレッジを創設し、初代学長となった James Houston 先生が昨年 Joyful Exiles という本を出版され、それが今年、『喜びの旅路』という題で日本語に翻訳されました。私は、この本をみなさんにぜひ読んでいただきたいと思い、いろんな人に宣伝しているのですが、その中で Houston 先生は、こう書いています。
若い頃、私は霊的な人間になりたいと思っていましたが、実際はそうではありませんでした。謙遜な者になりたかったのですが、そうではなかったのです。一貫性のある人になりたかったのですが、実際の私は臆病で、矛盾の塊でした。Houston 先生は、宣教師だった両親から良い信仰を受け継ぎ、J. I. Packer や C. S. Lewis などという霊的指導者に恵まれ、霊的な体験を積み重ねてきた人です。どこから見ても、非のうちどころのないような先生でも、正直に自分を見つめた時、自分の中にある問題を否定をすることはできませんでした。先生は自分の問題を認めることができたゆえに、神に近づくことができ、先生自身も多くの人々の霊的な指導者になることができたのです。
自分の無力を認めることは勇気のいることです。無力な私を助けてくださる方がもしいなければ、私たちは自分の力にしがみつくしかないのですが、私たちには、全能の神がおられます。神は力に満ちておられるだけではなく、愛とあわれみと恵みに満ちたお方です。「全能」にたいして「全愛」という言葉はありませんが、もしあるなら、神はまさに、「全愛全能」の神です。神は、その愛の腕、力の腕で、自分の無力を認める者を受け止めてくださいます。この神を見上げ、神に近づく第一歩をごいっしょに踏み出そうではありませんか。
(祈り)
父なる神さま、私たちはみな、私たちのうちに刻まれた「神のかたち」を取り戻すという霊的な旅に招かれています。この旅路は決して楽なものではありません。また、その道は狭い道です。しかし、主イエスが私たちと共にいてくださるなら、私たちは信仰と祈りによってこの道を歩むことができます。主よ、私たちと共にいて、この旅路を導いてください。聖霊とともにあなたの栄光のうちにおられる、私たちのいやし主イエス・キリストのお名前で祈ります。
9/2/2007