8:5 さて、イエスがカペナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った、
8:6 「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」。
8:7 イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。
8:8 そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。
ある人から、こんな質問を受けました。「わたしは主の晩餐にふさわしいのでしょうか。主の晩餐に備えて『自分を吟味しなさい』とありますが、『自分を吟味する』とはどういうことなのでしょうか。」この人が、そのような質問をしたのは、晩餐式を大切に考えていたからでしょう。晩餐式を大切にすることは、それが指し示すイエス・キリストを大切にし、それを定めている御言葉を大切することですから、わたしはこの質問を受けてうれしく思いました。
残念なことに、晩餐式は、わたしたちの間で、それほど大切にされてきませんでした。「次週晩餐式があります」とあらかじめ報告されていても、礼拝に来て、はじめて晩餐式があることに気付くことがあるかもしれません。そうだとしたら、聖書が教えるように「自分を吟味する」時間を持つことはできません。そのため晩餐式が形だけのものになってしまいます。
わたしは、「誰が主の晩餐にふさわしいのでしょうか」という質問に、「晩餐式のときに、その主題でお話しします」と答えましたが、きょう、その約束を果たしたいと思います。
一、信仰
主の晩餐にふさわしい人、それはまず、「イエス・キリストを信じてバプテスマを受けた人」です。晩餐式でわたしたちがすることは、イエス・キリストへの信仰を言い表わすことなのですから、イエス・キリストがわたしの罪のために死んでくださり、わたしを救うため復活してくださったことを信じる信仰、そのことをバプテスマによっておおやけに言い表わした信仰がなくては、晩餐式は成り立ちません。
バプテスマは旧約時代の割礼、主の晩餐は過越の食事と比べることができますが、過越の食事は無割礼の者には与えられませんでした。出エジプト12:48に次のように書かれています。「寄留の外国人があなたのもとにとどまっていて、主に過越の祭を守ろうとするときは、その男子はみな割礼を受けてのち、近づいてこれを守ることができる。そうすれば彼は国に生れた者のようになるであろう。しかし、無割礼の者はだれもこれを食べてはならない。」このように、主の晩餐もバプテスマを受けた者が、これにあずかるのです。
教会の歴史のごく初期の様子を伝えてくれる歴史資料のひとつに『十二使徒の教訓』(ディダケー)という著作があります。そこには「主の名をもってバプテスマをさずけられた人たち以外は、誰もあなたがたの聖なる食事から食べたり飲んだりしてはならない」と記されています。これは、初代教会以来、どの教会でも当然のことでした。
ところが、ごく最近になって「主の晩餐をバプテスマを受けている人に限るのは良くない。誰にでも与えるべきだ」と言う意見が聞かれるようになりました。しかし、それでは主の晩餐がイエス・キリストの十字架と復活を覚える信仰の行為でなくなり、人間的な連帯や一致を表わすためだけの、「仲良しの食事」になってしまいます。それは、十字架を前にしてパンを裂き、ぶどう酒を注ぎ、「これはわたしのからだ」「これはわたしの血」「わたしを覚えてこのようにしなさい」と言われたイエスの教えとお心をないがしろにすることになります。確かな信仰を持たないで晩餐にあずかってもそれはその人の益にはならないのです。
バプテスマと主の晩餐を大切にするわたしたちは、ひとりでも多くの人が信仰を持ち、バプテスマによってそれを言い表わし、主の晩餐にあずかることができるようにと真剣に祈り続けていきたいと思います。
二、悔い改め
主の晩餐にふさわしい人は、次に「悔い改める人」です。そして、悔い改めに必要なことが「自分を吟味する」ことなのです。
ある年齢になると一年ごとの健康診断が必要になります。自動車も、三万マイルごとの点検が必要です。大陸横断ラリーなどの過酷なカーレースには、車の整備をするチェックポイントがあります。そのように、わたしたちの信仰も、毎週の礼拝というチェックポイントによって正されていくのですが、とりわけ、晩餐式は重要なチェックポイントです。それで、聖書は「ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい」(コリント第一11:28)と言って、晩餐式の前に、それに備えて自分を点検するよう教えているのです。
この「吟味する」という言葉には、「念入りに検査する」という意味があって、「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい」(コリント第二13:5)「おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい」(ガラテヤ6:4)などといったところで使われています。わたしたちの神との関係、人との関係は大丈夫だろうかと、時間をかけて念入りに点検するのです。
もちろん、その点検の基準は神の言葉です。自分の基準で自分を点検しても、甘くなってしまうか、厳しすぎてしまうかのどちらかになり、正しく自分を吟味することができません。また人と比べてもだめです。詩篇119:105に「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です」、詩篇139:23-24に「神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください」とあるように、御言葉に照らされ、晩餐式のたびごとに神に点検していただく時を持ちたいと思います。
自己点検をするとき、悔い改めるべき罪にどんなものがあるかを知っておくとよいと思います。罪にはいくつかの種類があります。誰の目にも明らかなのは、神がしてはいけないと禁じられたことをしてしまう「違反」の罪です。また、神がしなさいと言われているのに、それをしない「怠惰」の罪もあります。悪いことをしなければそれで罪がないというわけにはいかないのです。わたしたちは神がわたしたちに求めておられることをしないでいる罪がなんと多くあることでしょうか。さらに、何かを一所懸命やっていたとしても、その動機や目的が間違っている「的外れの罪」もあります。自分のしていることが神への愛から出たもの、神の栄光ためなのだろうか、それとも、自己実現や自己満足のためではないだろうかと、動機や目的を点検する必要があります。さらに、理性や感情、意志の領域に根付いている罪もあります。理性ついて言えば、聖書に基づいた確かな人生観や世界観がないためにこの世の流れに流された歩みをしていないだろうか、感情について言えば、怒りや妬みなど処理されなければならないものを持ち続けていないだろうか、また、意志について言えば、神の国とその義とを第一に求める堅い決意があるだろうかということも神に探っていただきたいと思います。
このような自己点検は、時に苦しいものですが、それに導かれて、神の前に悔い改めるとき、いいようもない喜びと平安がやってきます。悔い改めは恵みです。それによって罪の赦しを確信し、神との深いまじわりに導かれます。悔い改めによって、わたしたちは、癒やされ、変えられ、新しくされていくのです。
DBA(ダラス・バプティスト・アソシェーション)には牧師たちのために In His Presence Retreat というのがあって、こうした自己点検をする機会があります。個人ではなかなかできない自己点検と悔い改めも、個人やスモールグループで指導を受けることによって、たやすくできるようになります。毎月の晩餐式とともに、すくなくとも年に一度は、教会に集う全員がそうした機会を持ち、悔い改めの恵みにあずかることができたらと、願っています。
三、恵み
主の晩餐にふさわしい人、それは何よりも「キリストの恵みに信頼する人」です。
バプテスマや主の晩餐は、わたしたちの信仰の行為ですが、同時にそれは神の恵みの手段です。バプテスマや主の晩餐は、わたしたちの信仰を神に届けるための通路であるとともに、その信仰に答えて神が恵みをくださる通路でもあるのです。つまり、バプテスマや主の晩餐で、わたしたちの信仰と神の恵みとが出会うのです。
マルチン・ルターは宗教改革の激しい波にもまれ、しばしば、悪魔の誘惑に遭いました。そのような時、「わたしはバプテスマを受けている」と机の上に書いて、誘惑を退けたと伝えられています。バプテスマは、わたしが神を信じ、キリストに従うという信仰を言い表わすものですが、神は、同時に、そのバプテスマによって、信じる者が神の子どもであり、永遠の命を持っていることを保証してくださるのです。
主の晩餐も同じです。イエス・キリストは、信仰をもってパンを食べ、ぶどう酒を飲む者に、「わたしはあなたと共にいる」という保証をくださるのです。真実に悔い改めて晩餐にあずかる者は、「子よ、あなたの罪は赦された。平安のうちに行きなさい」との、キリストの声を聞くことができるのです。ですから、バプテスマを受けること、主の晩餐にあずかることは、信仰においてなくてならないことなのです。
しかし、主の晩餐は、わたしたちが感謝にあふれている時にだけ巡ってくるとはかぎりません。試練の真っ只中にいる時や、大きな失敗を犯して、自分の罪深さをいやというほど思い知らされる時に、主の晩餐が巡ってくることがあります。そんな時、こんなわたしがパンを取っていいのだろうか、杯を飲んでいいのだろうかと思うことがあるかもしれません。主の晩餐のある礼拝を休んでしまいたいと思うこともあるでしょう。しかし、そんな時は、主の晩餐が人間の発明したものではなく、主が制定してくださったものだということを思い起こしましょう。主の晩餐は、あずかりたいからあずかる、気が進まないから控えるというようなものではありません。主ご自身が「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」と命じてくださっているのですから、その命令に従うことが大切です。信仰とは、主と主の言葉への従順です。自分の落ち込んだ気持ち、悲しみ、痛みや混乱などを乗り越えて、「取って食べよ」との主のお言葉に従う時、そこから信仰が息を吹き返すのです。
主がその晩餐に招いておられるのは、自分こそ主の晩餐にふさわしいと心ひそかに考えている「完璧なクリスチャン」ではありません。むしろ、「自分は主の晩餐にふさわしくないのではないだろうか」と真剣に悩む人です。「自分はふさわしいだろうか」と考えるところに、自己吟味があり、悔い改めがあるからです。そして、そこに恵みが注がれるのです。
きょう朗読した箇所には、百人隊長が、彼のしもべのために、イエスにいやしを願ったことが書かれています。イエスは「行ってなおしてあげよう」と言われましたが、この百人隊長は「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません」と答えています。別の福音書によると、この百人隊長はユダヤの長老たちが口をそろえて「あの人はそうしていただくねうちがございます。わたしたちの国民を愛し、わたしたちのために会堂を建ててくれたのです」(ルカ7:4-5)と言ったほどの人なのに、彼自身は「自分にはイエスをお受けする資格はない」と言っています。そして、イエスに来ていただくかわりに、イエスのお言葉をくださいと願いました。イエスはこの百人隊長の信仰をほめ、「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われました。そして、そのとき、彼の僕はいやされたのでした。
この百人隊長の言葉は、晩餐式の式文に取り入れられ、主の晩餐を受け取る直前の祈りとなりました。その祈りでは、主の晩餐を受ける自分自身を百人隊長と病気の僕に見たてて、こう祈ります。「主よ、わたしはあなたをお受けするのにふさわしくありません。ただお言葉をください。そうすればわたしは癒やされます。」こう祈ることによって、わたしたちは、晩餐にあずかることができるのは「恵み」以外の何ものでもないことを言い表わすのです。「恵み」とは、「それにふさわしくない者に与えられる神の愛」のことなのですから、形をとった「恵み」である主の晩餐には「ふさわしいと思う者がふさわしくなく、ふさわしくないと思う者がふさわしい」のです。
1562年にドイツでつくられた『ハイデルベルグ信仰問答』は、このことを次のように言い表しています。「問い、どういう人が、主の晩餐にあずかることができるのでしょうか。」「答え、みずから、自己の罪の故に自己を嫌いながらも、なおも、この罪がゆるされ、他の弱さも、キリストの苦難と死とをもって、覆われることを信じ、また、ますます、信仰を強められ、その生活を、改めたい、と切望している者たちであります。」これは、聖書が教えていることを、見事に、美しく言い表わしています。本来ふさわしくないものを、ふさわしいものとして扱い、また、ふさわしいものへと変えてくださるキリストの恵みを信じて、主の晩餐にあずかりましょう。
(祈り)
父なる神さま、わたしたちは本来、主の食卓にふさわしいものではありません。この食卓に連なるたびに、わたしたちの罪を赦し、またきよめてくださる主イエスの恵みに心打たれます。この食卓にあずかるたびに、その恵みに信頼し、その恵みに変えられ、その恵みを伝える者としてください。主イエスのお名前で祈ります。
8/27/2017